下山は、東京大学製薬本科、明治11年の第1回卒業生・首席にして、同20年新生帝国大学薬学科の初代教授に就任した。
21年私立薬学校(のち東京薬学校)初代校長、22年薬学会・初代副会頭、32年には正親町伯爵に次いで薬剤師会・第2代会長となる。
明治45年2月はこれらすべてが在任中で、まさに当時の薬学をリードしていたとき、急死した。
当時は若死にが多かったから薬誌は訃報が多いのだが、彼は特別だった。
追悼関連記事は14頁に亘る。
「先生は先ごろより糖尿病の症候あり。しかし差たることもなく日夜諸種の研究に耽られ、現に薨去の前日にありても客を迎え、その研究業績を語り、なお之によりて財を獲たらんには以って薬学専門学校設立の費となさん、などと楽しげに物語られつつ在りしに、その翌日(2月12日)朝の4時、例の如く目覚められたるも、風邪の気味ありとて起床せられず、6時ごろ急に身体違和を感じ嘔吐、昏睡に陥れり。
(略)
急報に接し駆けつけた池口夫妻、丹羽、高橋(順)、三浦、橋本3医学士らが見守る中、あらゆる手当てを講ぜしも、急性脳溢血にして予後不良なりとの診断に、一同悲嘆の涙に暮れつつも、なお万一の僥倖を祈り看護に尽くせしも、午後1時終に起つべからざるに至れり」
この急変はたちまち諸方に伝わり、薬界の巨星は全部、下谷区下根岸の同邸に集まり、京浜薬界、朝野の人士の見舞い、引きも切らず。
夕方5時には薬学会事務所で理事会が開かれ、先生を名誉会員に推薦することが決まる。
興味深いのはこの間、生きているかのように扱われたことだ。
死の翌日13日は市内各紙がこぞりて先生の危篤を報じ、肖像を掲げ略歴功績を列挙、哀れみたり。
凶報は天聴にも達し、14日特旨を以って位一級被進、叙従三位、授旭日重光章。大学は「賜本俸一級俸」という辞令を出した。
14日夜10時薨去正式発表。
15日午後、両陛下の御思召により勅使として侍従伯爵清水谷實英を差遣せられ、白絹2疋を下賜せらる。宮内省からは祭資金700円を賜れり。
このようなことは「医薬界を通じて殆ど空前のことに属す。もって先生の偉勲を証するに足るべし」とある。
嘉永6年生まれ、旧犬山藩士、東京府士族、享年60歳。
現役教授の死ということで銅像が建てられた。
長らく薬学部の北東の隅にあったが、落葉と藪に埋まった。
かつて、たまに物好きが靴滑る急斜面を枝、蔓掴んで這い上がり、拝見しようにも、草、雑木に阻まれ近づけない状態であったのが、2008年、何十年ぶりかで整備された。
2017年薬学部パンフから拝借
東大キャンパスの建築ラッシュ、緑地削減の副産物とも思えるが、拝見できるようになったのは喜ばしい。
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