2017年2月17日金曜日

栃木の霊場、岩船山高勝寺

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栃木の岩舟町。
地元以外で知っている人は少ないだろう。
私は50年前から、長野にいる子どものころから知っていた。
長野県中野市大字「岩船」360番地。
生まれも育ちも、つい最近までは本籍も、ここだった。
このことは後で書く。

栃木岩舟は知っていても実際行くことはないだろうと思っていた。
しかし、たまたまこの駅に用事で来て、ついでに周りを歩いてみた。

駅舎は古く、すぐ後ろが岩船山。



岩舟石の産出で有名、今は採石していないが、昭和30年代には36軒もの石材店が軒を並べ、毎日200台ものダンプカーが東京方面や関東各地に石を運んでいたらしい。
駅のそばに変わった石造りの建物があった。
近づくと岩舟石資料館(左の民家風)で、無人だが自由に入れた。


線路の近くから参道があり、まっすぐ岩船山の上まで伸びている。
石段が長い。600段あるという。
一気には登れない。
途中、いろいろ見ながら上がっていく。
階段左側、これは自然地形でなく採石跡だろう。

右側にもある。
こちらの採石跡は時に駐車場になるらしい。
平坦地の手前に祠のような地蔵堂があり、真ん中の地蔵が船に乗っていた。

やっと登った。
ときにスカイツリーが見えるらしいが、きょうは春の陽気でかすんでいる。
頂上は平らで曲がると森の中にいきなり寺が現れる。
こんな田舎の、こんな山の頂上に、何と立派な仁王門。



これらを作るには富が要る。
周りに大きな町があるわけでなく、なぜこんな人家まばらな田舎に、こんな立派なものがあるか。
これはこの場所が特殊だから、と考えざるを得ない。 

仏教以前の土着信仰に、岩肌が出ている山には死者の霊魂が集まるというのがあったらしい。
岩船山は採石でこの形(岩の船?)になったのでなく、太古からこの形で、それゆえに、仏教以前の霊場であったところに、天台宗の寺が建ったのではないか?

本堂の横、大量の卒塔婆に、驚くというか、なにか恐ろしさを感じた。
斜面に並ぶ多数のお地蔵さんが服を着せられこちらを見ている。

死の世界である。
平日のせいか、誰もおらず、無数の霊魂に見つめられているようで、晴れているのに寒気がした。
怖くて、写真が取れないほどだった。

本堂の前にはお札が供えられていた。
ここは安産、子授かりの寺としても有名で、こういう生きた人間の営み、現実を形でみると、死の世界の不気味さのあとだけに、ほっとする。
絵馬もあり、平凡な願望、普通の人のぬくもりも感じられて、だんだん元気が出てきた。
さらに上って奥ノ院という場所に行ったら、建物はなく、やはりお地蔵さんだった。
後ろの平坦な林にロープが張ってあった。
またいで枯草を踏んでいくと見事な断崖絶壁、眼下は採石跡だった。

上の写真、右に見える車の小ささから高さが分かるだろうか。

金網フェンスがあって、最初は無粋だと思ったのだが、近づいたら、柵のすぐ外は地面がない。
斜面が全くない。
よくこんな場所に設置できたものだと驚いた。
フェンスという長い構造物の大部分が崖上に乗っかってバランスをとっているだけで、この写真の部分は空中に突き出ているなのではないかと思うくらい、断崖の、端の、端の端っこだった。

2011年東日本大地震でどこか崩れたそうだ。
崩れる寸前までひびの入っている部分が他にもあるのではないか? 
ここも、いつか何の前触れもなく崩れるのではないか。フェンスの2メートル以内に近づけなかったのは、そういう崩れる心配より単なる高所に対する恐怖だった。そのくらい見事な「断崖絶景」だった。

全く違った現実的な怖さを味わって、再び寺まで降りると、霊場としての不気味さが薄らいで、写真を撮る余裕が出てきた。
撮っていいものかと迷ったが、記録のために、卒塔婆の一部を写しておく。

お地蔵さんはセーターやジャンパーを羽織っている。
石段を上がって奥の方を写す勇気はなかった。

仁王門横の賽の河原は、多数の小さな地蔵と大きな地蔵。
大きな地蔵尊は、河原に遊ぶ子供たちを襲う鬼を追い払うためにあるという。
ちいさな無数の地蔵の前には大量のおもちゃ、人形が供えられていた。
こんなにいっぱい子どもたちが亡くなったのか。
さすがに写真は撮れなかった。
記憶を残すための遠景が精いっぱい。

ちょっと忘れられないものをいくつかみて、
1時間半ほど滞在して両毛線に乗った。
車窓から見る岩船山。
両毛線に続き宇都宮線も車中座っていたら、大宮で降りるときに足がこわばっていた。石段上り下りが遅れて効いてきた。

(続)信州中野の岩船地蔵


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