2025年4月23日水曜日

赤穂は江戸時代最先端だった名城を復元しつつある

クルーズ船飛鳥IIが横浜を出て二回目の朝の3月25日、姫路に入港した。

乗客は船内で映画、読書、食事、スイーツなどゆったり楽しんでいても良いのだが、観光に降りる人もいる。彼らはほぼ全員姫路城を目的地とする。

しかし私はこの名城を以前見たことがあり、立派だけどもう一度見たいとも思わない。インバウンド客で混んでいたら嫌だし。
そこで少し離れているが赤穂に行くことにした。
理由は後で述べる。

ちなみにアコウと入れても難なく変換される。

飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅まで行き、そこから山陽本線に乗る。
電車は相生から赤穂線に入り、播州赤穂まで30分、590円。1時間に1本程度ある。

赤穂駅から三の丸跡の大石神社まで1.0キロ、歩いて15分。本丸跡までだと1.6キロ22分。
ここまでは出発前に船内で調べた。
2025₋03₋25 9:32
JR姫路駅
電車は9:40に出た。
9:55 竜野駅
竜野といえば脇坂氏10代・竜野藩の城下町で、「赤とんぼ」作詞の三木露風が生まれたところである。しかし山陽本線は竜野から南5キロほどのところを通った。おかげで開発の波から免れ、長く城下町の風情が残っていたらしい。
いつか行ってみたいと思っていたが、今回も行かないとなると一生ないだろう。

ちなみに山陽本線の駅は開業時からこの名前であったが、所在地は揖西郡神部村、揖保郡揖保川町とかわり、所在地自治体が「竜野」になったのは、ようやく2005年旧龍野市・揖保川町など1市3町が合併して「たつの市」となってからである。

10:07
千種川(ちくさがわ)をわたる。
加古川・市川・揖保川・夢前川と並び播磨五川と呼ばれる。赤穂はこの川の河口に発達したから、目的地は近い。

川を渡ると坂越(さこし)。
駅は内陸だが海側は江戸時代栄えた湊町だった。

10:11播州赤穂駅着。
赤穂は岡山県と瀬戸内海に接するから播州兵庫県の西南の隅である。
10:15
赤穂の駅ビルからの眺め
「忠臣蔵のふるさと 播州赤穂」という横断幕が見える。

駅ビルから降りる階段には義士たちの雄姿がパネルになっている。たぶん47枚あるのだろう。
階段を下りて駅前ロータリーをわたると、一角に赤穂の標語?スローガン?が白い柱に書かれて建っている。
「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」
同じような文句があちこちにある。

さらには、新築だが和風の駅舎を見ようと振り返れば、「義魂」とかかれた大石内蔵助の立像。
何から何まで、大げさではなく、見るものすべてが忠臣蔵であった。

しかし私は忠臣蔵を見に来たのではなかった。
駅に着くまですっかり忘れていたほどである。

わざわざ来たのは赤穂城を見たかったから。

お城通りという駅前通りをまっすぐ南に歩いていく。
10:23
赤穂藩上水道の遺跡
江戸時代、神田上水・福山上水とならび日本三大上水道と言われた。
ここは海が近く井戸に海水が混じり飲めなかったため水を引き、元和2(1616)年に完成した。ここは、 長屋などの井戸に水を引いた江戸時代の上水道とは異なり、各世帯各戸へ給水する当時としては画期的なシステムだった。

なおも歩くと交差点に広場があった。
10:25
いきつぎ広場と書いてある。

元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りかかった。浅野家の上屋敷(鉄炮洲上屋敷)で事件を知った早水藤左衛門、萱野三平が午後江戸を出発、155里(約620km)の行程は、普通なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破した。
4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りここにあった井戸の水を飲んで「息継ぎ」をしたという。この井戸は上水を流し込んでいたのだろうか?

広場には江戸時代の赤穂城下の地図があった。
10:25
当時の赤穂城下
赤穂城と城下町は千種川と海に囲まれた砂浜の上につくられた。これでは井戸に海水がわくだろうな、と思う。いまは塩田や海はすっかり埋め立てられた。

この古地図をみれば、花岳寺などの位置から簡単に今立っている息継ぎ広場の場所がわかる。
当時も広場だったようで、高札所のような場所であったか?

このあたり(お城通り)の街並みは、歴史的景観を意識した建物になっている。
10:26
飲食店などが昔風の建物にするのはよくあるが、補聴器を扱う室井電気店やヘアサロン「アルル」のような店まで徹底して擬古風の店構えである。

赤穂城到着。
10:31
三の丸の大手隅櫓

10:32
先ほどの江戸時代の地図と比べれば、海がすっかり埋め立てられたのが分かる。

大手門から三の丸に入る。
10:32
大手門
復元されたばかりなのか、まだ新しい。

播州赤穂藩浅野家は芸州広島藩浅野家の分家である。
不覚にも私は長年、てっきりほかの藩のように、本家が自領を割いて作った分家だと思っていた。間に岡山県があるが瀬戸内沿岸に自領の飛び地があってもおかしくない。

しかし赤穂藩は岡山の池田輝政の五男・政綱が3万5000石を分知され立藩した。政綱のあとは弟の輝興が相続したが、1645年、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し改易となった(正保赤穂事件)。

代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。彼は芸州浅野家の祖、浅野長政の三男、浅野長重の長男である。
浅野長政は豊臣政権五奉行の一人だったが、家康につき、長男・幸長が家督を継いで紀州和歌山藩を立藩したあと隠居して1605年から江戸に住んだ。そして隠居領として与えられた常陸真壁などが、1611年、三男の浅野長重に相続され、長重流浅野家が常陸で立藩した。なお長政の次男だった長晟が1613年兄の和歌山藩を継ぎ、1619年に改易された福島正則に変わり広島に入った。だから赤穂と広島はもともと何の関係もなく、たまたま瀬戸内に双方転封されたのである。

浅野長直は、池田輝興が改易されたとき幕命により赤穂城を受け取りにきて、そのまま国替え、赤穂藩主を命じられたという。
10:33
石垣が立派。この規模の藩の城では立派過ぎるし、新しい。
当時のものではないだろう。

大手門を入った三の丸は、かつて家臣たちの屋敷が並んでいた。
10:34
筆頭家老・大石内蔵助邸
一家三代が暮らした屋敷である。
屋敷は江戸時代に焼失したが、当時の長屋門が何度かの修理を経て残る。
元禄の昔、江戸から早籠で刃傷沙汰の急報を伝えた早水、萱野の両名が未明に叩いたのはこの門である。
10:34
大石邸の前は空き地。
10:35
大石神社は素通り

10:36
片岡源五右衛門宅跡
350石、主君浅野長矩と同じ年。長矩の遺骸を引き取り泉岳寺に葬送した。
10:37
それにしても空き地が多い。
多すぎる。

帰宅後調べたらつい最近まで(1979)本丸は赤穂高校、二の丸の南西部は高校のグラウンド、三の丸は民間の住宅地や商業地、あるいは農地になっていたようだ。近年城址公園とするべく、すべてを移転させたらしい。
本丸にすっぽり入る赤穂高校とグラウンド


片柳勉(地球環境研究,Vol.17、2015)から引用

10:37
小さな堀を渡って三の丸から二の丸に入る。

10:39
大石頼母助屋敷門(復元)
頼母助は大石内蔵助の大叔父にあたり、二の丸に屋敷を持つ家老だった。
山鹿素行が赤穂に来たとき、この屋敷で8年余りを過ごした。

山鹿流軍学者として有名な山鹿素行(そこう)は、元和8年(1622)会津若松に生まれ、6歳で江戸に移住。9歳にして林羅山に儒学を学ぶ。さらに甲州流軍学、歌学と神道を学ぶ。
兵学者として名声を高め、津軽、小笠原、戸田、本多など列侯諸士が素行に礼をもって講話を聴いた。赤穂の浅野長直も1652年、素行を招き、素行は7か月余り滞在した。
1666年、45歳の時、素行の著書『聖教要録』が不届きなる書物として弾圧され赤穂に配流され、8年あまり過ごし、1675年許され江戸に帰着。その後は平戸松浦家に身を寄せ、1685年64歳で病没した。
10:41
復元整備されつつある二の丸庭園
濠を隠すような土塀の向こうに本丸の濠と石垣がある。

10:43
二の丸から本丸の石垣をみる。

実は姫路からわざわざ赤穂まで来たのは赤穂浪士の足跡を訪ねるのでなく、赤穂城を見るためだった。
赤穂城は池田時代は簡略なものだったが、1645年浅野長直が赤穂へ入封すると、1648年に築城願いを幕府へ提出、同年に築城着手、1661年、13年かけて完成した。
すなわち、赤穂城は元和偃武のあと新たに作られた珍しい城である。

(ちなみに大坂夏の陣のあと、応仁の乱以降150年近くにわたり断続的に続いていた大規模な戦闘が終わった。これを元和偃武(えんぶ)と言う。武器を偃(ふ)せて庫に収めることを指す。大阪夏の陣(5月)をよく元和元年というが、元和は平和になったということで7月に改元されたから戦闘中は慶長20年である。)

元和偃武のあと、国内にほとんど築城がなかったのは幕府への遠慮による。
徳川政権が確立した後、城の修理、建築などすれば芸州福島正則のように謀反のうわさがあるとか何かと難癖を作られ取りつぶされる恐れがあるからだ。
赤穂はその点珍しい。
10:44
そして元和偃武のあとということは最新の城ということである。
鉄砲、大砲が出現してから築城ということで、幕末の函館五稜郭と同様、多数の稜がある。稜の間にくれば二辺から十字砲火を浴びる。
地形に制限される平山城とちがい、広島、松本、山形、高岡など平城は曲輪が正方形、長方形が多い。赤穂の本丸、二の丸は円形にして稜を配置し、その間に凹みを多数つくっている。
10:45
三の丸が二の丸の北に付着しているのに対し、二の丸は本丸をすっぽり囲んでいる。
その二の丸を歩きながら本丸の石垣を見ていく。

10:46
石垣と濠は、植栽も含め復元して間もないように見える。

10:48
二の丸の東にきて外縁の土手に上がってみた。
十字砲火ができるようジグザグになっている。
川は加里屋川。
江戸時代、二の丸の東は海であり、明治後の干拓でできた川のようだ。

10:49
左が二の丸、右は二の丸の外だから海で、船入り場があった。明治後は干拓され畑になっていたようである。

厩口門から本丸に入る。

浅野家三代が長矩の刃傷沙汰で改易になった後、代わって下野国烏山藩から永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の1706年には信濃国飯山藩へ転封となった。
同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主は森氏が続けた。

永井・森の両家は旧・浅野家家臣の住居の多くを使用せず破却している。(三の丸の大石邸は火事で全焼した)
10:52
本丸には御殿があり、浅野氏のあと入部した永井家の資料に基づき間取りが現物大で再現されている。

赤穂といえば、永井氏のあとの森氏について書いておく。
この家は明治維新まで続き赤穂藩主としては最も長い。
清和源氏という森可成が美濃金山を本拠とし、土岐氏、斎藤道三、織田信長に仕えたが、1570年、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦で戦死した。
その次男・森長可は伊勢長島一揆鎮圧や長篠、甲州征伐などに戦功をたて、信濃海津城20万石を与えられ、その弟で信長の小姓となった森蘭丸(成利)も美濃金山に5万石を与えられた。しかし蘭丸が本能寺の変で横死、長可は豊臣秀吉に仕えたが、小牧・長久手で戦死。

兄たちが皆早死にして残った弟・森忠政は金山城7万石の相続が許され、秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)2月(関ヶ原の前)には信濃国更科・水内・埴科・高井の4郡に移封されて海津城主13万石となる。

関ヶ原の戦いでは当然東軍に属して所領を安堵され、1603年には美作国一国を与えられ信濃から津山藩18万石に加増転封された。
ところが元禄10年(1697年)4月、実子が無かった4代藩主森長成の発病、死去に伴い、他家の養子になっていた弟の衆利が森姓に復し、末期養子に立てられた。しかし将軍拝謁のため江戸への道中で失心(発狂)したとされて改易された。
そこで4代の祖父、隠居の身となっていた元津山2代藩主長継に備中国西江原2万石が与えられた。
そして宝永3年(1706)2代・長直(長継8男)のとき赤穂藩2万石に転封。以降明治まで同地を治めた。
10:54
押込、茶部屋、など、畳を並べた形で間取りを再現
向こうの石垣は本丸南東隅にあった天守台である。

明治後、本丸は小学校、公共施設がおかれ、1928年旧制赤穂中学が置かれ、戦後は赤穂高校となり1981年まで鉄筋コンクリート校舎が存在していたことは、先に述べた。

天守台に上がってみた。
江戸時代を通じて天守閣そのものは建築されなかったようである。
10:56
赤穂城は国の史跡であり、日本100名城の一つ。
ただ、国指定の史跡は2020年3月現在1,846件あるから珍しくはない。
(国の特別史跡となると32都道府県に63件しかない。このうち水戸弘道館、江戸城、多胡碑、登呂遺跡、彦根城、讃岐国分寺など約24か所は行ったことがある。)

10:56
天守台から南西方面を見る。近年まで赤穂高校のグラウンドであった二の丸の向こうに、野球場の照明が見えた。江戸時代あのあたりに塩田が広がっていたはずである。

塩は海水を煮詰めて作るから大量の燃料を必要とする。燃料は貴重だから煮詰める海水が濃ければ濃いほど良い。濃くするのに入浜式塩田法と流下式塩田法があるというのは、小学校か中学校の社会で習った。(それにしてもこの知識は一度も使わず、50年以上たって初めて思い出した。学校の勉強というのは何なんだろう?)

赤穂は播磨随一の清流、千種川の河口にあり、この川が運んでくる花崗岩の砂と広大な干潟が入浜式塩田に適していたらしい。
浅野長直が1645年に赤穂に入封すると、ここで大規模な入浜塩田の開拓に着手し、浅野家三代で約100ヘクタールの塩田を開いた。浅野家断絶のあとも永井家・森家へと引き継がれ、開拓が進められた。その結果、千種川の東に約150ヘクタール(東浜塩田)、西に約250ヘクタール(西浜塩田)にまで拡大した。
東浜では、江戸などの東日本の好みに応じ苦汁(にがり)を含む差塩(さししお)(並塩)を、西浜では、薄味である上方向けに苦汁を除去し白く小粒で上品な味の真塩(ましお)(上質塩)を生産した。その結果、偽物が出回るほどのブランド塩となって、赤穂は日本一の塩の生産地となった。

明治になって塩が専売制になったとき各地に塩務局が置かれた。明治38年築の塩務局事務所は、現存する唯一のものらしいが、行く時間がなかった。
私が社会科で瀬戸内の塩田を習った直後の1970年代になり流下式塩田からイオン交換樹脂による濃縮が行われるようになった。
その結果、お城の南西はすっかり埋め立てられ、運動公園や工場用地となった。

10:56
天守台から見た間取り復元御殿と本丸門
ここに近年まで高校の校舎があったとは信じがたい。

10:57
本丸に入るときくぐった厩口門

それにしても大規模な赤穂城復元事業である。
赤穂市は1951年に市制施行。人口は45,892人(2020年)。この規模の市の予算で大量の民家、農地、公共施設の移転を伴う、この城址公園整備事業は偉業といえる。
11:00
まだ城内に見るものは多そうだったがきりがないので切り上げ、駅に急いだ。
しかし駅までの所要時間を甘く見たから1時間に1本の電車に間に合わなかった。
心のどこかで乗り遅れても良いという気持ちがあったようだ。
早く姫路に戻っても姫路城を見るくらいしか思いつかない。
それより小さい赤穂のほうが見どころが多そうな気がした。
11:11
電車は出たばかり。次は58分後。
ここで待っていてもしょうがないので再び赤穂の町を歩くことにした。
(続く)


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