東京医事新誌の記事で最初のものは
1937年p1689、高橋の報告。
投稿日が3月11日。
1936年10月から37年2月まで福岡市宮城外科病院で入院加療したる25例の報告。
バイエル社製プロントジルを使った。
従来の文献によれば、リンぜル、ハウググ、ゲー・ドマツグ、クレー、ロエマー、シュロイス氏等の報告あるも、余の寡聞なる我が国においては、白木氏の産褥熱および鈴木、加藤氏の敗血症の1治験例あるに過ぎず。
ということは1936年以前に使われていた。
白木氏とは、白木正博・九州帝国大学教授である。東京医事新誌で白木の記事を探すと、1936年2963号p18(昭和11年1月1日号)にあった。
「産褥熱に対する局所療法について」で子宮洗浄法、手術的療法を述べているが、プロントジルの記述はない。
この記事を書いた1935年12月以前とは、パスツール研が白色プロントジル・スルファニルアミドを発表する前、イギリスでも半信半疑のころだから、仕方ないと言える。
彼が使ったのは、1936年1月の記事を投稿した以降、かつ1937年2月以前となる。
白木は1936年、母校東大産婦人科教授に就任、その後、彼のもとで近藤誠が
1937年p2373に投稿。これが東京医事新誌2番目の記事である。
また近藤の1939年の「わが教室におけるsulphanilamide治験」には
わが教室では昭和12年5月以来、主としてテラポール(一部ルジール、ゲリソン)を使用し、今日までに20例を得、(略)
とあるので、白木が1936年に報告したのが日本で初めてかもしれない。
もちろん国産のサルファ剤登場以前である。
1938年5月27日に行われた座談会「プロントジルについて」の記録がある。
(東京女医学会雑誌8巻p272)
ここで三藤教授がこんなことを言っている。
愉快なのは前薬局長の畑君が、「独逸のKlinische Wochenschrift に Prontosilという薬が出ているから研究して作ってみたい。面白そうだから出来たら使ってほしい」と云っておられた。亀の子をいろいろやっておられたが、最後の基が出ないので困っておられたとき、本国から製品が来たので止められましたが、随分早かった。
実際に使ったのと論文報告は時間のずれがあり、時期を特定するのはなかなか難しい。
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