と妻に尋ねたらショッピングセンターときた。
取手駅前にあったという。
確かにさいたま新都心のコクーンやゴルフセンターもカタクラだし、あちこちにショッピングモールがあるみたい。
1878(明治10)年、信州岡谷で片倉兼太郎が洋式器械の製糸工場(のち片倉組)を創業。1920年には本社を東京に移し、片倉財閥を形成した。日本の輸出額の50%を生糸が占めていた戦前に、貴重な外貨を獲得し、日本の近代化に大いに貢献した。製糸会社として操業停止後も富岡製糸場を守ってきたことはどれだけ知られているだろう。
12月15日、熊谷に来て、たまたま地図で片倉シルク記念館というのを見つけたので立ち寄った。
土蔵みたいなのが二棟。入場無料である。
ここは熊谷石原工場の跡地、片倉の最後まで操業していた工場である。
すぐ前が巨大なイオンショッピングセンター。
反対側も買い物客用駐車場の出口になっており、記念館はイオンに囲まれ、昔をしのぶ雰囲気ではない。
アプローチは古瓦が埋めてある。
左側の棟は、養蚕に使われた道具の展示。
私の出た信州の平野小学校は、空いた教室を郷土室と名付け、古い農機具を展示していたのを思い出す。たしか我が家も何かを寄付した。
私が子供のころはすでに養蚕をやめていたが、道具は土蔵や物置に残っていた。
記憶にあるものも初めて見るものも。
周りの農家も昭和30年代に一斉にやめて、桑畑はリンゴが植えられた。
養蚕はなくなっても、旧正月は竹などの枝に繭玉や小判の形をした菓子などをぶら下げ飾っていたし、3時のお茶には蚕のさなぎの煮たものがお茶うけに出てきていた。
右側の棟は製糸関連の機械などを展示している。
かつての繭の倉庫は、耐震補強をしただけで、木組みなどは当時のまま。
なぜか一階より二階のほうが天井が高い。
片倉組は関東甲信越に広く工場を持っていて、八王子工場、松本工場などの往時が展示されている。
片倉熊谷高等学園、片倉石原青年学校など、ここ熊谷石原工場の若者が通った学校や寮などの写真もあり、懐かしい昭和の写真が一杯。
片倉最後の熊谷工場
写真の左が国道17号、一番右は新幹線の高架と秩父鉄道。カーブして下のほうに伸びてきているのは高崎線である。
17号にいちばん近い角の二棟が保存され記念館となり、ほかは更地となった。
イオンは土地を借りている。
12月15日、土曜の10時半、見学者は誰もいなかった。
片倉家家訓どおり「売らない、貸さない、壊さない」で富岡製糸場を操業停止後も守ってきて、最終的に富岡市に寄付した片倉工業に、以前から敬意を抱いていたが、今回これだけの記念館を見せてもらい、すっかりファンになった。
受付の人にどうしてもお礼を言いたくて、声をかけた。
彼女は昭和49年に熊谷工場に就職したという。私が高校を卒業する前の年である。
(あの当時まだ製糸工場があったことにびっくり。)
製糸業が縮小されるにともない、工場から経理に移り、工場がなくなってからは、他の事業所へ行き、この資料館ができてから戻ってこられたという。
私が信州の農家の長男で、家には養蚕の資材が残り、さなぎをおやつに食べていた話をしてみた。
ここ熊谷工場では大量のさなぎは業者に引き取ってもらって鯉の餌になったらしいが、彼女の上司だか、年配の人は持ち帰って焙烙鍋で炒って食べる方もいたという。彼女はあの臭いがどうしてもだめで、食べられなかった。
すっかり親しくなった彼女は名刺をくれた。
カタクラ
総務部総務課片倉シルク記念館
管理員 ○○xx
と書いてあった。
1992年6月 片倉最後の熊谷工場で生糸製造停止
(繭収納、販売は継続)
1994年12月 熊谷工場すべての業務を停止
1999年10月 土地再利用(カタクラフィラチャー)のため建物解体
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