2026年1月13日火曜日

都営三田線と高島平の今昔、徹夜バイトと稲刈り

あまりにも暇なので、板橋の志村城跡、赤塚城跡に行ってみようと思った。

1月6日 快晴だが寒い。
13:20 家を出る。
都営三田線の千石駅を目指したが、歩き始めて白山駅のほうが近かったかな、と少し後悔した。それでも寒いと足が自然と速くなる。13:36にはホームに立っていた。

電車は15分で志村城址のある志村三丁目に到着。
13:56
若いころから三田線はめったに乗らなかったし、いまも乗らない。
しかし、その分、いくつかの記憶がしっかり残っている。

初めて乗ったのはちょうど50年前の昭和50年 (1975)。信州から上京した年だった。
この年、我々は地元の高校を卒業し、様々な方向に一歩を踏みだした。
高校の同級生はほとんど進学した。
中学の同級生は農村地域だったこともあり、1クラス41人のうち、進学したのは短大も含めて数人。多くは就職した。女子は地元が多かったが、東京や名古屋に出るものもいた。

中学のクラスは男女ともみな仲が良かった。高校3年間はいったんばらばらになったが、故郷を離れる日が近づく春休みになると、再び会うようになり、再会を期して連絡先を交換した。上京してからは(当時は個人で電話など持っていなかったから)、手紙のやり取りなどして、新生活を伝え合った。
そのうちの一人、吉見邦夫君が板橋区新河岸にある高砂鉄工に就職していた。

上京して落ち着いた頃、巣鴨から初めて三田線に乗り、西台でおりた。彼の勤務先は新河岸川を渡ったところにあり、部屋は会社の隣にある独身寮だった。個室だったから、駒場寮(3人部屋)より居心地が良さそうだった。
就職してさっそく買ったのか、立派なステレオがあり、中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」やドラマ「太陽にほえろ」のテーマなど聴いた。
彼の部屋には2回ほど行ったが、翌年、彼は故郷に帰ってしまった。
(地元のシンコー電気の工場に転職?)

次に三田線に乗ったのは、2年後の77年か78年。
薬学ボート部の合宿で埼玉の戸田に通っていたころ。実験が終わってから夜に艇庫(合宿所)に入って早朝漕いで、朝食、それから大学に来るのである。
当時は埼京線がなかったから、川口からバスに乗るのだが、川口に行くのさえも面倒だった。そこで三田線の春日から蓮根まで行って、そこから国道17号を延々と歩き、戸田橋を渡った。夏は500か1リットルのパックの牛乳を飲みながら夜の橋を歩いた。

ところで三田線と書いたが、この路線は1978年7月まで正式には都営6号線といった。しかし、一般人はこんな呼び方はしなかっただろう。「巣鴨からの都営地下鉄」とか、「高島平行き地下鉄」とでも言ったのだろうか? 記憶にない。
「三田線」と呼ばれたこともあったかもしれないが、三田駅の開業はこの路線内で一番最後である。
すなわち、
1968年12月:都営6号線として巣鴨 - 志村(現・高島平)開業
1972年6月:巣鴨 -日比谷 間 (7.3 km) 開業。
1973年11月:日比谷 -三田 間 (3.3 km) 開業。

コラムニストの小田嶋隆氏(2022年65歳で死去)は私と同じ年で、開業前の工事中の三田線の線路に(文字通り)もぐりこみ、歩いて怒られた?ようなエッセイを読んだことがある。当時(1972.4₋1975.3)彼が在籍した小石川高校は、白山通りの千石駅の近くである。
西高島平、新高島平、高島平
上は新河岸川と荒川

さて、志村三丁目でおり、志村城址(別ブログ)をみたあと、駅に戻ってふたたび三田線に乗った。
団地が見えてきたとき高島平駅に着いた。
驚いたことに、ホームは2面4線もあった。高架駅でもあり、とても地下鉄駅と思えない。
ホームが4番まであるのは、1968年の開業時(当時は志村駅といった)、終点、車庫も兼ねたからだろう。

翌1969年に高島平駅と改称した。
私が大学2年になった1976年5月には新高島平、西高島平まで1.5キロ延び、中間駅となった。
(このとき三田線という俗称はあったかもしれない。なぜなら「三田線って名前は良くないよな。どこへ行く線路か分からない。丸ノ内線とか日比谷線、千代田線とか、まったく同じような名前でわからない。むかしの路線は東北線とか外房線とか小田急線とか、まともな名前になっている。三田線は高島平線にするべきだ」というような会話を覚えているが、このニュースのあとのような気がするからだ)

*****
いままで、有名な高島平団地は駅を真ん中にして広がっていると思っていた。しかし、上の航空写真で分かるように、団地はすべて線路の南側にある。線路の北側は一般住宅や小規模マンション、商店などが並んでいる。

終点、西高島平についた。
同時にできた2つの駅について、西と新をどちらにするか、少し迷ったかな?
住民も最初はどっちがどっちか分からなかったのではないか?
14:38 西高島平駅
この駅から南の赤塚城址に行く。
前の高島平通りは、広いことに加え、二階構造になっていて、それと交差する南北の道路も首都高と新大宮バイパスと二階構造になっている。
南に渡る歩道橋は二階で立体交差する十字路の巨大コンクリートの間にかけられていた。
14:39
歩道橋から北の笹目橋方面を見る。
上は首都高5号池袋線。

50年前の冬の夜、この場所に立ったことがある。
私の財産(記憶)の一つである。
1975年12月、いまとは全く違う景色だった。
西高島平の駅はなく、首都高もなかった。

当時の写真が国土地理院ライブラリーにあった。
国土地理院 撮影1975-01-12

撮影1975-01-12
駒場寮にきたアルバイトの募集だったと思う。
深夜の交通量調査で1万円だった。当時のアルバイトは時給400円、1日8時間で3200円が相場だったから破格の報酬だった。

夜、当時の最寄り駅だった高島平駅に集合し、マイクロバスで連れて来られたのだろうか。仕事は高島平通りから笹目橋に行く丁字路で、通過する車の数を数える。小さな折りたたみ椅子に座り、数取り器でカチカチ数える。歯もカチカチ鳴った、わけではなくじっと噛みしめて震えていただろう。周りは今と違って建造物が何もなく、ただ、工事中、あるいはできたばかりのような道路だけが広かった。真っ暗な中、たまにヘッドライトを光らせ車が通過していった。
12月の深夜、じっと座る体は冬の北風に冷やされ、そのまま居たら凍死も考えられた。30分交代だったか、エンジン付けっぱなしで暖房したマイクロバスに入って休憩、回復させ、朝まで続けた。薄暗い室内ランプの中でカーラジオから甲斐バンド「裏切りの街角」がかかっていた。この年6月にリリースされた2枚目のシングルだったが「ジングルベルに街が浮足立ったころ~」という歌詞の時期まで続くロングセラー、初のヒットになった。

その2年後、建設中だった首都高、北池袋 - 高島平間は1977年8月に開通。私が座っていた丁字路は十字路となり、笹目橋をわたる新大宮バイパスとつながった。
首都高は1990年11月には新大宮バイパスに沿う形で笹目橋を渡り戸田南まで、1993年10月には東京外環自動車道と接続する美女木JCTまで延び、5号池袋線としては全線開通した。
国土地理院 撮影1992₋11₋02
33年前だが、これはほぼ現在の姿に近い。
笹目橋を渡る首都高もできている。
・・・・
歩道橋を渡り通りの南におりた。
14:44
道路はカーブしている。
高島平通りと首都高で区切られた西高島平は、イメージとは異なり、一戸建てが並ぶ。
もともとは田んぼが広がる地域だったが、1960年代に住宅地にするため区画整理をおこない、このあたりは計画中だった高速道路のカーブに合わせ、道路もカーブして宅地分譲された。

歩道橋から12分ほどで赤塚城址についた。
14:51
14:52
城址公園には板橋区立郷土資料館があった。
入り口に、青銅砲のレプリカが3つほど飾ってある。ははーん、高島秋帆だな。
無料なので入ってみた。

現在は東京23区はたいして差がないが、江戸時代は大名屋敷が並んでいた千代田区や文京区とちがって、板橋区は田畑が広がり、中山道板橋宿しかなかった。
そのため、資料館の展示物は、板橋宿、道祖神、幕末の徳丸ヶ原と高島秋帆、明治になって加賀藩下屋敷跡の陸軍火薬製造所、高度成長時代の高島平団地くらいに限られていた。そのぶん分かり易く、じっくり見られた。
15:17
徳丸ヶ原での砲術訓練

今の高島平は、江戸時代は腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒川の後背湿地であり、耕作にも適さず、徳丸が原といって幕府の鷹狩場(天領)に指定されていた。
天保12年(1841)5月9日、高島秋帆とその弟子99人は、幕命により徳丸が原で西洋式砲術訓練を披露し、幕末~明治維新期の軍制改革のきっかけをつくったとされる。
彼は長崎の町年寄の三男として生まれ、家督を継いで長崎会所調役頭取となったが、異国船がたびたび来航する時代、国防に目覚め出島のオランダ人から砲術を習った。その後、アヘン戦争で清国が敗れたことで幕府も危機感を持ち、徳丸ヶ原での砲術披露となった。

彼は天保13年、えん罪により逮捕、ペリーが来航した嘉永6年(1853)に罪を許されたが慶応2年(1866)に明治維新を前に死去した。墓は文京区向丘の大圓寺にあり、以前、このブログに書いた。

彼の名は激動の幕末明治に忘れられた。
大正時代に、陸軍を中心に顕彰する動きがあり、徳丸原遺跡碑、紀功碑が建立されたが、彼の名が一躍(地元で)有名になったのは、以下のように高度成長時代の1960年代である。

徳丸ヶ原は明治に入り、豊富な荒川の水資源をもとに耕地化が進み、赤塚田んぼ、徳丸田んぼと称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割をこの地で占めた。しかし、
23区内で最後まで残った水田地帯も、高度成長時代に入ると上記、高砂鉄工など新河岸川流域の工場進出、台地上の住宅化による地下水の枯渇、家庭排水の流入などで耕作に適さなくなった。というより、一番は東京での住宅の不足が予想されるようになってきた。

当時の写真がある。
国土地理院 撮影1962₋11₋06
幕末には早瀬の渡しがあった荒川も、笹目橋が架かっている。
1960年代になっても地方の米作地帯のように全く人家がなく、一面水田である。
すなわち区画整理が容易であった。

徳丸が原一帯は、1961年頃から宅地開発の計画が出て、当時の日本住宅公団を中心に333ヘクタール(約100万坪)の農地を全て買い上げて新しい町を作る流れができた。
1965年、板橋区都市区画整理事業が決定、しかし人家がなかったから徳丸ヶ原以外の地名はなく、このとき土地権利者を中心とした審議会で新しい地名(住居表示)が検討された。
そして出てきたのが、忘れられていた、というより一般人は誰も知らなかった高島秋帆であった。1968年10月の「板橋区のお知らせ」で高島平と呼ぶことが発表された。
高島平は団地名、駅名ともなり、消えていく地名「徳丸ヶ原」と入れ替わるように有名になっていった。
14階建ての団地が次々と立ち、第一次入居が始まったのは1972年1月である。3月に竣工、総戸数は10,170戸、人口2万人。団地以外の戸建て分譲地などを含めると水田地帯が5万人の一大住宅都市になった。

1960年代まで湿地帯、田んぼだった高島平は人文的な歴史がない。
唯一の例が高島秋帆である。
それゆえ信じられないほど高く広く取り上げられている。
15:21 郷土資料館展示
高島平の幼稚園、学校の園章・校章
13のうち、4つは団地、稲穂をデザインしたものだが、なんと8つが高島家の家紋・重ね四ツ目結をもとにしている。
15:21
各学校の校歌には、徳丸、徳丸ヶ原、秋帆、大筒、などの単語が入り、高島平音頭でも「高島秋帆」が入っているらしい。各学校の開校記念日は天保の昔、演習を行った5月9日に統一されているという。これは知らなかった。ここまで児童、生徒に英雄視させる学校・地区、またその人物は全国的にないのではないか?

・・・・
話は変わるが、1962年の高島平の航空写真を拡大して驚いた。
国土地理院・撮影1962₋11₋06
田んぼの中に稲を干す「はぜ架け」が見える。
背景に里山のような武蔵野台地の崖があるから、これは長野と同じ風景になったはずだ。
1960年代の高島平は東京ではなく、信州に近い農村だったことがわかる。

子どものころ、毎年稲刈りを手伝わされた。というか小学校には稲刈り休みがあった。田植え休みと合わせ、正式には農繁休業といった。

稲は朝から一株ずつ鎌で刈り、何株か合わせて束にして置いていく。午後になるとそれを藁で縛り、夕方、その日に刈ったイネの束を「ハゼ」のところまで運び、高く組んだハゼの上にまたがっている父親に束を投げ上げ、父はそれを並べていく。
後日、ハゼの上で乾燥した稲束は脱穀(稲こき)によって藁束から籾を取り分ける。

小学生の私は手が小さくとも2,3株を連続して刈れるように左手を逆手にして人差し指を下にして刈る方法を編み出した。ところが元気よく刈っているとき、鋭い稲刈り鎌で骨が見えるまで切ってしまった。1960年代の当時は病院にもいかなかった。しばらく膿んでいたが、幸い敗血症とか指の切断には至らなかった。しかし血管が少なくなってしまったその部位は数年、霜焼けになりやすかった。今もその傷が左人差し指に残っている。

何日にもわたる家族総出の手作業による稲刈りだったが、その後、バインダーという農機具が現れた。耕運機のように後ろから進めていくと機械が稲を刈り、同時に紐で稲束を縛って吐き出していく。それをハゼにかけるだけで良い。
そして我が家が田んぼを果樹園にして稲作をやめたころ、他県の大型水田地帯にはコンバインが現れた。これは稲刈りから脱穀まで同時に行い、藁は粉々にして田んぼに振りまいていく。

高島平(当時は徳丸田んぼ)の稲刈りは、私の経験と同じ、手作業の時代で終わった。航空写真の田んぼに並んで立つ「ハゼ掛け」がそれを示す。

話を50年前の高島平に戻す。
徹夜のアルバイトが終わり、我々は朝8時か9時に解放された。
そして国道17号線沿い、三田線の板橋区役所前駅まで送ってもらった。マイクロバスを下りると目の前に区役所庁舎があった。なぜか入って板橋区の地図をもらった。当時の文京区の地図は紛失したが、その地図は奇跡的に残っている。

板橋区民なら面白い地図だろう。
もちろん首都高、埼京線はなく、有楽町線は地下鉄8号線として計画中であり、環八通りは開通していない。川越街道から分かれて笹目橋に行く新大宮バイパス(放射35号)も全通していない。
50年ぶりに開いて裏(表?)を見たら、これは地図として作られたのではなく、「板橋区のお知らせ(新年号)」の裏だった。

1975年、この地図をもらったあと地下鉄で巣鴨に出て駒場に帰ると、その日はもちろん授業は出ず、ベッドに倒れ込んだ。目が覚めると夜だったことを記憶している。


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