古いものは以下の4紙。いずれも週刊。
明治 年 月 発行人 編集 印刷
1中央医事週報 25.1.4~26.4 難波豊太 白川正治 加藤勢太郎
2医事週報 26.5~26.9 上村重太郎 佐藤栄蔵 高後轍
3医事集寶 26.10.20~27.12 長谷川一詮 大崎尚武 高後轍
4日本医事週報 28.1.12~大11.9.2 大崎尚武・三浦喜久治
1の中央医事週報は、発行人難波とあるが、第一号に石黒忠悳はじめ多くの者が寄せた祝辞は、川上元治郎にあてたものだ。
川上は長岡出身、東大医学部の別科に学び、卒業後、眼科医として開業した。眼科をもじって厳華を号とする。明治35年39歳で衆議院議員に初当選も次回は立候補せず、眼科医と新聞の発行に専念した。大正4年52歳で死去。墓は護国寺。
その第一号には
最も力を致すところは雑報、批評、広告にあり。然かはあれど学問上の論説、実験もまたこれを忽(ゆるがせ)にせず。眼科学、黴菌学・・・も細大これを記載せむ
要するに論文よりは、漢方医存続問題、医薬分業問題などのニュースに専念するということだ。
価格は半年35銭。広告があるから他紙より安いと主張している。
しかし翌26年4月、出版法第二条の違反により内務大臣より差し止めの厳命をくらう。(下写真の謹告)
その直後5月13日には医事週報を創刊するも、また差し止め。
つぎは音は同じ医事集寶なるも、引き続き川上が主筆でこれも差し止め。
何が問題になったか、中身をぱらぱら見てもわからない。
しかし川上は、あの青山胤道に「石黒忠悳の太鼓持ちはやめろ」と言われたと、そのまま誌面に書いてしまうなど、いささか品位に欠ける記事も見受けられた。
下の日本医事週報発刊の挨拶には、
(最初の新聞)中央医事週報は実にこの医学界の進路に横たわるところの~~を伐せんが為に生まれたり。故を以て言、時に忌諱に触るるものあり。為に厄を蒙ること既に三回、余輩の頑脳といえども、ときに痛刺を感ずることなきにしもあらず。
と書いている。
三度の差し止めのあと発行された日本医事週報は長く続き、大正11年に、それまでの1ページA2の大きさから菊版となった。
東大医学部図書館ではこの号で新聞から雑誌の扱いに変更されている。
新聞と雑誌の違いは紙の大きさであるようだ。
新聞のいいところは広告が残っていることだ。
たいていの雑誌は製本するとき広告部分をすべて捨てている。論文部分などは今の科学のレベルから見ると全く意味がなく、むしろ捨てた広告のほうに社会学的、人文学的な価値があるのは皮肉である。
中央医事週報の創刊号は10ページ中、5ページが広告。その後は6ページ中、1ページほどだった。広告は書籍、雑誌、学校(済生学舎、東京慈恵医院医学校など)、医療機器(いわしやなど)、薬品、個人病院などである。
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