2017年1月7日土曜日

弥生3・浅野家正門跡

東大浅野キャンパスは浅野家の屋敷あとである。
40年近く前、谷中にいた頃すぐわきを通っていたが一度も入らなかった。谷根千地区に戻って4年目、ようやく中に入ってみたが古いものが何もないどころか、所狭しと建物が並び、大学らしい緑も少なかった。工学部でなく文系のキャンパスだったらもう少し違っただろうか。
若いころ探検していたら浅野時代のものが見られたかもしれないが、当時は興味なかった。

がっかりしながら一旦弥生町の住宅街に出て記憶のある場所を探しながら自転車で暗闇坂を下りた。学位論文を製本してもらったところはなかった。ぐるっと回って旧浅野邸正門跡に行ってみた。七倉稲荷の前の通りは記憶があるが、その裏にあたるこの場所は初めて来た。

芸州広島浅野家は上屋敷が今の霞が関、国土交通省のあたり、国会議事堂あたりにも拝領屋敷があったが、明治政府に取り上げられ、新たにその北西、永田町に屋敷を求めた。そこも政府機関になるというので、明治20年、空いていた向岡弥生町を購入して移ったという。本邸以外の広大な土地は人に貸し、数多くの文化人が住み閑静な住宅地となった。

手近な地図をいろいろみたが浅野邸部分は白いままだ。唯一、goo地図の昭和22年の航空写真に、旧浅野邸が写っていた。家屋はほとんどない。

17代当主浅野長親氏の話(谷根千67号2001)によると、昭和16年12月8日に浅野家が駒込3丁目に移転したというから、空襲ではなく東大によって建物が撤去された後の写真のようだ。それでも庭や建造物の配置、邸内の道などが、なんとなく分かる。敷地東南にある正門からの道が左に曲がりながら坂を上がり、回り込んで高台の本邸母屋に辿りつく感じは湯島の岩崎邸に似ている。

さて、この日、正門跡から入るとすぐ右に誰も住んでいない職員宿舎のようなものがあり、40年前によく見た昔の景色に出会い、ほっとした。東大の中では不便な場所だから、学部間競争のようなビル建設ラッシュから逃れられたのだろうか。

いや、旧正門の左に文学部アネックスという意外な建物があった。ここ、本郷地区の端の、浅野キャンパスのさらに端、という辺境の場所で、これはどうしても建てざるを得ないものだったか?既存の建物でやりくりできなかったか?建てなければどういう不都合が起きたか? 
空いている土地があると言うだけで、気軽過ぎないか? 民間並みに努力しているか?
お金があると、工夫もなく知恵も出さず、ただ古いものを壊し、木を切って、周辺を整備し、いろんなものが建つ。


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