2017年2月18日土曜日

信州中野の岩船地蔵

千駄木菜園 総目次


栃木岩舟の岩船山高勝寺をお出かけブログを書いたので、お出かけ後のことを書く。
私は長野県中野市大字岩船で生まれ、大学入学で上京するまでここに育った。
4年前千駄木に引っ越すまで、各地を転々としながらも、信州への愛着は強く、家族ともども本籍は「~岩船360番地」だった。

その中野市は長野市から北へ20㎞あまり、長野盆地の北の端というか、飯山、野沢、志賀高原を含む奥信濃の入り口にある。

岩船は長野電鉄信州中野駅のすぐ裏にあるため、この数十年で激変、桑畑の後のリンゴ畑がなくなってアパートが乱立した。現在、岩船地区内は400世帯もあるらしいが、本来は、江戸時代から昭和40年代まで、つまり私がいたころまでは、代々の農家ばかり60軒ほどの集落だった。
そして部落の真ん中に岩船地蔵尊がある。


(シルバーパソコン同好会 http://www.geocities.jp/silpcdoukoukai/fulusatoB/iwafunejizou_33..html
から無断で写真拝借しました。今度帰省したらご挨拶に伺おうかな)

子供ころ、岩船という地名は栃木と新潟にもある、と大人に教わった。その後何十年もそれ以上考えなかったが、昨日岩船山に登ったことで、改めて考えた。

信州岩船は夜間瀬川扇状地の平坦な地にあり、岩も船も全く関係ない。だから岩船地蔵は岩船にある地蔵ではなく、岩船地蔵があるから部落名が岩船になったのだろう。

ここでネットを見てみた。
驚いたことに信州中野、栃木岩舟、新潟村上のほかに、千葉、鎌倉、横須賀、尾鷲や鳥取と、全国各地にある。船形の台座に乗っているものが多い。

面白いのは三大岩船地蔵という言葉があることだ。
信州中野は、信濃、越後、下野の3体は同じ材から彫られたとして、この3か所を特別なものにしている。
http://www.geocities.jp/silpcdoukoukai/fulusatoB/iwafunejizou_33..html

一方、公益社団法人千葉県観光物産協会のサイトは、越後、下野と千葉いすみを三大岩船地蔵尊としている。
http://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/7397

また、いすみ市産業経済課水産班と関連あるサイトでは、4つを4大岩船地蔵としている。
http://www.gyokou.or.jp/100sen/pdf/03kanto/033.pdf
争っても仕方がないとのことで、4か所の岩船サミットも開かれているらしい。

栃木岩舟は、中心であることの自信からか、三大岩船地蔵などには触れず、日本三大地蔵尊を名乗る。(岩船山高勝寺の他に滋賀県長浜市・木之本地蔵院、山形県舟形町・猿羽根山地蔵尊)

注目の村上は、地蔵が多数あるもののどれが岩船地蔵が特定できていないせいもあるのか、三大がどこか、ということには関心がないようだ。

前置きが長くなったが、さて本題。
岩船地蔵とは何か?

相模には多くの岩船地蔵があり、船の台座に乗っているらしい。
「屋根のない博物館」ホームページによれば
http://park19.wakwak.com/~hotaru1/funeninotta-ojizousan.html
 「(作られた時期は)今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期は諶盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつに数えられている霊地です。
 熱狂的とも云える布教活動は広い地域に及びました。甲斐の記録では、信濃を経由して、神輿を奉じ、旗、天蓋を立てた「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がやって来て三味線、尺八、鉦、太鼓で念仏を唱え、踊り子には男女の子供をこしらえ、村々を一、二日ずつ練り歩いて、これを祀った、とあります。」

また、
夢野銀次氏ブログによれば、福田アジオ氏の話として
http://kasiwagura20.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-01a1.html
 「念仏踊りをしながらねり歩き、次の村へ送る。こうした村人総出での地蔵送りは亨保4年(1719年)の3月から10月と短期間だけの動きでの流行で」
「村から村へと岩船地蔵送りが行われた地域は、群馬・上野から信濃千曲川に沿って越後へ。信濃から今の小梅線を通って甲斐へ。甲斐からは富士川に添って駿河と相模。別の甲斐から奥多摩を経て武蔵の国へと『地蔵送り』が行われたことが古文書史料で確認できます。また、同じ地域で船を台座にした岩船地蔵尊の存在が確認されています。」
とある。

すなわち、西関東甲信越のほとんどの岩船地蔵は、栃木から出発し、台座の船形は本家の岩船地蔵(すなわち地蔵の名前)からきており、「あの世へ行くとき三途の川をお地蔵さんと船で渡る」という信仰と結びついたのであろう。
本家の「岩船」だけは、地名(すなわち山の形)から来ている。

岩船信仰がこの時期に広まったとすると、わが故郷の信州中野の地蔵は、言い伝えでは、天平のころ行基菩薩がきて、下野、越後の地蔵と一緒に一本の木から三体の地蔵を作ったというが、なんとなく信じがたい。
村外の一般の目から見れば、他所と一緒に江戸時代に岩船信仰がやってきて、たまたま、この地に熱心な信者がいて、お堂を立て今までお守りしてきた、と考えたい。

各地の岩船地蔵の伝承、説明を読むと、千葉いすみの岩船地蔵だけ伝承、立地とも異質に見える。他は全て岩船山高勝寺と関連があるのではないか? 路傍にあるものが多い相模などの岩船地蔵は、越後村上のも併せて江戸時代の下野発祥の地蔵送りによるものにみえる。

一方、信州岩船だけ比較的大きな境内を持っているのは、江戸期の爆発的流行で名前が岩船地蔵となったものの、それ以前から伝承通りの地蔵と堂宇があったのかもしれない。

現在、千曲川は立ヶ花から山間部を縫いながら飯山に出る。
大昔、夜間瀬川扇状地が完成するまで、千曲川は中野平を流れていた。もちろん仏教伝来は千曲が後退した後だが、その名残で延洞湖が長く残り、洪水の時は岩船の近くまで千曲の水が寄せたのではないか? 
妄想すれば、あるとき上田佐久のほうから木製地蔵が流れ着き、それが船に乗った地蔵という伝承とともに祀られ、その後江戸になって例の岩船信仰と結びつき、地名も岩船になったのかもしれない。

別ブログ
20170217  栃木、岩船山高勝寺


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