2024年6月16日日曜日

香川2 高松城の堀は鯛がうようよ

夜行バスで四国に来た。

朝8時前に高松駅に着いた。

8:15
駅前は宇高連絡船の時代の線路が撤廃され、広々した敷地にホテルなどが立っている。
その広場のすぐ東に高松城址がある。
8:18
駅に向かう通勤者とすれ違い、城に向かう。
城址一帯を高松市立玉藻公園という。
万葉集で柿本人麻呂が讃岐の枕詞で「玉藻よし」と詠んだことから、このあたりを玉藻の浦と言われたことにちなむ。
8:21
高松城は陸地に比べ濠の面積が広い。
(利根川、江戸川分岐点の関宿城もそうだった)
ほとんどの城が陸地に濠を掘ったのに対し、ここは海面を埋め立てたのだろうか?
8:22
入場料200円 5:30開門は早い。
西門を入ると二の丸。
二の丸を蛸橋に向かう。
ゴミ籠かと思ったら「まつぼっくり収集ぼっくす」。
当局は籠を「ぼっくり」に似せてひらがなの「ぼっくす」にしたが、「まつぼっくす」とまではしなかったようだ。
ところで皆のクリスマスツリーに使うというが、昨年ちゃんと拾っていればクリスマスから翌年の秋まで落ちていないのでは?(それとも冬の風で落ちるのかな?)
8:25
タコが釣れた蛸橋かと思ったら鞘橋だった。
屋根がついて刀のさやのような形状から。
ちなみに鞘橋というと琴平の金毘羅参詣の本道に架かる橋のほうが有名。
8:25
鞘橋から西をみると琴平電鉄の高松築港駅にかわいらしい電車が停まっていた。
8:26
橋から東を見れば本丸跡の石垣。
この橋は二の丸から島状の本丸へ行く唯一の通路だった。
8:27
天守台に上がる。
シルバーの人が何人か草取りしていたが、これだけ広いと意味があるか。
8:28
天守台跡
松平時代は3重5階(3重4階+地下1階)で、四国最大規模を誇っていた。
明治17年、老朽化を理由に取り壊された。
8:29
本丸から北を臨む。
左:二の丸、右:三の丸(披雲閣)
8:30
本丸から二の丸に戻る。
8:35
二の丸から三の丸にわたる途中水門がある。
海面の干満により濠の水位が変わらぬよう、調節するらしい。
8:36
松平家藩祖頼重公以来、高松は水練が盛んだったそうだ。

三の丸にわたる。
松平時代、ここには披雲閣と呼ばれる(現在の2倍ほどの)建物があり、藩主の住居と政庁があった。
8:38
大きく平らな敷石が良い。
讃岐はサヌカイトが有名だが、これは何の石だろう。
8:39
披雲閣は明治になって老朽化により取り壊され、その後大正時代に現存する建物が完成した。現在は市民が会議、茶会、華展などに利用している。
8:41
披雲閣の西側
庭木がソテツというのが珍しい。

三の丸の北(海)のほうに行ってみる。
8:45
月見櫓から瀬戸内海を見る。
かつては海面が櫓の下まで来ていた。
「汐見櫓」では当たり前すぎる(というか、城内どこからでも海が見える)からこの名にしたか。(月のほうが海より愛でられた?)

いかにも新しい道路は水城通りという。それと高松港の間に小さな櫓がある。
報時鐘として松平家初代藩主頼重が建て、明治33年(1900)に四番丁小学校校庭 に再建、昭和8年小学校改築に伴い玉藻公園に移り、1980年、さらにここに移ったという。

月見櫓から披雲閣に戻る。
8:46
披雲閣の北側から松の間をみる。
中には142畳敷の大書院(おおじょいん、武家では客間)があるという。
8:48
南側にまわると披雲閣の正面玄関
「旧松平家高松別邸」とある。
8:49
玄関前の盆栽台はソテツか棕櫚の丸太であった。
8:51
披雲閣の東に立入禁止区画がある。
松平家の関連家屋だろうか?
ちなみに現在、高松松平家の屋敷は駒込にあり、何度も前を通っている。

高松松平家は文京区と関係深く、ちょくちょく「千駄木菜園」ブログにでてくる。
上屋敷は外堀を挟んで本家・水戸上屋敷の向かいの千代田区にあったが、中屋敷、下屋敷は文京区にあった。


明治以降の墓地は、私が千駄木に来た頃は谷中墓地の一角に広大な墓域を持っていたが、数年前に高松に改装され空き地となった。


最後の高松藩藩主(11代)松平頼聰を継いだ12代松平賴寿の屋敷は文京区の水道橋付近にあり、貴族院議員のかたわら、旧本郷区の教育長を務め、区内に(旧制)中学の設立に尽力した。敷地が本郷区内に得られず、当時賴寿氏の母(千代子、井伊直弼次女)が住んでいた染井邸の一部に1922年、校舎を建設した。資金の多くが本郷区民からの寄付で、本郷区に中学校を設立するという当初の目的から、のちに住所が豊島区となってしまうが名は本郷学園とした。

 20190715 本郷中学は豊島区にあるがーー松平賴寿のご子孫

ところで、今さらの話だが、高松の松平家は御三家・水戸家の分家である。
水戸家初代徳川頼房(家康の11男)には嫡男・頼重がいたが、家督は三男・光圀が継いだ。頼重は人間的に問題があったわけでないため、御三家嫡男を考慮されたか、高松12万石を与えられた。水戸の支藩(陸奥守山など)、紀州、尾張の支藩(伊予西条、美濃高須)などが2万石から3万石であったのに比べると破格である。


さて、高松城址の散策に戻る。
披雲閣の東南に陳列館がある。
入場無料。
8:51
陳列館内部
8:52
現在の市街地との関係
本丸から時計回りに二の丸、三の丸(北の丸)、桜の馬場、西の丸、海、東の丸、外曲輪となっている。
外曲輪の外の外堀はすぐ埋められ市街地となり、桜の馬場、西の丸の外の中堀も東側を除いて埋められた。内堀も二の丸の西は琴電の駅などになってしまった。

高松駅から駅前広場のJRクレメントホテル、高松サンポート、合同庁舎などの場所は、かつて海であった。二の丸、三の丸の北の石垣を洗っていた海は、明治以降高松港が築かれ、城から離れた。

かといって高松城の場所が昔、海だったということではない。
古墳時代の高松城付近。
二の丸、三の丸あたりから土器が出ることから、築城以前も陸地だったようだ。

人麻呂の玉藻よしの浦に城を築いたのは生駒親正である。
信長の家臣だったが秀吉に付けられ、信長死後は秀吉の家臣となった。山崎の合戦以降、知行は1000石から着々と増やし、1595年には讃岐12万石を与えられ高松城と丸亀城を築城した。関ヶ原では子(高松藩2代)の一正が東軍に与したため、讃岐一国は安堵された。
しかし、4代目の生駒高俊が政務を放り出して美少年を集めて遊興に耽ったこともあり、家臣団の間で内紛が起き(生駒騒動)、幕府の知ることとなり、1640年、取りつぶしとなった。

このあと1642年、高松に入封したのが先に書いた松平頼重である。彼は家康の孫にあたり、本来水戸家を継ぐ立場だったが、常陸国下館5万石にいた。父の頼房が将軍家光や二人の兄(尾張、紀州)に先だって嫡男をもうけたことを憚って、水戸家の家督を三男の光圀にしたともいわれる。しかし頼重は従兄の家光と仲が良く、高松12万石を与えられたのは幕府の意向が働いた。
以後、水戸家の支藩ではあったが、独立性が高く、彦根井伊家・会津松平家と共に代々江戸城の伺候席が溜詰(将軍の執務空間である「奥」に最も近い)という高い家格を維持し、11代頼聰で明治を迎えた。

8:59
10分もかからず陳列館を出た。
いつも私の見物はあっさりしている。

披雲閣、陳列館のある三の丸から南に出るのは桜御門。
まだ新しい。米軍の高松空襲で焼失したが、2022年、77年ぶりに再建されたという。
9:01
桜御門を出ると桜の馬場。
南東に艮櫓がみえた。
艮は丑寅だから本来は北東、東の丸にあった。1965年、当時所有していた国鉄から高松市が譲り受けた時、ここに移築した。いま艮櫓台のあとは県民ホールになっている。
9:01
桜の馬場
三の丸の次の曲輪は、ふつう四の丸とは言わない。
いかにも市民が花見をする憩いの場という雰囲気だった。
高松市はいいものをもっている。

三の丸を内堀に沿って戻る。
9:05
三の丸から本丸天守台をみる。
濠には見慣れぬ魚が泳いでいる。
9:06
ガチャガチャのような機械に「鯛願城就」とある。
大願成就と同音でも城就に意味がないから、あまり上手な言葉でない。
要するに魚のエサやり体験場。
エサは100円。
くじ付きで「あたり」がステッカー、「大当たり」がピンバッジというが、余計な気がする。

天守台との間の内濠を覗き込むとクロダイが寄ってきた。
でもエサは上げないよ。
9:07
なぜ、人影で寄ってくるのか、数年前、高崎城でも思ったが、魚というのは思ったより知能が高いのではなかろうか。

ここに来るまで、ほんとうに海水かどうか分からなかったが、群れるクロダイをみて、舐めなくても間違いなく塩水のようだ。

二の丸に入り、西口から高松城址を出た。

駅に向かう途中、21階建てのJRホテルクレメント高松があった。
ちょっとお邪魔して、レストランのある20階に上がってみた。
まだ営業時間前なので誰もおらず、灯りすらついていなかったが、光のほうに行くと外が見えた。
9:15
東を見ると高松港と屋島。
屋島はちょっと行けないので、ここで見られて満足した。

屋島は、義経が弓を流し、那須与一が扇の的を射った源平合戦のころからずっと文字通り屋根のような島だった(干潮時には騎馬で渡れた)。しかし、江戸時代の新田開発により陸続きとなった(ただし相引川で四国本島からは離れている)。
溶岩が湖など窪地に入ったあと隆起し、その後浸食され、上部の硬質のサヌキトイド(サヌカイト類、讃岐岩質安山岩)がキャップロックとなって残った独特の台地である。
9:16
目を右に転ずると、先ほどまでいた高松城址。
中を歩いているときは広いと思ったが、上から見ると、琴電の駅や線路、県民ホール、海側の道路など、ずいぶん色んなものに囲まれ、昔と変わったことがわかる。今の城址・玉藻公園は往時の城域の8分の1ほどだという。

ちなみにホテルクレメントの隣に高松シンボルタワーというものがある。今調べると29階に展望スペースがあったようだ。

高松松平家というのは、文京区にいるといちばん身近に感じる大名家であり、また、その居城、高松城は海水を取り込んだ日本三大水城(ほかは今治城、中津城)の中で一番保存状態が良いため、四国で一番見たいところだった。朝到着して1時間ほどで見ることができ、満足して駅に向かった。

このあと讃岐国分寺を見るため予讃線に乗った。
(続く)

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