前回、明治32年に作られた薬誌のジェンナー像が行方不明であること、一方、上野の国立博物館に建つジェンナー像がその碑文から薬誌の像に来歴がそっくりであることを紹介した。
この二つのジェンナー像の関係を調べ始めたら深瀬泰旦氏の論文があった(日本医史学雑誌2009年, 55巻291)。
この二つのジェンナー像の関係を調べ始めたら深瀬泰旦氏の論文があった(日本医史学雑誌2009年, 55巻291)。
それによれば、明治24年、浜松の牛田友質、佐々木養両氏が種痘発明者ジェンナーの遺徳を称え像を立てようとした。ところがジェンナーの風貌を知る日本人は誰もいない。八方手を尽くし、在ロンドン大越成徳領事から写真6枚を入手することに成功。しかし日清戦争が始まり資金調達もままならず計画はとん挫した。
一方種痘発明100年にあたる明治29年を前に中央でもジェンナーを顕彰しようという動きがあった。牛田、佐々木両氏は独自計画を断念し、貴重な写真とそれまでの募金を大日本私立衛生会に寄付する。
明治29年5月14日、善那氏種痘発明百年記念会が上野公園で華々しく開催され、諸行事終了後、大日本私立衛生会の後藤新平が東京美術学校に像の製作を依頼した。同校では高村光雲が主任となり、明治30年3月ごろには助手の米原雲海が製作に着手したらしい。
さて、深瀬氏によると、過去ジェンナー像は3種、6体作られたという。
(1)上記、米原が着手、明治30年11月に完成した等身大の漆塗り木像。現在、東京芸大美術館に収蔵されている。
(2)明治37年6月に帝室博物館の傍らに建てられ今もある像。
(3)銅像(2)を作るために製作したと記録にある60㎝ほどの木像(行方不明)。
(4)島根県浜田市に2000年に建てられた立像。以上4体は、洋服姿の同じ意匠。本を開き覗き込んでいる(先月号の写真)。
(5)大正11年(1922)ジェンナー没後100年を記念して牛田友質の次男、大野徳らが像の頒布を計画、米原雲海に製作を依頼したもの。これも洋服姿だが本を鷲掴みにしている。
(6)明治29年の記念会当日に中央演壇の左に安置されていた胸像。藤田文蔵製作というが現物も写真もない。
薬誌のジェンナー像はローマ風の衣装というから上記6体のいずれでもない。
すなわち研究者も知らない、歴史から消えてしまった像のようだ。
帝室博物館の像が建つまで8年もかかった理由には、この薬誌の像が関係しているのではないか。
それにしてもこの像はどこへ消えたのか?
彼らが別の意匠で作り直したのはなぜか? 謎である。
すなわち研究者も知らない、歴史から消えてしまった像のようだ。
帝室博物館の像が建つまで8年もかかった理由には、この薬誌の像が関係しているのではないか。
それにしてもこの像はどこへ消えたのか?
彼らが別の意匠で作り直したのはなぜか? 謎である。
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