2024年3月14日木曜日

横浜国大3 創立と国立二期校、連合赤軍

横浜国大にやってきた。
緑多いキャンパスを歩き、大学資料館を特別に開けていただいた。そしてかつてのゴルフ場クラブハウスを見て、学内ローソンのイートインでカップ麺を食べ、理工学部の建物を見学した。
google
横浜国大というと懐かしくは腋毛の黒木香、深夜特急の沢木耕太郎、今だと真鍋かおり、西島秀俊が思い浮かぶが、大学自体は全体的に地味である。
その静かで地味というイメージは、春休みで学生がいなかったこともあるが、キャンパスを歩いても変わらなかった。

頂いたYNU REPORTという冊子には、「企業の人事が見る大学イメージランキング」で全国4位、関東甲信越地域ではトップである(日経、2022)。真面目な調査での高い評価と世間に目立たないイメージのギャップは何が原因だろうと考えた。

1つには歴史、伝統の問題ではないか?
横浜駅から大して遠くない常盤台キャンパスに統合移転が完了したのは1979年。それ以前は戦前の地味な各前身校の場所でばらばらに存在した。三田の慶応、高田馬場の早稲田、本郷の東大、といったイメージができなかった。

横浜国大の前身学校の創立は、
1876年:横浜師範学校(後の神奈川師範学校)。校地は鎌倉など各地に分散。
1920年:横浜高等工業学校(後の横浜工業専門学校)。校地は弘明寺(現南区大岡)
1920年:神奈川県立実業補習学校教員養成所(後の神奈川青年師範学校)。校地は平塚→保土ヶ谷区権田坂
1923年:横浜高等商業学校(後の横浜経済専門学校)。校地は設立時は横浜高工に同居、のち南区南太田町清水台。

横浜高商、横浜高工は官立(国立)であり、東京に近かったため設立は遅かったが、旧高等専門学校の中ではとくに人気が高かった。2つの師範学校も1944年に県立から官立に移管された。

戦後、各県に一つ国立大学を設置するにあたり、1949年この4つが母体となり横浜国立大学ができた。
本来、横浜大学となるはずが、旧制横浜市立経済専門学校(創立1882、商専昇格1928)、旧制の私立横浜専門学校(1930)も新制大学への改組にあたって同じ大学名を申請した(「神奈川より横浜が好まれるのは今も同じ)。
三者間で協議を行い、各校は「横浜大学」の名を使わないこととなり、まっさきに私立横浜専門学校が神奈川大学の名にかえた。結局、国立、市立を校名に入れることで決着。
戦後、他の地区では、旧帝大が地名のみとなり、公立大学が東京都立大、京都府立大、名古屋市立大などとしたのと対照的である。

さて名前だけは単科から総合大学となったものの、各学部は前身校の狭いキャンパスにいたままだった。これでは存在感が薄い。しかし1967年、ゴルフ場跡地を購入、キャンパスを造成し、1979年移転、統合を完了した。
統合キャンパス予定地(撮影日1967₋05₋16 国土地理院)

ところで、横浜国大はイメージが薄いと書いてきたが、我々の年代のものが思うのは「二期校の雄」という言葉だった。

二期校というのは国立大学の区分で1978年まで存在した。
私は1975年に大学受験したが、当時国立大学は入試日程が二つのグループに分かれていた。一期校は3月上旬、二期校は3月下旬で、国立大学は2回受けられた。この区分というか制度は戦後の1949年に始まり、私が受験した4年後1979年に始まった共通一次試験の導入で廃止された。

一期校には旧帝大や旧官立大学を設立母体の一部にもつ大学が、二期校には横浜国大など戦後の新制大学が入った。
旧官立大学というのは戦前、国が設置した旧制専門学校が大学令によって大学に昇格した学校でほぼ単科大学である。「官立」と言い「国立」とは言わなかった。

 東京商科大学(1920)
 神戸商業大学(1929)
 東京工業大学(1929)
 新潟医科大学(1922)
 岡山医科大学(1922)
 千葉医科大学(1923)
 金沢医科大学(1923)
 長崎医科大学(1923)
 熊本医科大学(1925年県立、29年に官立移管)
 東京文理科大学(1929)
 広島文理科大学(1929)
医科大が多いのは、(仙台を加え、熊本、名古屋を除くと)旧制高等学校(官立)の学部として出発し、旧制高校が帝大予科となったとき医専として独立したが、設立が古く他の専門学校とは別格だったから大学令で昇格した。また、文理大学は高等師範学校の卒業生が進んだ研究科が昇格したもの。

この11校の他に、旅順工科大、神宮皇学館大(戦後私立に)、大阪工大(1929設立、33年大阪帝大に吸収)、名古屋医大(1920県立、1931官立移管、1939名古屋帝大に吸収)があった。

旧帝国大学は台北と京城をのぞけば
 東京大学(1877)
 京都大学(1897)
 東北大学(1907)
 九州大学(1911)
 北海道大学(1918)
 大阪大学(1931)
 名古屋大学(1939)
の7校で、大阪と名古屋は官立大学より設立はあとだが、大学令ではなく帝国大学令で設置された総合大学であり、別格であった。

一期校はこの18校では少ないので、戦後の新制大学も特殊性(東京芸大、お茶大、奈良女子大、東京水産大など)や地域性(岩手、三重、鳥取、徳島、高知、宮崎など)から加えられた。(恐らく一期、二期の定員を調整したのだろう)

当時は今より国立大学の人気が高かった。
まず学費が安い。私のときは年額36,000円(月額3,000円)だった。その4年前までは3分の1の月額1,000円、タダのようなものである。キャンパスの広さを含め設備、教育環境は圧倒的に優れていたし、官尊民卑の雰囲気は今より強かった。なにより大学進学率が低かったから相対的に国立大学の学生が多く、(特に地方では)大学というと国立大学というイメージがあった。

(その後、私学の入学定員が飛躍的に増え、人気も高まっていった。そして一期、二期の区別のなくなった地方の国立より都会の私立を選ぶ学生が増え、私の15年ほど若い長野の従弟のように旧一期校の金沢が受かりながら東京理科大に進学するものも出てきた。)

とにかく、新制・横浜国大は、首都圏で埼玉大、電気通信大、東京医科歯科大、東京外語大、東京学芸大、東京商船大、東京農工大などとともに二期校になった。
しかし一期校の東大を受験するものが併願したから、横浜国大のレベルは高かった。問題集などで(横浜国大・73年)などとあるとちょっと目を止めた。
今の横浜国大より存在感があった。

そして大して成績の違わなかった高校の同級生が東大に行き、自分は落ちて横浜国大の小さな地味なキャンパスに通うようになったら、悔しく思う学生もいたに違いない。

(もっとも、制度発足当初は流動的で、横国は49年、53年は一期校。54年も大学として選べたようだが、53年の工学部の倍率が下がり、首都圏の状況を考えて二期校に戻った。経済学部は20倍もの入試倍率ながら、「二期校の雄」と「二期校コンプレックス」を同時に抱えることになった。https://www.econ.ynu.ac.jp/about/history/pdf/03.pdf)

・・・・
今回、横浜国大に来て、資料館に入れてもらったとき、とても珍しいものを見た。
2024₋02₋26 13:50
1970年代前半、まだ学生運動が盛んだったころの学内看板である。
これに一番感激した。よく残っていたものだ。

  告示
 本学構内における左記の行為は禁止します。
  記
 一.集団による示威行為。
 一.ヘルメット、覆面等の装着。
 一.ゲバ棒、凶器類の持ち込み、所持。
 一.投石その他の暴力行為。
 一.教室等施設の不法占拠。
 一.(略)
 横浜国立大学長

水素エネルギーのパネルなどが目立つ資料館で、この看板だけポツンと1つあり、とくに何も説明はなかったが、そう、横浜国大は過激派学生が多いことで有名だった。

柴野春彦(1946年生まれ、1966年入学)は日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(のちの京浜安保共闘)の幹部で、1969年12月からは獄外最高幹部となった。1970年12月銃を奪うために交番を襲撃し、警官に射殺された。

寺岡恒一(1948年1月生まれ)も京浜安保共闘の軍事部門幹部でのちに連合赤軍中央委員(序列4位)となるが、1972年1月、委員長の森恒夫に死刑を宣告され、山岳ベースでリンチ処刑された。(あさま山荘事件の1か月前)

もっとも有名なのは吉野雅邦だろう。連合赤軍中央委員(序列は7位)。妊娠した妻が「総括」の対象となり、自分も総括対象になる恐れがあって見殺しにせざるをえず、妻の処刑後2週間で残った序列3位の坂口弘をリーダーにあさま山荘事件を引き起こした。

このほかに多くの「一般」過激派学生がいた。彼らの友人として一時的に「活動に付き合う」者もいただろう。

ちなみに、連合赤軍とは、1971年7月、共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派が合流し結成された。12月上旬に南アルプスで合同軍事訓練を行い、下旬には群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構えた。しかし極寒のなか外部の援助もなく組織は疲弊し、2か月の間に29人いたメンバーは、12人が総括(リンチ)で処刑され、4人が脱走、そして森、永田を含む8人が逮捕され、残った5人が長野県側に逃走し、1972年2月19日、銃撃戦を繰り返しながらあさま山荘に逃げ込んだ。
私が中学3年の冬、茶の間のコタツで高校入試の勉強をしていたときである。

この年は札幌オリンピックが2月3日から2月13日まであり、笠谷金野青地のジャンプ陣が表彰台を独占した。その興奮が冷めないうちに、今度は雪のあさま山荘で籠城する連合赤軍と警官隊の対決が19日から28日まで10日間もテレビ中継された。包囲された犯人たちは発砲を繰り返し、機動隊2人、民間人1人が死亡した(重軽傷者27名)。民放、NHK合わせた視聴率は最高89.7%に達した。

これによって連合赤軍の残忍さを全国民が突如知るところとなる。その後、総括、リンチが流行語となり、メンバーの出身大学、出身高校まで紹介された。岩田平治氏ら長野県の名門・諏訪青陵高校出身者も2人いた。(高校生でも社会意識の高い、ませた生徒の多い進学校では学生運動があった。)
そういう恐れのある進学校への入試の終わった私に、父は「ああいう人には近づかないように。本人だけでなく家族もみんな大変なことになる」と言った。
(籠城5人のうちの一人、坂東の父は28日全員逮捕のテレビを見た後、自宅で首を吊った)

これを書くにあたって「十六の墓標」(永田洋子・序列2位、共立薬科)を段ボール箱に探したが見つからなかった。資源ごみに出してしまったようだ。

さて、横浜国大の話に戻る。
吉野は1948年杉並区に生まれ、父親は東京帝大法学部卒、千代田区立麹町小、麹町中から都立日比谷高校を経て、東大志望であったが結局一浪し併願していた二期校の横浜国大経済学部に入学した。

事件後、連合赤軍の序列4位、7位はじめ、横浜国大に過激派が多かった原因の一つに「二期校コンプレックス」があったのではないかとされ、横浜国大学長の越村信三郎が参考人として国会に呼ばれた。
そして、はやくも1972年4月の第68回国会衆議院文教委員会で文部行政として一期校と二期校という問題を解決する必要があるのではと提起され、これに対して高見三郎文部大臣は、国立大学の入試は1回の共通テストで行うという形式にすれば良いのではないかと回答した。
そして1979年、共通一次試験が導入され、一期、二期の区別はなくなった。

吉野、柴野、寺岡らが入学したのは1966、67年ころ。この年、横浜国大は経済、工学、教育学部を統合するため、広大なゴルフ場跡地を取得した。しかし彼らは昔からの狭いキャンパスで大学生活を送った。連合赤軍結成の1971年は校舎の建設も始まっておらず、移転は1974年に始まり79年に終わった。
もう少し早く、広く明るいキャンパスに移れていたら、二期校コンプレックスはあっても、彼らは他学部の学生と軟派で華やかなサークル活動を楽しんでいたかもしれない。

今回、横浜国大のキャンパスを歩いた。
学生には昔のようなコンプレックスなど全くないだろう。しかし同時に大学偏差値輪切り現象の一環に組み込まれ、良くも悪くも「フツーの大学」となり、かつてのような地頭がよく「二期校バネ」のかかった骨のある学生はいなくなり、対外的には「目立たない」、学内的には「おとなしい」キャンパスとなった。

しかし私は来てみて、この大学の環境、設備、雰囲気に感心し、好きになった。
皆が気付いていない、お得な感じがする。
身内で迷っているものがいたら背中を押す。

2024年3月13日水曜日

横浜国大2 ゴルフ場の跡、理工学部と国防研究

2月26日、横浜国大に行った。

横浜国大 
左下がグラウンドと正門、横浜新道
右上が羽沢横浜国大駅
2024₋02₋26
13時ころ北門から入り、緑多いキャンパスを歩いて予約していた大学資料館に行き、広報の方にいろいろ説明してもらった。このとき、かつて存在した程ヶ谷カントリー倶楽部の遺構、当時のクラブハウスが図書館の南に残っていると伺い、行ってみた。
14:46
教育学部別棟
なぜか入り口に土嚢が並べてある
入り口庇など、確かに他の校舎とデザイン、古さが違う。

程ヶ谷カントリー俱楽部は1922年(大正11年)オープン、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースの開場8年後のことだった。戦時中は他のゴルフ場が軍に接収されたが、ここは農作部を設け、ジャガイモや野菜などを栽培した。
戦後は米軍に接収された。1951年にようやく日本人会員のプレーが限定的に許され、米軍の優先的使用は1953年まで続いた。

グラブハウスは1950年米軍の失火で焼失、1953年再建された。

その後、ゴルフ場の周囲は民家、学校、アパートなどに囲まれてしまったため、1964年、奥地の現横浜市旭区に移転が決定、1967年移転先でオープンした。
14:43
「教育相談・支援センター」と入口看板があったが、あまり使われていない様子。
14:44
というか雨漏りしてるし。

横浜国大は、前身の横浜高商、横浜高工、横浜師範など旧制各学校の場所で各学部として発足したからまとまったキャンパスがなかった。1967年、ゴルフ場跡地を購入、キャンパスを造成し、1979年移転を完了した。私が学部を卒業した年だから、キャンパスの場所を知らなかったのも無理はない。
14:44
クラブハウスは、キャンパス造成中には工事関係者の人の休憩場所だったのだろう。
階段はあるが(いまは)平屋である。

未だ昼食を食べていなかった。
熱海から横浜経由で羽沢横浜国大駅に12:44に到着、大学に13時近くに来て資料館を見学したから時間がなかった。
大学キャンパスに見学に来たら学生食堂で食べるのは鉄則だが、春休みで営業時間を短縮しているのか、どこも開いていなかった。
大学のまわりにも店はない。
そこで西門近く、第2食堂の隣、理工学部地区のローソンに行った。
15:02
ローソンのイートイン
サンドイッチやおにぎりもあったが、300円程度のカップ麺を買ってお湯を入れて食べた。
お湯のポットは3つ並んでいた。
イートインスペースはちょとした食堂くらいあり、
飲み残しの汁を捨てるバケツもあった。
これは素晴らしいアイデアの施設だと思った。
学食とは違ってたった一人の店員がいるだけでよい。学生たちはセルフで1日中食事ができるし、ローソン側も大した人件費をかけずに売り上げを期待できる。

カップ麺を食べ終わり、理工学部を見学した。
キャンパスの西半分を占めている。
K氏の案内でローソンの隣、船舶海洋工学棟にいく。
15:33
錨、スクリュー。
こういうものは実物を置くだけで芸術的モニュメントになる。
15:34
船舶工学の校舎らしく入口ロビーに船の模型があるが、ママチャリの持ち主に邪魔者扱いされている。
子どもを乗せるようになっているから、教員のものだろう。
15:34
こちらの模型も扱いがずさん。
ガラスケースには「台車を使用した後は元の場所にもどしてください」と貼り紙が。「元の場所」とは模型の前だろうか、きちんと並んでいる。ケースには他にコロナ5類移行のお知らせ、2023冬の省エネキャンペーンなど色々貼って合って船が見えない。いつも見ている人にとっては精密な模型や、先輩の業績、伝統なども有難味がなくなり、邪魔者にさえなるのだろう。
15:35
流しのある部屋にも自転車
管理の緩い、自由な大学らしい。
15:35
構造実験室にいってみた。
15:35
ここにも自転車。駅から遠いキャンパスはこれが必須なのか。
建物の前は、指定された駐輪場以外は置けないから、建物の中に入れたのだろう。廊下を乗っていたりして。

工学部の実験室というのは、試薬棚、流しのついたキッチンのような実験台が並ぶライフサイエンスの研究室の風景と大きく違う。
15:35
雑然とした感じが大学らしくて良い。

2階に上がってみた。
15:42
タンカーの建造中、航行中の写真もやはり無視され、その前はぶら下がり健康機。

K氏はロボットの群制御を研究しているようだが、そちらの研究棟にもいってみた。
15:50
こちらの入口ロビーは自転車もなく少しすっきりしているが、学生の研究発表の場と化している。
15:55
研究室のあるフロアの風景は圧巻だった。
入り口ドアの部分を除いて、壁全てに研究発表ポスターが飾ってある。
よく考えれば合理的だ。つねに他部門の人にテーマを紹介、討論できるし学生の励みにもなるだろう。
15:59
K氏の研究に近いドローンの群制御の研究もあった。
16:09
西門から出て振り返る。地味だが、良い大学だと思った。
この後バスで横浜駅に出て、ジョイナス名店街でスイーツを食べて帰宅した。

ちなみにK氏は防衛装備庁の次世代装備研究所でロボットの研究をしているが、自宅は東京北区の王子。南北線で東大工学部がすぐ近くである。しかし東大は戦後ずっと自衛隊、防衛省が嫌いで共同研究などを一切しない。そこで防衛省は研究員を派遣するにあたり、伝統的に筑波大学と横浜国大に頼むしかなかった。研究テーマよりも大学で制限される。彼ははるばるいくつもの路線を使って通った(もっとも幸か不幸かコロナで在宅研究が主だったようだが)。

後日、私は防衛技術協会ヒューマン防護部会(2024₋03₋07、市ヶ谷)の発表を聞く機会があった。演者の一人が毒ガス検知システムの開発プロジェクトについて説明した。経済安全保障の枠組みで国が進めようとしたのだが、東大と日本学術会議に妨害の動きがあったらしい。東大は一方で中国人留学生を無制限で受け入れ、情報は筒抜けである。そもそもほとんどの科学技術に軍用と民生用の線引きは難しい。要するに東大などは憲法9条を盾に自衛隊の存在を認めたくないのである。

戦後のおかしな左翼思想は、いまだサイエンス(論理的思考)を上回っていることに驚いた。ふつうの国でこういうことがあるだろうか?

研究者の中には、この世に中露北鮮、災害がある限り、軍民協力が双方の利益、また日本の平和に寄与すると思う人もいるだろう。それを大学として反対するのは、大学の国家からの自由(?)を守るというよりも、研究者の自由、国民の利益を阻害していないだろうか?
人間の思想、正義は厄介なものだ。

(続く)

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2024年3月12日火曜日

横浜国大 宮脇教授の森と資料館

2月26日、熱海の帰りに横浜国大に寄った。

来るのは初めて。

都心から離れているため散歩、見物することもなかったし、理工学部はあるが医学部、薬学部などはないためライフサイエンス関連の学会で来ることもなかった。

千葉大、埼玉大は見たので、いつかは来ようと思っていた。K氏が防衛省から内地留学していたので、ちょうどいい機会だった。
実はつい先日まで大学がどこにあるか知らなかった。
地図を見れば三ツ沢運動場の西にある。
横浜駅から相鉄線に乗って西谷で新しくできた路線に乗り換え、一駅目の羽沢横浜国大で降りる。2019年11月開業したばかりだから駅舎はお洒落で立派だが、月曜の昼ということもあり人がいない。
横浜国大 
右上が羽沢横浜国大駅
2024₋02₋26 12:50
駅が新しいのだから周辺にも何もない。
しかしこの線路(貨物線)と橋は、ずっと昔からあったようだ。
(新しい相鉄新横浜線は西谷から東急、副都心線へいくが、羽沢横浜国大で分かれ武蔵小杉、大崎を経て埼京線へいく相鉄JR直通線は、途中からこの昔からの貨物線にのる)
12:56
貨物線路を越え住宅街に入ると、丘と谷が入り組んでいるだけに道が複雑。
あちこち曲がっているうちに谷の向こうに横浜国立大学の看板を掲げた校舎が見えた。
12:58
北門から入る。
駅からここまで学生らしき人は誰もいなかったが、学内にもいない。
13:02
校舎と校舎の間は、首都圏の大学では珍しいほど、手つかずの藪になっている。
通路が舗装されていなければ山林になってしまうだろう。

聞けば、コロナでキャンパスの人口が減ったとき、クワやつる性のクズなどが繁茂し、それらが樹木化するのを防ぐため2020年、YNUヤギ部が結成され、2頭のヤギが除草に使われたという。今そのヤギはどうなったか知らない。
13:06
理工学部の校舎群を抜けると、少し広いところに出た。
図書館などがあり大学の中心らしかった。
13:06
図書館の前は芝生の窪地になっていて野外音楽堂と書いてあった。
図書館の建物でトイレを借りる。
13:18
図書館と野外音楽堂の前の道を東に進む
左が経営学部、右が教育学部の建物が並ぶ。

ここまで歩いて来て、この大学の一番の印象は樹木の多さ。尋常でない。
ここも並木というより密度濃い森の中に道を開いた感じ。
13:20
ここは大正時代にできた「程ヶ谷カントリー倶楽部」(保土ヶ谷ではない)が戦後1960年代に戸塚区に移転した跡地である。
もとはゴルフ場だったわけだから、これら樹木はすべてキャンパスを造成した後に植えたもの。ふつう大学校舎の間は空き地だったり、明るい芝生だったり、木を数本植えたり、並木も間隔をあけて植える。ところがここは鬱蒼とした自然林のように様々な木が密集し、学内道路から建物が見えないくらいである。
これは相当な思想、意思が入っていると思った。
あとで聞いたら、1961年から横浜国大に勤務されていた宮脇昭名誉教授(2021年、93歳で逝去)のお仕事だったらしい。
13:20
正門に置くような大学名YNUのモニュメントが道の真ん中にある。

図書館から来る、このメインストリート?をまっすぐ行くと坂を下りて正門に行くのだが、坂の前の右奥に教育文化ホールがある。
この建物内に横浜国大資料館があり、K氏が見学の予約をしていてくれた。
普段は閉まっているようだが、予約した13:30に大学の広報の方がいらして開けてくれた。
13:31
資料館に入るといきなりキャンパスの鳥観図をうつした大きなパネル。
相鉄の駅から歩いてきて、すっかり山の中だと思ったら横浜が思ったより近い。
広報の人らしく「海もしっかり見えて、ここは横浜の大学なんだということがアピールできるんです」と少子化時代の志願者募集のことを考えていらした。今は国立大学もうかうかしていられないようだ。
13:37
まず目に入ったのが東京オリンピックの聖火リレートーチ。
水素ガスを燃やすことで二酸化炭素が出ないトーチを横浜国大らが開発した。
しかし全国の聖火リレーで必要とされたトーチは1万本、水素ガストーチは手作りで非常に高価、さらには2.4キログラムもあり、一般国民が持って走るには重すぎる。そこで点火式など要所だけで使われたという。

水素は燃えても水蒸気になるから色はない。見えなければ意味がないから重曹NaHCO3を添加してオレンジ色を付けたという。ナトリウムの炎色反応である。しかしクリーンを目指しているのに水素、トーチを作るのに相当なエネルギー、資源を使うのは皮肉である。「地球に優しく」というならギリシャから聖火を持ってくるなどという不思議なイベントをやめるか、古式ゆかしく薪に火をつけて走ればいいのである。

横浜国大は水素エネルギーの関連技術が得意なようで、水素中心の未来社会をパネルにしていた。しかし生産は水の電気分解という。電気を使って水素を作りそれを燃やすなら、直接電気をエネルギーに使ったほうが効率良いことは明らか。欧米が電気自動車で先行し、トヨタが水素自動車に力を入れているが、(電気分解で水素を作る限り)水素自動車が電気自動車を越えるのは熱力学の原理からして不可能である。

しかしこの資料館はオープンキャンパスで高校生を相手にする場所で、私のようなひねくれたものは少なく、彼らは「水素=クリーン=未来」をテレビで刷り込まれているからこれでいいのだろう。

多くの大学資料館が創立からの歴史やその関連品を展示しているが、そういうものは少なく、いまの男女学生の楽しそうな学生生活や笑顔で実験をしている写真が目立った。これも高校生対象だろう。
13:45
歴史的なものとして「横浜国立大学」の表札があった。
現在、各校門の表札は毛筆の書体でなくYNUを入れた現代的なフォントになっている。これも今どきの高校生を意識したのかもしれない。
13:46
キャンパスの開校当時と現在の対比写真があった。
古い建物がなくなったり、そのままだったりしているが、目立つのは樹木の生長。
故宮脇教授は、土地本来の自然植生の木を中心に、多種類の木を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」を提唱した。つまり、本来の植生を考えないで作った美しい森は、いつまでも人間が手入れをしなくてはならないが、それを怠れば荒廃する。本物の森なら自然の力で成長するという。
人は亡くなってもその森は残るとはよくいうが、この植生なら余計残るだろう。
13:46
経済学部1号館は樹木で見えなくなった。
昔は正門から事務局校舎が見えた。
13:50
学生運動が盛んだったころの学内看板
これに一番感激した。
よく残っていたものだ。
学生運動については別のブログで書きたい。
14:02
創基150周年・開学75周年記念基金の寄付者名簿

広報の方は、お名前を忘れてしまったが、とても感じの良い方だった。我々3人のためだけに開けてくださり、30分ほど丁寧に説明していただき、どんな質問にも答えていただいた。とても贅沢な時間で、感謝する。
横浜国大に好印象を持った。
もし知人で関心ある人がいたら、進学を勧めたい。

資料館を出て坂を下り正門に行ってみる。
14:12
これがなぜ正門か分からない。
羽沢横浜国大駅から北門、西門まで15分、
地下鉄三ツ沢上町駅から正門まで16分。
相鉄本線和田町駅から南門まで徒歩20分。
なお横浜駅から学内乗り入れバスがあり、それは正門から入る。
(しかし理工学部の人は西門から出たところのバス停を使う)

ふつう正門というと、入れば時計台とか本館とかが正面にあったり、出れば駅に向かう道に商店街があったりするのだが、ここは中も外も何もない。
正門を出ると谷を通る横浜新道(国道1号バイパス)を橋で渡り、誰もいないその道をそのまま行けばグラウンドがある。
14:22
左は野球場、右はテニスコート
14:22
陸上競技場
首都圏とは思えない広大なキャンパスである。
春休みはクラブ活動の時期というのに学生がいない。
14:29
正門に戻ってキャンパスに入る。

これから理工学部を中心に建物に入ってみる。
(続く)


2024年3月7日木曜日

熱海へダンス旅行 貫一お宮の松の由来

2月25日、熱海に来た。

ダンス旅行スタッフとしてのアルバイト。

熱海は少なくとも2回は来ている。
最初は1985年9月の社内旅行。
1991年6月には山田ゾウさん夫妻と昭和電工の保養所(昔の偉い人の別荘)に泊まった。
また84年、90年の社内旅行も伊豆だから記憶にないが熱海を通っているかもしれない。

しかしその後、熱海は縁がなかった。
鎌倉や京都などと違って、本来、一人旅するようなところではない。
宴会も温泉も興味がない私には関係なかった。
13:59 熱海、駅前広場
熱海のホテルの多くは海辺にある。駅から海へ降りる坂には、土産物の仲見世アーケード街があるが、今回初めてアーケードが2本あることに気づいた。
14:00
平和通り名店街
14:01
こちらは仲見世名店街
午前中歩いた鎌倉と対照的にここは日本人が多い。
特に若者のグループが多いのは意外だった。
14:05
改めて考えると、今まで通っていた土産物店は仲見世通りだったのか平和通りだったのか分からなくなってきた。
14:06
こちらは平和通り

熱海は文字通り海の中から温泉が出ていたのだろう。当然陸にも湯は湧き出ていただろうから、古い温泉地と思われる。源頼朝が流され北条氏らの本拠地だった伊豆と鎌倉の間だから鎌倉時代には様々な人が湯浴みを楽しんだことだろう。まともな医薬のなかった時代、湯治場としての価値もあり、徳川家康なども訪れたとか。

しかし明治になって政府要人、富裕層などの保養地になっても、今のように関東地方全体の一般庶民が気楽に宴会に来るわけではなかった。
鉄道がなかったからだ。
今でこそ東海道線も新幹線も止まるが、当初の東海道本線は国府津から御殿場経由であり、小田原、熱海を通らなかった。

明治29年(1896)には熱海から小田原(鉄道馬車が来ていた)まで「豆相人車(ずそうじんしゃ)鉄道」が開通。4〜6人乗りの客車を2〜3人の人夫が押し、約25kmを4時間で結んだとか。運賃は相当高かったらしい。江戸時代のかごをほうふつさせる。
ようやく1907年に蒸気機関車の軽便鉄道に代わり、大正14年(1925)国府津駅- 熱海間が「熱海線」として開通、東京からぐっと近くなった。
難工事だった丹那トンネルが開通、国府津 ~ 熱海~沼津の東海道線ができたのは昭和9年(1934)である。

サラリーマンの宴会は昭和30年代の高度成長時代からか。

ホテルの送迎バスがいっぱいだったので雨の中、歩いた。
下り坂なので問題なかった。
14:19
ニューフジヤホテル到着
社交ダンスは斜陽であり、東京でも新宿ステレオホール、有楽町東宝ダンスホールが閉店した昨今、熱海でダンスホールがあるのは(ネットで検索する限り)ここだけのようだ。

15:30からダンス90分、(仕事)
バイキングの夕食を挟んで
19:30からダンス90分、
21時過ぎに雨の降る露天風呂に入る。
その後、我々スタッフは主催者の部屋に集まり、何十年ぶりかの乾きものと缶ビールの部屋飲み。
久しぶりに酔ったまま寝た。
6:10
翌朝、2月26日 部屋の窓から。
前日の鎌倉と違っていい天気になりそうだ。
同室の西田さんが朝風呂に行くというので一人で散歩に出た。
6:22
左の奥がニューフジヤ
右は和菓子の「熱海・本家ときわぎ」
向かい(写真手前右)がやはり和菓子の「常盤木羊羹店 総本店」であるが両者の関係は知らない。双方とも歴史ある建物。
この銀座通りを(背後に)まっすぐ下れば海だが、南隣の糸川沿いの遊歩道を下ることにした。
6:24
糸川の御成橋
「春の夜の 夢さへ波の 枕哉」
徳川家康の熱海入湯句碑があり、「御成り」というのは家康のことか。しかし橋はいくつもあり、ここを御成橋と名付けた理由が分からない。
6:25
この遊歩道にはいくつものオブジェがある。
誰かがタコを洗ったまま忘れたかのようなシュールな作品。
6:27
橋の欄干が竜(怪獣?)になっている
6:28
鶴亀でなく亀とマンボウ。
さっきのタコとは作者が違うような同じような。
6:28
「せいえう」坪内逍遥の歌碑
この遊歩道は密度濃くいろんなものがあるが統一性はない。熱海らしい。
6:28
このオブジェは花の電球のようなものがぶら下がっている。
6:29
あたみ桜の基準木
知らなかったが、早咲きで有名な河津桜より1か月早く咲くらしい。開花は1月から2月上旬、すでに葉桜になっていた。温泉の湯気に当てればもっと早くなったりして。イタリア人が明治4年にレモン・ナツメヤシとともに熱海にもたらしたという。
6:30
橋の欄干が大波になったところで海が見えた。

国道135号線を渡ると浜に出る。
6:33
わずかに遅れたが、日の出を見るのは初めてかも。
月曜朝とはいえ泊っている客は相当いるはずだが、散歩の人はあまりいない。
6:35
橋田寿賀子顕彰碑
熱海名誉市民のようだが、生まれ育ったわけでもなく、成功してから温泉保養地の別荘に住んだだけというのは、熱海と結びつく物語が浮かばない。熱海はこういう文化人が多いだろうから、彼女だけ立派な碑を建てる意義は他にあるのだろうか。
向こうの像は「おしん」かと思ったが、江戸幕末の義民、釜鳴屋平七。こちらは熱海の網元。貧しい漁民の側にたち代官所に直訴、4年投獄のあと八丈島に送られる途中死亡したから、ここに立っていてよい。
6:38
熱海サンビーチ
向こうの大型クルーズ船のような建物は、ウイスタリアンライフクラブ熱海。
藤田観光が1982年に建てた会員制ホテル(今は一般人も利用可能?)。
1991年の写真にも写っている。
一部は分譲リゾートマンションになっているらしい。苗場、湯沢あたりのマンションは暴落しているが、ここは東京に(心理的に)近いから需要はあるだろう。
1991年6月

熱海の海岸で一番の名所は、貫一お宮だろう。
記憶の像は、昔実物を見たのか、テレビなのかどうか分からない。
当然場所が分からず犬を連れた地元の方らしい男性に聞くと丁寧に説明してくださった。40代くらいの、まだお若いのに話は枯死した初代の松や釜鳴屋平七にまで及び、こちらは朝食時間もあるので切り上げさせてもらい、現場に急ぐ。
6:43
貫一お宮の像(1985)
主人公の間貫一は一高の秀才。許嫁のお宮がダイヤモンドの指輪に目がくらんで富豪に嫁いでしまい、腹を立て、熱海の海岸でお宮を問い詰め、復讐を誓う。
「来年の今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせてみせる」(金色夜叉)

このセリフ、声に出してみると、現代なら、別れを切り出された男が(ギャグでも)これを言ったら、女は(笑えばまだいいが)頭がおかしくなったとびっくりするだろう。

ちなみに、今月今夜(1月17日)の月は形が変わらない旧暦ならもっと良かった。明治5年に施行された太陽暦では毎年、今月今夜の月は形が変わる。しかしここでは曇るかどうかが重要だから問題ない。なお蹴っている足は下駄であるが、原作では靴を履いていたらしい。
新聞連載だった『金色夜叉』は完成前に尾崎紅葉がなくなり、弟子の小栗風葉が完結させたという。

尾崎紅葉(1868年江戸生まれ、帝大中退)は35歳で早逝し、意外なことに記念碑、記念館などが全国どこにもなかったらしい。
そこで紅葉の孫の尾﨑伊策氏(当時85、横浜市)から、記念碑があってもいいのではないかという提案が市にあり、紅葉生誕150周年の2017年に制作が具体化。肖像の陶板と碑文の黒御影の費用は尾﨑伊策氏が、周囲、土台となる白御影石は熱海市が負担して2019年1月17日建立序幕された。
6:43
お宮の松(2代目)
本来は「貫一お宮の松」だろう。
金色夜叉の爆発的なヒットにより、足蹴にした場所を探す人が増え、1919年門人の小栗風葉の句が刻まれた「金色夜叉の碑」が松の傍に建立されるとそこが現場となった。松はそれまで羽衣の松と呼ばれていたが、以後お宮の松と呼ばれる。樹齢300年の松は道路の真ん中にあり、両脇を人馬、次いで自動車が通ったため衰え、1966年2代目が海寄りに植えられ、碑も移設された。さらには1985年足蹴の像まで作られ、熱海一番の観光資源として「現場」が確定した。

しかし橋田寿賀子顕彰碑といい貫一お宮といい、熱海の土地に根差したオリジナルのものではない。温泉客を相手にした人工的なにおいがする。

散歩しても町・民衆の歴史が分かるような名所がなく、海を眺めるしかない。古い城下町や古都と違い、熱海はやはり、夜遅くまで飲み食い騒いで、朝は寝坊して、散歩でなく風呂に入る町なのである。
6:49
ホテルのある熱海銀座にもどってきた。
今は眠ったままだが夜はネオン輝く街になるのだろうか。
6:52
ホテルに戻り、7時から昨夜と同じバイキング会場で朝食。
体育館のように広い会場で全館の宿泊客が時間差をもって集まる。料理を補充したり片付ける会場スタッフはほとんど外国人。公式サイトを見るとおとな2名、2食付きで合計22,000~とあった。この価格はこうした合理化努力の結果だろう。

8:30から10:00までまたダンス。
全部終わり、皆より早く一人で出て送迎バスで熱海駅まで。しかし電車まで時間があった。
ぶらぶらと仲見世アーケード街に入る。
10:45
卒業旅行だろうか学生っぽい若者のグループが目立った。
10:46
「熱海プリン」や、小さな食パンの形をした又一庵「熱海ばたーあんパン」は行列ができていた。
私は逆にいちばん暇そうな店で温泉饅頭と小魚せんべいを買った。
スイカが使えなかったが、他に客がいなかったので、まだ1度しか使っておらず慣れていないPayPayを聞きながら試してみることができ、熱海の最後は有意義だった。

熱海までの往復交通費は各駅停車でも4000円かかるから、差し引くとアルバイトというよりボランチアだが、退職有閑老人には良い娯楽アクセントになった。