2017年3月30日木曜日

掛川城と千駄木太田氏



2003-2005年、京大の生体シミレーションプロジェクトに参加し、2週間に1回、2年で50回くらい京都に通った。
新幹線の車窓からいつも気になっていた城、いつでも行けると思って10年以上たってしまった。
今後新幹線に乗ることも少なくなると思って、生理学会の最中に早起きし、浜松発7:25の電車に乗って見に来た。

駅からまっすぐの道、城が見える交差点に古い商家のような建物。看板に清水銀行とある。
両替という掛け看板。
ほんとに銀行だった。中にATMがある。


城に近づくと堀の代わりのような逆川(さかさがわ)。
堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)と地名になるほどの暴れ川で、昭和57年に大水害を起こし、その改修工事記念の碑が立っていた。
桜はまだ咲いていなかった。 

 

掛川城が気になっていたのは、新幹線でいつも見ていたことのほかに、太田氏の居城だったからである。
私の住む文京区千駄木5丁目は上野寛永寺の御林であったが、根津権現裏から団子坂上の大観音通りまで、つまり日本医大などを含む千駄木1丁目は太田氏の屋敷だった。
汐見坂下の千駄木ふれあいの杜は、その屋敷の池(家光が清徹泉と名付けた湧き水)の跡である。この杜を臨む崖の上の閑静な住宅街には今もご子孫が住んでおられ、『谷根千』93号(2009)に太田松子さんの話がある。

下の江戸切絵図(国会図書館デジタルコレクション)の大田摂津守である。
中央下の緑が根津神社、右(北)に今もある世尊院、専念寺、右下にタンコサカ(団子坂)が読める。西は海蔵寺に接している。

掛川藩江戸藩邸は、大名小路常盤橋内に上屋敷 4,709坪
そして、ここ駒込千駄木に下屋敷 23,029坪があった。



掛川には秀吉時代に家康が関東に移された後、秀吉配下の山内一豊が入った。
しかし、一豊は関ケ原の合戦の始まる前、すぐに家康に城を提供することで立場を明らかにし、のちに土佐一国をもらった。
その後、ここは浜松、駿府の中間という東海の、かつ徳川家にとっても重要な場所であるから、家康の三河以来の譜代の家来が代々入った。しかし、太田氏は道灌につながる古い家柄で、決して三河の地侍ではない。それがなぜ譜代大名のように遇せられたか?

太田氏は室町後期、道灌(資長、1432-86)が上杉定正に謀殺されたあとも、実子、資康以降、資高、康資、と4代にわたり江戸城にいた。康資は北条、上杉の間を行ったり来たりしながら1562年まで江戸城にいたが(城代3人の一人として三の丸に住む)、北条から離れ房総の里見氏につく。1581に死んだとされ、それ以降の太田氏の直系はよくわからないらしい。

一方で道灌の玄孫とされる資宗が徳川に仕えたという。
すなわち、家康側室の英勝院が兄太田重正の子資宗を養子とし、譜代格として徳川秀忠に出仕させた。秀吉、家康はじめ戦国大名は、名家に弱かった。
資宗は順調に出世し、家光からの覚えも良く、六人衆(のちの若年寄)となり、さらには下野国山川藩1万5千石の藩主となる。
奏者番などを歴任し、さらに三河西尾に移封され3万5千石に加増された。その後、浜松、掛川に移る。太田氏は掛川で幕末まで7代続いて幕府の要職を歴任、老中も出し、明治維新後には子爵となった。






以下2枚は二の丸御殿。
1861年(文久元年)に再建された国の重要文化財。



下は大日本報徳社。二の丸の東に立つ。
左の平屋は仰徳記念館。





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