2018年6月9日土曜日

大豆腐敗のアリと傷口の蛆虫

豆(枝豆、黒豆、モロッコ)が苦戦している。
多くが発芽しない。
鳥に食べられたわけでもなさそう。

豆を埋めたところからアリが湧き出ていたので、掘ったら腐っていた。
白いチーズのようだ。
2018-06-08

アリは赤くて小さい。
庭のあちこちにいる黒いアリとは違う。彼らはここにいない。昔息子が夏休みの自由研究で、蟻の食べるものをお菓子から魚、肉まで調べた。何でも食べるという結論になったから、黒いアリが全く来ないのは不思議。彼はアリの種類まで調べたか?

この赤いアリ、野菜生ごみの腐ったものなどには来ないから、豆の腐ったもの、タンパク質、アミノ酸が豊富なものを好んでいるようだ。

ふと、わずかに発芽して伸びた苗にもアリがたかっていた。
よくみると、豆であった子葉が腐っている。
腐りかけていた子葉からギリギリ発芽したのか、発芽してから腐ったのか。

いずれにしても、腐ったものを放置したら、腐敗させている菌が豆の苗本体も侵すのではないかと、心配になった。
アリが見えるだろうか。
本体を救うためには、手術が必要。
ナイフで腐った部分をそぎ落とさねばならない。

しかし、待てよ。
アリが腐っている部分を食べることは、蛆虫療法とそっくりではないか。

昔から蛆が湧いた傷口の方が治りが早いということは知られていた。蛆虫は健康な部分を食べず、壊死した部分だけを食べて傷口をきれいにする。しかし抗生物質のある近代医学で使われることはなかった。ところが90年代以降、糖尿病の合併症、足潰瘍に使われるようになり、2004年、FDAは正式に蛆虫を認可した。使うのは無菌で繁殖させたハエの幼虫である。
Maggot debridement therapyで画像検索すれば気持ち悪い写真がいっぱいある。

なお、FDAは、血吸いビルも生きた医薬品として2004年に認可している(→)。
 
2018-06-08
子葉はまだ豆本体の栄養になっている。
切り落とすのではなく、腐った部分だけアリに持って行ってもらえれば、それに越したことはない。


千駄木菜園 総目次

2018年6月4日月曜日

6月、ニンニク、ナス、トウモロコシ

6月の菜園
2018-06-03
トウモロコシ。
雌花は雄花よりずっと後とはいうが、影も形も見えない。
ほんとに生るのだろうか。

ナスは2つくらい花が落ちてしまった後の、初めての実。

初めて作ってみたニンニクを掘る。

比較のために長野の弟からもらったもの(上)と並べてみた。
日当たりが足りないのか、肥料が足りないのか、とにかく小さい。
長野からいくらでも立派なものをもらえるのだが、自分でも作りたかった。

生ごみを捨てているので、あちこちからジャガイモが出てくる。

キウリ、今年もうどんこ病。
黄色い花をつけた小さい実がなっているが、持つだろうか。

落花生
板やカゴを置いているのは、猫対策。
猫は臭い糞をするだけでなく、あちこち掘って、畑を滅茶苦茶にする。敢えて苗のあるところを狙うように見える。便所になっているのか、毎朝あちこち掘ってある。
憎らしくて銃で撃ちたいほどだ。飼い主にこの気持ちはわからない。だから平気で放し飼いにしているのだろう。

キャベツ。
去年より成長が遅い。株の間隔が狭すぎた。

今日の仕事はレッドロビンの剪定。
梅雨に入る前にやりたかった。
「僕らの時代」を見て、「がっちりマンデー」を見ずに始める。
枝が上だけでなく横にも伸びて、キャベツのネットの向こう側を歩けなくなっていた。

途中まで切ったところ。

剪定ばさみがよく切れない。伊奈町の中古住宅を買って初めて庭をもった時だから、30年近く前から使っている。刃はぼろぼろ。勢いつけて刃を閉じることで切ろうとすると、両手の親指同士がしばしば衝突して互いに打撲。痛い。

7:30から(途中ニンニクを掘ったが)汗だくで11:00までかかった。
この鋏は切れないだけでなく、重いから、今これを書いているときも両腕が疲れている。

2018年6月3日日曜日

今年もアゲハの幼虫

2016年11月に植えた温州ミカン。
二度目の夏だが実のなる気配なし。

見ると葉っぱが食われている。
先週、小さな幼虫を取ったから、もういないはずだが。

と、よく見たら一匹だけ取り損ねたものを発見。
中央の葉っぱの先端部、
黒い点のような小さな幼虫。

しかし葉っぱは大きく食われている。
こんな小さな虫は、これほど食べられない。
おかしいな、大量に食べた幼虫は羽化して飛んで行ってしまったのだろうか?

と、下を見たら、
うわっーーーっ、

大きな幼虫、というか怪物。
2018-06-03
写真中央、枝に乗って右上を向いている。

反対側からもうつす。中央、上を向いている。

これだけ大きいと恐ろしい。
昨年来、比較的小さな、白と黒の鳥の糞に擬態したものばかり見てきたが(→クリック)、こんな、蛹直前の大きなものは初めて。

割りばしでつかむとピンクの角を出し、悪臭を放った。
最初は柑橘類を感じさせる悪臭だったが、すぐにインドールのような、酪酸のような強烈な刺激も鼻を直撃した。(すぐに息を止めたから喩は正確でない)

昨年の幼虫は角が橙色だったから、また違うアゲハだろうか。
これだけ大きいと、恐ろしくて靴でつぶせない。
側溝に流した。
(二軒隣のファーブル昆虫館の植え込みに放せば怒られたか?)

文京区でアゲハ蝶などは貴重かもしれないが、やはり私には害虫である。
子供が小さければ一緒に飼ったのだが・・・・
息子は子どものころ、カブトムシの幼虫を飼ったりセミの抜け殻を集めたり、庭の石を裏返しにしていたが、もう28歳、庭に出てくることすらない大人になってしまった。今は狭いアパートで、緑すら見ない生活だ。
娘たちは恐らく見るのも嫌がるだろう。自分で食べる野菜くらい、育っているところを見るべきだと思うのだが。

それにしても、アゲハの擬態は見事である。
若齢時の鳥の糞への擬態も見事だったが、こんなに大きいのに、毎朝見ているのに、気づかなかった。胸の部分は頭と目に見えるから、潜伏にも威嚇にも役立っている。

彼らは擬態してじっと動かず、鳥たちに見つからないようにしている。
しかし、人間は、鳥と違い、葉っぱも見る。
葉っぱが食われていて、それに見合う虫がいなければ疑問に思う。
そして念入りに探す。
この敵から守る擬態を進化で獲得するのは無理だ。
そうか、臭角は人間のような敵のためにあるのか。

これを書いているとき、久しぶりに息子が帰ってきた。
アゲハの幼虫が大きかったと話したら「五齢くらいか?」と私の知らないことを言ってきた。彼は中学受験をしたから、頭でっかちの子供だったかと思ったが、ちゃんと自分で捕まえてきて飼っていたそうだ。(私は当時、ダンスを始めて休日はほとんど家にいなかった。そういえば庭には生ごみから生えたグレープフルーツの木があった)

夜になっても私の鼻から離れないあの臭いを、彼も知っていると言ったので安心した。

2018年6月2日土曜日

足利政氏館跡、甘棠院と叔父

6月1日、夕方、先月まで叔父のいた久喜の施設へ挨拶に来た。
久喜に来るのは最後と思い、この寺に立ち寄る。

住宅街の中に不自然なほど広いが車の通らない道(大門通り)があって、これが参道。
寺名は永安山甘棠院(かんとういん)という。
上の写真で分かるだろうか、門前両脇の石柱の「丸に二つ引(足利二つ引)」は、将軍家はじめ足利一門の家紋。

総門をくぐると、子ども用の滑り台と石塔がわずかにあるほか、何もない土の空間。
普通の寺とどこか違う雰囲気。

進むと、中門の前に空堀。ぐるっと囲んでいるようだ。
中門をくぐると、今度こそ境内かと思いきや、びっしりと墓石。
これだけの敷地に伽藍、樹木がなく、ずっと墓地になっている。
格式の高い寺なのか、墓も皆大きい。

墓地の奥には門構えの屋敷があって、これが寺の本堂だろうか。
日中なら開いていたのだろうか。18時ころ撮影。


1349、足利幕府は関東支配の拠点として鎌倉府を置いた。
その責任者が鎌倉公方、補佐するものが関東管領。
初代鎌倉公方は尊氏の四男、足利基氏。
1455、幕府と対立した5代目鎌倉公方の足利成氏が追われて下総古河に移り、古河公方の初代となる。(鎌倉府消滅)。

1458、幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越を御所とした(堀越公方)。以後およそ30年にわたり、下野、常陸、下総、上総、安房を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、上野、武蔵、相模、伊豆を範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。

1483、古河公方と幕府の和睦が成立。堀越公方足利政知は伊豆1国のみを支配することとなり、政治的には成氏の関東公方の地位があらためて幕府に承認された。

足利政氏はその成氏の子。
1489、父から家督を譲られ、2代目古河公方となる。
しかし関東管領、両上杉氏の対立、後北条氏の台頭で、不安定になった関東で、嫡男高基と対立、孤立して古河城を追われ、小山氏や岩槻太田氏を頼って流浪。
1515年ころ、この地に屋敷を構え、隠居状態のまま1531、没した。

ところで、なんで久喜だったか?
見晴らしがいい高台でもなく、要害堅固でもなく、ただの平地である。
ひょっとすると、もともとあった適当な寺に入り、周囲に環濠を掘ったのかもしれない。
甘棠院は、政氏が開き、子の貞巖が開山と案内板にはあるが。


・・・
叔父は子どもがおらず、一人暮らしで心臓が悪かった。
起きると足がむくみ、寝ると息が苦しくなって眠れない。
食料は宅配だったが、ゴミ出しに行くのも不自由となり、今年の1月3日、久喜にある3食付き、24時間見守りの桧家リビングという老人施設に入った。

外出は家族が来た時だけに制限され、月に一、二回、すぐ隣のドラッグストアにお菓子を買いに、私がゆっくり歩いて連れ出すだけとなった。
4月は比較的元気だったので、28日にタクシーでガストへ外食に連れ出した。
彼は昨年7月の鰻以来の外食に喜んでくれた。

しかし、翌日から容体が悪化。
5月1日に救急車で東鷲宮病院へ搬送される途中、25分心肺停止。
懸命の救命活動で心拍戻ったが、ずっと意識不明のまま。
先週86才となった。

退院の見込みがなくなり、久喜の施設からは月末までに荷物を引き取ってほしいと言われていた。
しかし仕事が忙しくてぎりぎりとなり、先日の夜、これまた忙しい息子を無理に頼んで深夜、レンタカーで千駄木まで少ない荷物を運んだ。

6月1日、目覚めぬ叔父を病院に見舞った帰り、中村屋の菓子2箱もって久喜で降り、お世話になりましたと、施設へ退去手続きと挨拶をしに来た。

久喜は、30年ほど前、叔父が商売不振で、浦和の家を売って離婚、久喜のとなり鷲宮に引っ越して以来、たびたび来た。彼はいつも駅まで車で迎えに来てくれた。
しかし、この駅はこの日が最後となろう。

足利政氏館跡、甘棠院は、前から知っていた。
1月に叔父が入った老人施設からは、歩いてわずか5分。
いつでも行けると思って行かなかった。
そのうち彼の調子が良くなったら一緒に歩いて来ようと思っていた。

こういう形で、久喜最後の日に訪ねるとは思ってもみなかった。


千駄木菜園 総目次

2018年6月1日金曜日

往復走って大聖寺城へ

芦原温泉駅で50分も待って、やっと来た各駅停車に乗る。
17:30発、金沢行き。
4つ目の大聖寺駅に 17:41着
降りてみた。

通勤通学時間帯だからか、次の電車はすぐ、18:13に来る。
駅前看板地図で大聖寺城を見た。
地図で見れば行ってみたくなる。
徒歩で行けるらしいが、何分かかるか?
このとき17:45。

持ち時間は25分しかないから12分で行けるところまで行って(なにも見なくても)引き返すことにした。大聖寺の町を見られればそれでいい。
単独行動だからこそできる芸当。

しかし、急ぐ。
いい年の老人が走るとは格好悪い。旅の恥はかき捨て。
汗だくで、なんとか到達。

無理してきたのは、本郷の東大が大聖寺藩の上屋敷跡だったから。
前田本藩の上屋敷に隣接して、富山藩とともに今の病院あたりにあった。
この藩の土地を一度見たかった。

城跡は山。
 
建造物があったような、自然でない山の形

「贋金造りの洞穴」看板が朽ちて落ちていた。

大聖寺藩は明治新政府から武器弾薬の供出を命じられた際に、贋金をつくって資金を工面した。この事実が発覚、責任者の市橋波江は切腹した。しかし藩はその子に倍の禄高を与え報いたという。

道案内の標識には
JR大聖寺駅 徒歩27分とかいてある。
ここまで来たのも奇跡だが、再び8、9分で帰れるか?

急いで写真だけ撮って、帰路につく。
今読めば、この城自体は、前田家の分家としての大聖寺藩10万石とは関係なく、それ以前のものだったようだ。

本当に急いだが、振り向いて1枚。
このあたり藩士の屋敷が並んでいたのだろうか。

見張り櫓のようなものがあったが、一瞥で駅に急ぐ。

大聖寺という地名は、錦城山に白山寺の末寺、白山五院の一つ大聖寺があったからというが、いまも城山の南、駅の西の山すそに寺院が多数並ぶ一角がある。(下の写真の正面に見える山)。もちろん行けなかった。

寂れているが、史跡の多い文化の町だ。
暗くなってきたせいか、あるいは急いでいたせいか、ピンぼけ。
うだつのある街並みを撮ろうとした。
ここのうだつは土壁ではなく、板であった。

奇跡。なんとか、18:13に間に合った。
往復54分かかる城山の見物を25分でするとは、絶対無理、無謀と思われたが、挑戦してみるものである。

真っ暗な中、列車は東に走った。
しばらくぼーっとしていたが、金沢の手前、松任にも城のあったことを思い出す。
跡かたもないはずだが、場所は駅前。北川祥賢の地元でもある。
どうしようか。
しかし疲れて早く帰りたくて、降りるのはもうやめた。

金津水口の本陣とK阪さん

丸岡城から路線バスにのり、
芦原温泉駅16:40着
しかし金沢行き電車は17:30までない。

時間つぶしに駅周辺を歩くことにした。
何かあると思ったら、みごとに何もない。
駅名にある温泉は、5キロほど西のえちぜん鉄道、あわら湯のまち駅付近にあるらしい。
芦原温泉駅は1972年まで金津駅といった。

「本陣」というのが駅前地図にあった。
てっきり旧街道宿場町の、参勤交代の殿様が泊まった宿の跡かと思って行ってみたら、全然違った。
道路に面して、普通の民家(公民館?)のような建物が道路側をショーウィンドウにしている。
中には真田丸の人形。
毎年7月に行われる金津祭りでは、18区が趣向を凝らし競って飾り物作るという。その一つらしい。各区がこのような建物(本陣)で1年保管展示するのだろうか。

すぐ隣のバス停を何気なく見たら
ん? 金津水口?
聞いたことある。

昭和52年、本郷の薬学に進学して黒阪さんという同級生がいた。
名簿番号が隣だった。
駒場では同じフランス語クラスだったが、彼女は2組、私は3組だったから、かわいらしい顔は見ていたが名前は知らなかった。
ガイダンスのときだったか、「実験、同じ班ね。よろしくね」と笑って話しかけてきてくれた。しかし、いざ実習が始まると私に厳しかった。毎日予習せずに実験にきて、グループのときは駒野や國枝と遊んでいた私を軽蔑していたのかもしれない。
その後、親しく話す関係にはならなかった。

一学期が終わって夏休み、帰省した彼女に私は本駒込のアパートから暑中見舞いを出した。たしか住所が金津町水口ではなかったか。
彼女は福井県藤島高校出身。
2004年、金津町は合併し、あわら市になった。
なんという偶然。

数年に一度の同窓会で顔を遠くに見ることがあっても、言葉を交わすことはない。
彼女は昔のことを覚えているだろうか。
その1977年夏(→長雨)、返事のはがきには、海水浴に行ってきたと書いてあった。

この竹田川を北に下れば若かった彼女が遊んだ海だろうか。
2018-03-27
思わぬ駅の、思わぬ待ち時間のおかげで懐かしいことを思い出した。

丸岡城は国宝になるか?

3月27日、福井に30分しかいなかったのは、バスの待合時間だったからである。
14:38福井駅発。
路線バスは途中で皆降りて、乗客は私一人になった。写真は九頭竜川を渡るとき。

15:20丸岡城着。


桜はまだ。


新田次郎「人柱」を読んでから、この文字に反応してしまう。

本丸の天守台は前方後円墳に見える。

城の北、崖下には雪が残っていた。
この低地は本丸を囲む内堀のようだ。
地図を見ると、下の現代市街重ね図のほうは二の丸のようにみえるが、昔の絵図(正保期)では堀があったようだ。





丸岡城のしゃちほこはもともと木彫銅板張りであった。昭和15~17年の修理の際、銅版の入手が困難で、やむなく天守閣の石瓦と同質の笏谷石使った。それが地震で落ち、昭和27~30年の修復時に、元の木彫銅板張りに復元した。展示され、割れている理由である。


福井地震の被害は甚大で、天守も倒壊、がれきの山と化した。



丸岡と言えば、日本一短い手紙で有名。
「一筆啓上 火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」
ある武将が陣中から妻に送った手紙は、文面は覚えていたが関心がなかったので、誰だったか知らなかった。
「鬼作左」とも呼ばれた家康の家臣、本多重次が長篠から出したものらしい。

この文中の「お仙」が越前丸岡藩の初代藩主本多成重となったことから、1993年に丸岡町が短い手紙コンクールを始めた。
少し読んだが、応募するものは皆、母思い、子思いの幸せな家族であった。



さて、本題。
バス発着の食堂兼土産物店「一筆啓上茶屋」に、丸岡城を国宝にしよう、という垂れ幕があった。
日本全国、どの自治体もこういうことが好きである。


城郭で国宝になっているのは、姫路、松本、彦根、犬山の4つで、最近、松江が追加された。
丸岡を国宝に指定してもらうための一番の売り文句は、現存12天守の中で最古(犬山と同時期?)ということだろう。

しかし古いというだけでは弱い。
古い建物など、もっと昔の平安、鎌倉、室町時代のものが山ほどある。
国宝にしてもらうには古さより、城郭としての美しさ、貴重さが重要と思われる。
丸岡城の弱点は、天守閣以外何もないことだ。
城と言えば、櫓、石垣、堀。
天守のある小山以外すべて市街地となってしまったのが残念である。

もう一つ、丸岡城を国宝にしようとする根拠に、もともと国宝だった、ということがある。

しかし、これもどうであろう。
上の写真の城碑は、昭和9年の国宝指定を記念し、同17年に霞城保存会が建立した。その後、23年の福井大震災で城は石垣ごと完全倒壊、同30年に再建したが、すでに昭和25年には国宝でなくなっていた。地震で壊れたからではなく、国宝の制度、基準が変わったからである。

戦前は国宝と重要文化財の区別がなく、すべて国宝であった。
昭和25年の文化財保護法で、いったんすべて重要文化財となり、その中で、重要なものだけ国宝に再指定された。
建造物にかぎると、1059件あった国宝が223件になった。だから丸岡城以外に、国宝から外れたものは山ほどある。

松江城も長年の運動の結果、国宝になったが、丸岡城も同じようになるとは限らない。


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