2021年2月17日水曜日

虎ノ門1新橋から鞆絵小学校跡、虎ノ門パストラル跡まで歩く

2月14日 虎ノ門に行くため新橋駅にやってきた。

南の烏森口のほうは港区立生涯学習センター(桜田小学校跡)の体育館に何回かダンスの練習に来たが、北の日比谷口はあまり来ない。第一ホテルのダンスパーティに何回か来たくらい。

2021-02-14 9:01  日比谷口
ニュースでサラリーマンにインタビューするときは決まってここ日比谷口。
千駄木から虎ノ門に行くには地下鉄で霞が関のほうが便利なのだが、テレビに出るところは久しぶりに見ておきたかった。 
コロナで日曜の朝、人はいない。

広場はガラガラだったが、右のほうの喫煙所は満員だった。
駅前のニュー新橋ビルは、ニューという言葉が似あう1971年竣工。
格子のような外観の4階までは各種店舗が入居、真ん中の5-9階はオフィス、10,11階は住居という。


駅前の道を南に歩き、飲食店がならぶ路地を覗くと烏森神社。
創建940年というが、一般にはこのあたり日比谷の入り江だったとされる。
この小ささなら埋め立てられた後に移転してきたのかもしれない。
今日は忙しいので素通り。

椎名誠「新橋烏森口青春篇」を思い出す。
彼は23歳で小さな業界新聞社に編集者として入社した。
出版社といえど業界専門誌なら神田神保町より会社がひしめく新橋のほうが便利だろう。
霞が関など監督官庁も近いし。

9:04
日曜朝だから人はいないが、この飲み屋の密度はすごい。
こんな路地がいくつもある。
多くの店がやっていけるというのは、新橋を利用するサラリーマンがいかに多いか、いかに多くのひとが飲んで帰るかを示している。
新橋の会社員は、飲むのも仕事の一部なのかもしれない。

9:05
烏森通りを西にいくと鳩が3羽、ごみを漁っていた。
烏森というので探したらカラスも1羽いた(向こう側の樹木の下)。

9:10 西新橋交差点。
烏森通りを南北に切る道路は301号線・愛宕下通り、日比谷公園の西を通り祝田橋にいく。
ここから西が住居表示でいう港区虎ノ門。
向こうに赤白のアンテナがあるビルは警視庁ではなく、中央合同庁舎5号館。

北西の角、砂場と書かれた木造家屋が工事フェンスで囲まれていた。
解体されてビルになるのだろうか。
と思って帰宅後調べたら、通りの拡張に伴い、登録有形文化財の店舗(大正12年築)は後方に数メートル移動するらしく、現在仮店舗で営業中。


交差点を渡り烏森通りは虎ノ門ヒルズの北縁を通る。
ヒルズ・ビジネスタワーのすぐ向かいに片岡電気工業。
そうか、家は虎ノ門と仰っていたけどこんなところにあったのか。
森美術館のチケットをもらったこともある。
9:12
2004年春から2010年夏まで競技会で組んだ。
彼女は趣味が登山で、ご主人とともに港区山岳会の役員をされていて、ダンスよりそちらを優先、ヒマラヤ散策はじめしょっちゅう国内外に出かけていた。冬山から顔が凍傷になって帰還されたこともあった。
私も本業の他に京都でのシミレーションプロジェクトや歴史散策、2007年からは翻訳に夢中になり、ダンスは二の次だった。
熱心な先生と、競技会でのライバルに負けたくないという気持ちだけで続いていたから、練習をさぼることは罪悪感があったが、互いに相手が用事があるというと喜んだ。そういう薄い関係だから続いたともいえる。しかしお孫さんができて引退され、音信絶えて久しい。元気でいらっしゃるかな。

9:14
左(手前)からビジネスタワー、森タワー、レジデンシャルタワー

今日の用事はここ虎ノ門ヒルズなのだが、15分くらい時間があるので素通りして、桜田通りを南下する。
9:18
桜田通りをふりかえる。右、虎ノ門ヒルズ。
特許庁前で外堀通りから分かれた計画道路は、マッカーサー道路とも環二通りともいい、豊洲、有明まで行く。左からきて虎ノ門ヒルズから新橋方面はトンネルだが、まだ工事中。


9:20 港区立鞆絵小学校跡地
1870(明治3)年に仮小学校第一校として増上寺の子院・源流院で開校。同年設立された文部省により、日本初の公立認可小学校となったという。(鞆絵は町名の巴を嘉字に変えた)
1991年廃校、桜小学校、桜田小学校と統合、御成門小学校となった。

跡地は気象庁・港区立教育センターの合同庁舎。区立みなと科学館が併設。
できたばかりで、いまグーグル航空写真を見れば建設中である。

1975年 区分地図(国際地学協会)
私が東京に来た頃の地図を見たら、虎ノ門という住所はない。
一帯は芝西久保○○町といったようだ。

虎ノ門は江戸城外堀の門で、外堀の一部であった溜池の少し東にあった。
虎というのは西を守る白虎からというが、どう見ても城の南である。切絵図は江戸前の海を下に書くが、それでも南は南だ。
陰陽五行説の風水で江戸は北に山(富士、秩父)、南に海、西に道(東海道)、東に川(神田川、荒川など)があるとされたから90度ずれている。

その虎ノ門の東、外堀(汐留川)に橋が架かっていて「新シ橋」と書いてある。それが新橋の由来かと思ったが、もっと下流の東海道にかかっていた「芝口御門橋」が新橋と言われたようである。

上の地図で虎ノ門一帯の芝西久保というのは愛宕山の西、麻布台地との間の窪地ということだろう。1977年に地名整理され、銀座線虎ノ門駅(1938)付近の芝虎ノ門町の名が全体に広がった。

1975年の地図ではもちろん鞆絵小学校(芝西久保巴町)があり、その南に農林年金会館がある。

9:21
その農林年金会館跡地は森ビルの神谷町トラストタワーになっていた。
竣工2020年で、やはりグーグル航空写真では工事中。

ここには2009年9月まで虎ノ門パストラルがあった。

1968(昭和43)年に農林漁業団体職員共済組合が保有する宿泊宴会施設「東京農林年金会館」としてスタート。

私が結婚した1984(昭和59)年、新館ができて虎ノ門パストラルとして改名。結婚式場としても人気があり、私も広告を見た記憶がある。1986年には年間婚礼組数3,030組で日本一だったという。

1995年 ミリオンマップ(東京地図出版)
農林年金会館は本館、新館と2棟見える。

虎ノ門は今までの人生で全く縁がなく、来たのはたった1回だけ。

それが1997年、虎ノ門パストラルだった。

(続く)


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2021年2月16日火曜日

畑の造成、コロナ禍の結婚式

南の塀に沿って、オクラ、キャベツ、ニンジンなど育ててきたが今一つ。

生垣の日陰になるからではないか?

そこで庭の中央を縦断している通路を、塀際の日陰に移し、野菜畑を日当り良い場所に平行移動させる。

移動距離は30センチ程度だから農家には笑われそうだが、都会では大きい。

植わっている小松菜、ニンジンなどが片付く3月末くらいにやろうと思っていたが、毎日眺めていると我慢できなくなり、スコップを手にした。収穫より種まき、種まきより計画・場所作りが好きな私。

まず新しい通路の予定地にあるフキとコゴミをどうするか。

もう植える場所がないのだが、捨てるのに忍びなく、草も生えぬ軒下や日陰をみつけ、実験的に移植した。枯れるならしょうがない。

つぎに穴掘り。

「千駄木菜園」は2013年以来耕していく過程で小石や瓦礫がいっぱい出て、その処理に困り、ビニール袋に入れて通路の敷石の下に埋めている。通路を移設するなら、この小石袋も移動する。

2021-02-13
スコップで穴を掘り、小石袋を埋める。
土の置き場がないので少しずつ掘り、埋めていく。
すぐ汗だくになり手のひらにまめができてしまった。
明日は次女の結婚式。
花嫁と一緒にバージンロードを歩くようだが、
ばんそうこうは内側だから分からないし、手指、爪の汚れも目立たないだろう。

娘は昨年3月に入籍、コロナの第一波のさなか桜が咲いたころ家を出た。
そのうち感染もおさまるだろう、と1年後の2月に式を挙げる計画で準備を進めてきた。生い立ちビデオだけでなく、入り口の飾りや、髪飾り、ブーケなども手作り。カメラマン、ウェディングケーキも自分で手配し、リモートでコーディネーターと打ち合わせを重ねた。
お気に入りのドレスはレンタルでなく、白と青と、2着を買った。

しかし12月に第3波が来て年が明けると東京の新規感染者が3日連続2000人を超えた。
先方からは断りにくいだろうと恩師、上司、遠方の人にはこちらから声をかけ断ったという。
妻の姉たちは二人とも90代の親がいるため辞退、9人いるいとこたちも子供が小さかったり、会社の宴会自粛指導などもありキャンセルが続いた。小学校の先生をしている二人も職業柄出られないという。長野の弟の会社は東京に行った人は自動的に二週間出社停止らしい。浦和の妹は基礎疾患をもっている夫のためにパートを辞めたほど神経質だったが、二人とも出てくれるといっていた。しかし、どんどん親戚のキャンセルが続いたのでこちらから何度も「本当に無理しなくていいよ」と言ったら月曜に断ってきた。さらには新婦のたった一人の姉である長女まで欠席、夫だけ出てくれるという。
感染に対する心配、自粛順守の気持ちというのは、人それぞれずいぶん差があることを今回改めて知った。

欠席者が増え、延期、中止も頭をよぎる。いつも元気な娘も
「こんなに少なくなったら結婚式する意味あるのかなぁ・・・」
と妻と電話しているのを聞いて可哀想だった。

スコップもつ手の豆はつぶれ、腰が痛くなってきたころ、
妻が美容院に行ってくるから、と庭に顔を出す。
私も田端のチョットカットに行こうと穴掘りは中断する。

その夜、大きな地震。

長く揺れが続くあいだ、東京が被災したら結婚式はどうなるだろうと思ったが、収まった。

翌2月14日、良く晴れて暖かい。

私が最年長。新婦両親、新郎の両親・叔母夫婦の、たった6人以外全員若者。きょうだい除けば全員友人という珍しい結婚式。8人座れるテーブルに4,5人。会場スタッフがとても多かった。

無事終わり、彼らが2泊しているという、見たこともない超豪華な部屋で一休みした。

今は宿泊客もいないから、すごい部屋にアップグレードしてくれたようだ。

景色を見て待っていると二人が帰ってきたが、あまり話すこともなく別れた。

虎ノ門からタクシー、皇居前広場を通り千駄木まで3460円。

六本木より安くて東日本橋より高い。

結婚式の帰りだけの贅沢だが、これで3人の子育て終わり。

まだ明るかったので着替えて一人、菜園改造の続きを再開した。

2021-02-14 17:12
最後の小石袋を入れて土をかぶせる。

それにしてもあの部屋はすごかったな。
48階だったか、大きく広い窓が足もとまでガラスだから景色が素晴らしく、西と北、二面、飽きずに東京を眺めていた。
披露宴で使った巨大なチョコレートケーキも運び込まれてきて、こっそり少しかじった。あれどうしたのだろう、と今更ながら心配する。
17:12
左にあった通路の敷石を右の生垣のほうに移す。

長女はセレモニー的なものはあまりやらず、バージンロードは新郎と一緒に歩いたし、披露宴最後の花束贈呈でもメッセージ朗読はなかった。
だから花嫁の父として一緒に花道を歩くのは今回が初めてで、ちょっと感動した。

宴も終わりに近づき、両家両親が出口前で並び、花束贈呈のとき。
娘が感謝の言葉を述べるらしい。
「手紙を読むのは嫌だったので」というから朗読無しかと思ったら、
「一生懸命暗記してきました」という。
なんだやるのかい。向こうの離れたテーブルからこちらを見て話しかけてくるのだが、手紙のほうが様になるな、なんて思っていたら、不覚にも涙が込み上げてきた。まずいな、と思っているうちにカメラマンがそばに来た。手で拭きたいけど、拭けば気づかれてしまう。客人は花嫁のほうを見ているが、中にはこちらを見たものもいる。年を取ると君たちも涙もろくなるのだぞ。
カメラマンはこんなみっともないものを撮るのだろうか、写さないで欲しいな、なんて考えているうちに、涙も収まり、近づいてきた娘から妻は花束、私は我々二人の似顔絵の刺繍をもらった。

2021-02-14 17:23
結婚式の余韻に浸りながら、生垣のそば(左)に新しい通路が完成。

テーブルにあったネームカードの裏に一人一人メッセージが書いてあった。
私のは
「今日は一緒にまじめに歩いてくれたでしょうか? 心配です。」
で始まり、最後は私のことではなく、
「お母さんを長生きさせてね」
で終わっていた。
「また野菜もらえるのを楽しみにしています」
とも書いてあった。
通路の移設で日当たりも改善されたし、ますます畑仕事に力が入るではないか。


20200220 庭を畑にする歴史

20190707 息子の結婚式でスピーチ

20180321 六本木の陸軍跡地、ミッドタウンと国立新美術館

千駄木菜園 (総合)目次


2021年2月10日水曜日

サクラの剪定9年目、家の風格より菜園優先

 2月6日、風もなく絶好の剪定日和。

我が家の幹回り3メートル、文京区保護樹木は、一昨年の台風以来、倒木という可能性もでてきた。ひとたび頭によぎると恐ろしくなる。

以前から毎年低くしてきたが、当局の樹形を変えないで下さいという指示に逆らって、昨年からより大胆な低木化を急いでいる。

矮小化そのものは2013年から今年で9回目。

2021-02-06
8年間で年々樹高が低くなり、枝量も減ってきて、費用も下がってきた。
昨年は3人来られて115,000円。今年は2人で92,500円。

2021-02-07
これ以上下げると枝葉が少なくなって枯れるので、このあたりが限界かな。

昨年の切り口(中央)より小さいが、痛々しい。
しかし今年も気がかりの大仕事が終わったような安堵も感じる。

・・・・・
心配は倒木の他に根っこの伸展もある。
桜は(ほかの広葉樹もそうかもしれないが)枝の張る範囲まで根を広げるという。
本来この桜の枝は、敷地内は庭だけでなく二階の屋根を覆い、外は道路を越えて隣家の屋根まで達していた。

2011年頃
樹木のトンネルのような道路も楽しいが、アスファルトは根で盛り上げられてヒビ割れ、その先は隣家に向かっている。敷地内ではところどころ根が地上を這い、我が家の土台は間違いなく圧迫されている。いつか基礎が割れて家が傾いたら、と考えるとぞっとする。
木を小さくしたいというのは根を大人しくさせる目的もある。
2021-02-07
チェーンソーの木くずをかぶったフキノトウをとりながら、ふとみると、地上に出ていた桜の根が枯れていた。近年この桜もサルノコシカケの寄生が目立つことから老いによるものかもしれないが、枝が少なくなったことによる自己の整理縮小の結果ならいいな。

桜が早く終わり、ハナミズキもついでに切ってもらった。
剪定というより元々低かった丸太のような幹を、チェーンソーで少し輪切りにしただけ。
自分でもできるが、チェーンソーだとあっという間。
左は山茶花。

それにしても庭は明るくなった。
同じ場所の昔の写真がある
2011-07-24
引っ越す前、やっと足を踏み入れたが、薄暗くて自動的にフラッシュが光るほど。

2017-06-24
4年前、左 山茶花、右 ハナミズキ
当初から見るとかなり小さくなっている。

家の風格、品の良さは広さとか豪華さではなく、古い木があるかどうかではないか、
と思うことがある。
そう思っているからこそ、身分不相応で、役にも立たない大木を維持してきた。
ザクロ2本、モミジ、シュロなどは切ったが、残りの木は家の一部と考え、見栄で残している。

しかし、近年家の外観よりも家庭菜園のほうに興味が行ってしまい、野菜に日陰を作る山茶花、金木犀は年々小さくしてしまった。

2021-02-07
いま金木犀は高さ2メートルにも満たない幹だけ残る。
俯角は違うが、同じアングルの昔写真がある。
2012-10-15 
この金木犀、かつては庭と平屋部分の屋根を覆い、二階ベランダから手が届きそうなところまで来ていたとは信じられない。ハナミズキの枝もベランダにかかっている。
2012-10-15
当時、ハナミズキは二階の屋根を越え、ジャングル形成に一役買っていた。

ここは次女の部屋の前だったので、ふと机から顔を上げたときハナミズキの緑が目に入るよう、高さを整えて小さくしてあげた。ところが彼女はほとんど自室におらず、昨年結婚して出て行った。もはや、この木は野菜作りに邪魔でしかない。
毎年小さくしてきたが昨年一気に切り、いまや撮ろうとすれば相当下を見なくてはならない。

2021-02-07
俯角はうんと深くなっている。

大木がなくなっただけでなく、狭い庭を精一杯使った家庭菜園の猥雑さにより、
いっそう家の風格、上品さが損なわれていることに気づいた。
でも、家や庭は、見るものより、使うもの。
素人老人の野菜作りは文字通りのライフワークになろう。

こうやって子供たちのいなくなった二階から下を見ていると、敷石の配置や作付け部分のデザインについて、どんどんアイデアが湧いてくる。


別ブログ

2021年2月6日土曜日

日本医大の建て替えと薮下通り、汐見坂の消滅

  あまり書きたくなかったのでしばらく放置していた。

1月26日、湯島から歩いて帰宅した。

東大図書館がずっとコロナで使えないため、千駄木の南のほうは来なかった。

久しぶりの道を根津神社裏門坂まで来ると、日本医大の中央棟が解体されていた。

2021-01-26



2021-01-26

壊す前はこんな感じ。
2020
以前と比べれば既に十分巨大と思われるがさらに高層化したいのだろうか。
同じ文京区の東京医科歯科大、順天堂大などが病院を巨大化していることから日医も建て替えたいのだろう。
薮下通りの上にかかっていた連絡通路は撤去されていた。

着工が平成23年だから坂上の新館と一緒の建築計画のようだ。
地上10階・塔屋1階/地下5階・機械室階とある。
すなわち17階である。
地上11階、高さ46メートルというのは坂上の一番高いところを基準にしているから薮下通りから見たら相当な高さである。文京区は規制が緩いことで有名なうえ、病院ということで住民の反対もなく、抵抗はなかっただろう。

しかしここ千駄木は本来古くからの住宅地である。
薮下通りの景色はさらにコンクリートっぽくならないか。
明治のころの日本医専と違い、これだけ大きくなってヘリポートを備え救急車が忙しく出入りする先端的な大病院は、千駄木に似合わない。

昔霊安室などがあった北東の隅。
解剖坂も明るくなって名前と景色が合わない。

日医を過ぎて薮下通りをすすむと右の家(アパート?)も解体されていた。

2021-01-26
すっかり変わった汐見坂

汐見坂下の家
東京紅団さんhttp://www.tokyo-kurenaidan.com/shiba01.htmから許可を得て借用(2001年撮影)

1979-84 国土地理院
私が毎日薮下通りを歩いていたころ。
裏門坂の角に浜田湯の煙突らしきものが見える。
右にゆるくカーブし、まっすぐに戻るあたりが汐見坂。
両側に樹木がある。当時は2001年の写真より鬱蒼としていた。

坂の途中、朝倉響子邸の石垣が撤去されていた。
残せなかったものだろうか。
新たなマンションの住民も元の石垣を望んだのではなかろうか?
施工者、売り主はコストしか頭になく、汐見坂の過去とか住まいの風情とか考えないのだろう。どうせ高い物件なのだから、通りから見ても風格あるものにすれば買主も通行人も喜ぶのに、販売者にセンス、品性がなかった。

2021-01-26
朝倉石段(仮名)は私の「文京区と谷中の坂道ランキング」でベストテンに入っていたのに。
もはや影も形もない。更新すれば150位くらいか。更新したくないな~。

かつての朝倉石段 2017-02-05 
永井荷風は鴎外邸・観潮楼にいくにこの薮下道、汐見坂をあがった。そして
「私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。」
と日和下駄(1915)に書いた。

汐見坂を上がりきると右の崖下が汐見小学校。
かつては谷の向こうに上野、谷中の森、二つの五重塔が見えたという。
荷風から60年後、私が歩いていたときは既に崖側にも民家が立ち谷中は見えなかったが、左は石垣、右は煉瓦塀や樹木で良い道だった。

上の写真の左はかつて早川邸だった。

2018-10-14 早川邸

2021-01-26
早川邸と隣の屋敷あわせて3000平米の敷地に、予定通りのマンション建設中。
右は旧観潮楼、鴎外記念館。

43年前、毎日歩いていたときは鴎外記念本郷図書館で、1階の無料展示室でデスマスクやら原稿をみたものだった。

google 2020
右上のほう、朝倉響子邸は更地、早川邸は更地の上に青いビニールシートがかけてある。

荷風が東京一といい、その60年後(1977)の私も、今思えば東京一とする薮下道は、21世紀に入って汐見坂下の屋敷と向かいのレンガ塀の消失などで魅力が半減し(7割減?)、さらに今回の建て替え工事3件でかろうじて残っていた面影も無残に消えた。
写真は撮ったが、しばらく書きたくなかった理由である。


関連ブログ
20181015 拡大する日本医大、解剖坂、猫の家
 20181014 ふれあいの杜とお化けだんだん
20200721 文京区と谷中の全228坂道ランキング

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2021年2月3日水曜日

氷点下でなくても霜柱、2月2日の節分、

大寒を過ぎ、少しずつ日差しが明るくなってきた気がする。

2021-01-30 9:52
1月30日、この日の最低気温は+0.9度と発表された(東京、北の丸公園)。
我が家の庭は見事な霜柱。
練馬は氷点下0.4度だったが、北の丸公園から4.6kmしか離れていない千駄木は氷点下ではなかったのではないか?

熱を与えれば蒸発するが、逆に蒸発すると熱を奪う。
蒸発するかどうかは熱(エンタルピー)を与えるかどうかでなく、蒸発する(エントロピー増大)ことで自由エネルギーが減少するかどうかで決まるという例。
地中水分が蒸発しているうちに残された水分子の運動エネルギーがどんどん減っていき、結晶化した。

あれ?
単に地上1メートルがプラス0.9度で、地面が氷点下だったりして。

・・・・

2月2日は節分。今年の立春は3日ということか。
2日になるのは124年ぶりというが、ちょっと分からない。
二十四節気は地球と太陽の関係で決まる。その位置関係は少しずつずれるアナログ量だからデジタルな日にするにはすこし無理があり、誤差がたまれば日もずれるというのは分かる。
しかし大きく日が変わらないようにうるう年を入れている。
45度ずれた(45.625日ずれる)春分の日は、3月20日か21日だから、立春も4日か5日で、これ以上ずれないように閏年を入れているのではないか?
それが2日ずれるというのは、おかしくないか?

これ以上考える元気がないというのは年取った証拠。
立春は旧正月、万物の始まりだから、節分で年齢を感ずる人もいるだろう。

2021-02-02 21:46
今年は落花生が不作で、しかもうっかり食べてしまって足りない(右)。
そこで急遽スーパーで買ってきてもらった(左)。
私はふだん一番安いものを買うが、妻は中国産が嫌なのか国内農家を応援したいのか、千葉八街産を買った。

昔は神棚に飾るもの、季節の行事に使うものは自分の家の畑や庭で調達した。
来年はきちんととっておこう。

子どものころは戸をあけ放ち、敷居のところで庭にオニワソト、部屋に向かってフクワウチと叫んだものだ。長野では落花生のことを地豆といった。
しかし上京し、家庭をもって再開した時は、近所に聞こえると恥ずかしいから小さい声でやった。子供たちが大きくなってからは、忘れて翌日まくこともしばしば、数年前から一人でやっている。

散らばると拾うのが面倒だから、オニワソトとそっとつぶやきながら玄関、室内に少しずつまとめて置く。子どもたちが出て行った空き部屋や、トイレ、脱衣場にも置いた。

2021-02-03 8:18

子どものころは祖父が率先して庭や、鶏小屋、土蔵などにもまいた。
エノキ小屋は記憶にない。エノキダケをやるようになったころは豆まきをしなくなったのか、高校生になって帰宅前に済んでしまったのか、単に記憶が消えているのか。

翌朝、弟や妹と雪の上に散らばっている落花生を拾って食べたものだ。
湿気ていてうまくはなかったが。
2021-02-03 8:19
雪がなければ庭にまくと見つけられない。
そっとオニワソトと言ってデッキのところに置いた。

今年はコロナだから谷根千の社寺も豆まきはしなかっただろうな・・・
(別ブログ)

今年の立春は、その通り暖かい。
2021-02-03
庭に出て、ひょっとしたら、と探すとやはりフキノトウがでていた。
16年住んだ埼玉指扇の庭にはフクジュソウもあった。

2021-02-03
白菜は種まきが遅かったせいか、20株植えて、玉になったのは日当たりのよい3、4個だけ。

逆にホウレンソウは早く種をまいたのは病気か枯れてしまい、サツマイモのあと11月7日に植えたものが育ってきた。

春キャベツの苗。
育ち方にずいぶん差があるのはなぜか?
そろそろネットを張らないと虫にやられるかな。

2021-02-03
ここの人参はオクラのあと9月27日にまいたら全然育たない。
しかし、ここはキャベツの苗を植える場所だから、ところてん式に時期が来たら(食べられなくても)すべて抜かねばならない。

都会での野菜作りは土地のやりくりが大変。


別ブログ