薬学昔むかし
薬学雑誌1899年度517頁、1903年度1313頁
第24話で紹介した、明治32年の四博士誕生を祝う宴会は他にもあった。
その中のひとつに4月24日上野・伊豫紋楼での会がある.
これは医科大学薬学科の学生8人(1,2,3年生全9人のうち一人病欠)と海軍特派生,選科生12人の若者20人が長井下山丹波田原を招待(!)したもの.
夕4時半から祝歌3首の詠唱,薬学に関する福引(?)の後,学生が未来の薬学界(この8年後,明治40年を想定)を茶番的に演劇した.
登場人物は薬屋の主人,妻,娘,5人の薬学士.愛娘は頗る美貌秀才なるを以って学士各自より結婚を申し込まれたが,主人は当惑の余り一策を設け,第一に博士の名誉を得たる人に嫁すべしと返答した.ここに於いて5人は日夜倦まず撓まず研究し,皆同日に博士の栄号を得た.斯くの如く一時に多数の博士を得たるは薬学界のみ,と一同,薬学万々歳を唱えて終わったとある.
学生だった近藤平三郎,慶松勝左衛門の役者ぶりは如何なりしや.
さらにその後めいめい隠し芸や羅漢踊り.
最後は将来の薬学を背負う若者たちへ長井博士の訓諭的答辞で締め,散会せしは夜10時過ぎなり.
薬学雑誌には他の宴会の記事もある。
明治36年12月4日,東大薬化学教室の4人が去るに当たり若者だけで開かれた送別会.
場所は根岸・岡野.
当時は「投票戯」という遊びが流行っていたようで,茶菓酒肴を味わいながら先ずこれから始まった.当選者は,(未来の博士になるもの)近藤学士,(子沢山になりそうな人)石津学士,(なかなか隅に置けぬ人)弘世君,(一生貧乏そう)色川君,(野師になりそうな人)社家間君,などなど.このあと福引で賞品を分け,次いでドンネル(?)で当選した人は芸を出すことになった.「嗚呼,分析場裡のまじめなる若殿輩,何処で如何に此くまでに秘めし」詩歌,落語,人情話,都々逸,大津絵節,長唄踊り,など続き続きて,昼3時から夜9時まで出席者23人は大いに盛り上がった.
そういえばカラオケが普及する前、80年代頃までは宴会で芸する先輩は多く、席は沸いた.彼らはそのまた先輩に鍛えられたのだろう。東京薬科大の生薬学教室は芸を磨くため温泉合宿をしたそうで、タニシ踊りには頼らなかった。
千駄木菜園 総目次
0 件のコメント:
コメントを投稿