2017年9月11日月曜日

第34 エールリッヒの側鎖説とは何か? 明治人の理解度

側鎖説をネットで調べると

抗体がどのように産生されるかについての説、
「白血球表面に多種類のレセプターがあり、これに抗原が結合すると、細胞は刺激されレセプターを多量に分泌し、これが抗体となる」という考え方。Landsteinerらの人工抗原の研究から否定されている。

というWikiの説明があちこちに引用されている。
1908年エールリヒのノーベル賞受賞対象とはいえ、もう過去の説だから考える必要もないのだが、これではなぜ「側鎖」という単語を使っているかを説明しない。引用する人がわかっていないのである。

明治の薬学雑誌を見ていて
「血清について」という片山嵓氏の講演記録があった。
薬学雑誌1908年度329頁(明治41年)

もちろん血清とは、抗体を供給する医薬品を意味するが、当時抗体という用語は使われなかった。ふつうは抗毒素、抗菌素である。
その実体としてたんぱく質という単語は出てこない。それでも陶器にゲラチンを塗付して濾過すれば、抗毒素が通過しないことは知られていた。

当初、抗毒素は毒素を分解すると考えられていたが、蛇毒とその抗毒素を混ぜて無毒になったものを温めると毒素が復活することから「これは例へば毒素を一種の酸と仮定すれば抗毒素は無害の塩基にして、中化し無害の中性塩に変ずるやうな訳だ」と片山は説明する。

ここで彼は、抗体の産生様式について、当時、最も信じられていたエールリッヒの側鎖説を紹介した:
「動物の細胞は、ベンツオル核benzolkernの如く多くの側鎖を持っている。化学においてベンツオル核が種々の根radicalに結合するように、細胞と毒素は側鎖の媒によって結合する。そして毒素は細胞を殺し、動物を斃す。然るに毒素が少量のときには、結合しても作用が烈しくないゆえ細胞は死なぬ。けれども毒素と結合した側鎖はその機能を失ひ、代謝機能の結果として切れて血液中に出る。そしてその痕に新陳代謝で再び側鎖が新生する。これにまた毒素が結合し再び側鎖が切れて飛ぶ。終には過剰繁生して側鎖のみが飛び離れて血液中に浮遊する。この側鎖がかの抗毒素である」

つまり、側鎖は細胞表面に伸びた抗体分子のことであった。

当時はまともな薬などなく、血清は奇跡の医薬であった。
合成医薬品はまったく期待されていなかった。片山氏は続ける:
「古来,抗毒または抗菌血清に代はる内服用殺菌薬を製造せんと企てた人が少なくない。しかしこれらの研究は皆失敗に終わった。また今後も成功の見込みがないと云はねばならぬ。何故ならばベーリング氏によれば動物細胞の化学製品に対する抵抗力は細菌の6分の1程度である。故に殺菌作用のある製品は、殺菌するに先立ち必ず人体組織を破壊する」と。

ところが、わずか2年後の1910年、側鎖説のエールリヒによって、世界初の化学療法剤サルバルサンが出る。以後、サルファ剤も登場し、人々の予想に反して合成抗菌薬、抗生物質の大発展が始まり、血清という抗体医薬の地位は下がった。

ところが100年後の今、再び抗体が奇跡の薬として登場した。
ただし馬の血清を使うのではなく、近代的な培養施設で作られ、対象は毒素や病原菌ではなく、がんやリウマチである。
今や、全世界の医薬品、売上高ランキングで上位10のうち、5つが抗体である。

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