薬学雑誌1901年度9月号(明治34年)949頁
明治の新制度で計画された医薬分業は医師たちの反対で成立しなかった。
第94話 医薬分業をめぐる戦い,
第95話
第96話,
彼らの役目というのは古くから薬を出すことが全てであったから、調剤権を手放すはずはない。その医師は、西洋医学を修めねば免許を与えないとは決まったものの、もともと開業していた者(江戸時代は免許制でないから誰でもなれた)はそのまま免許が与えられたし、医学校に行かなくとも試験に受かれば免許は取れた。この制度のもと、今まで事故の起きない漢方薬しか使わなかったところへ西洋薬が入ってきたのだから危険である。
「高岡郡東津野村高等小学校長兼訓導、田村溢馬なるものは、独学にて医学を研鑚し、既に前期免状を有するものなるが,同村にては医師に乏しきため,自然近隣に病者あれば好意上診察配剤なしたりしに、過る8月10日、川上ツネに投したる解熱剤より同人は苦悶とともに死亡するにいたりたる。
家族の通知に田村は非常に驚き、川上宅に至りこの薬品はキニーネと臭剥の配剤にして決して毒薬ならざる由を弁し、見誤なきことを証明せんため自ら残余の一服を服用せしに暫時にして大いに苦感を覚えついに終命するにいたれり。
而して之が原因を調査するに、その容器には薬名箋なくただ封緘の残片に尼涅の二字のみ存するにより全くストリキニーネをキニーネと誤りたるの結果なりといふ。之だから医者の配剤には困る。この薬品の出所は医師の死没後の残物を買受しものなり」。
田村氏は恐らく立派な人物であったのだろうが、当時は科学,社会,医療制度、薬の品質、すべて未熟であり、事故は頻繁に起きていた(同号730頁,愛媛水銀剤事故など)。
「之だから医者の配剤には困る」には,明治の薬学会会員の不満がみえる。
そして医薬分業が得られなかったことが原因で、わが国の薬学は創薬面で強く医療薬学に弱いという独自の発展をとげた。そして皮肉にも、約百年たって、すっかり事故が起きなくなってから別の理由で分業が進んだ。
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