2017年12月10日日曜日

日本アイソトープ協会の研修と桜

12月10日、久しぶりに何もない(夜も練習ない)日曜。
部屋の整理、掃除をしたいが、天気よし。
昼食は駒込駅近くの本郷通り、スペイン国旗を下げるリサリサ。
ゴロゴロ野菜と焼き豚の入ったカレー950円。300円プラスでコーヒーとデザートがつく。

食後、南に戻り不忍通りを渡ると昭和小学校。
誠之小学校、千駄木小学校と共に人気があると聞いた。
小学校の前に記念碑がある。
1922(大11)内務省土木試験所
1948(昭23)建設省土木研究所
1979(昭54)筑波に移転
と書いてあるから、私が本郷通りの反対側、駒込神明町にいた1977年は、まだこの地にあったわけだ。

昭和小学校の先(南)を西に入る。

文京グリーンコートの場所にあった理化学研究所は、埼玉の和光に移転し、景色もがらりと変わったが、日本アイソトープ協会と仁科記念財団だけが、昔の名残をとどめる。
アイソトープ協会は戦災を免れた理研の23号館である。

2017年12月、建物は工事していた。
仁科サイクロトロンは戦後GHQに破壊されたが、写真左側にあったらしい。

1981年就職した田辺製薬では、代謝部門に配属された。
薬の体内動態を見るのに、放射能で標識した薬を動物に投与する。標識化合物は自分で合成するとしても、放射能のもととなる合成原料は買わなくてはならない。そして購入はすべて、このアイソトープ協会を経由した。
ここは放射能の研究利用を指導監督する機関でもあった。

田辺の代謝研では若手が順番に、アイソトープ協会の研修を受けることになっていた。1984年の4月初め、5日間の研修にでた。

講義は退屈で、何を教わったか記憶にない。
窓の外の桜が美しかったのを覚えている。今覗き込んで確かに桜の木はあるが、36年前もこんなものだったのか、当時はもっと木が多かったのか、分からない。

一つ強く覚えているのは、放射線量の測定実習である。
線源からの距離と被ばく線量の関係をグラフに書くものだ。
被ばく線量は距離の二乗に反比例する。

二人一組になり、部屋の隅に置かれた線源にむかって、50cmずつ近づきながら、距離と線量を記録する。ガイガーカウンターは最初から大きな音を出していて、近づくにつれ、今まで聞いたことがない、なりっぱなしの音となる。鉛エプロンなどなかった。
(指導者がいたのかどうか、ほかの実習生がいたのかどうかも記憶がない)

私とペアを組んだ人は非常に怖がり、かといって部屋から逃げるわけにもいかず、私の後ろに常に隠れていた。私だって怖いけど、我慢している。なんて臆病で卑怯な奴だ。
それまで仲良く話をしたり、毎日本郷通りの喫茶店で昼飯を食べたりしていたのだが、以後お互い話をしなくなった。
私より年上、30代だった。顔も名前も会社もすっかり忘れたが、今でも腹が立つ。この翌月、私は結婚し、被爆の影響なく無事子供も3人生まれたが、彼はどうしているだろう。

もう一つ覚えているのは、研修中、会社で実験しているときより早く日課が終わったことである。まだ明るかったから通りを渡って本駒込の昔のアパートにもいってみた。
1977年から7年たっていて、その間一度も行っていなかった。誰も住んでおらず、入り口の通路に草が生えていた。

本駒込図書館にも行って、のんびり雑誌を読んだりした。
科学雑誌の読書特集で、国内有名科学者たちへ「昨年面白かった本は?」というアンケートがあり、誰かが「星を継ぐ者」を上げていた。さっそく読んだら非常に面白く、以後JP・ホーガンを盛んに読んだのも、桜と夕日と放射能の記憶に交じっている。


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