2019年10月3日木曜日

広尾を歩く。聖心、真如苑

10月2日、恵比寿ファーマシーで用事が終わって、少し歩いた。
渋谷川 現代の峡谷

この川を北に渡ると広尾になる。
渋谷川は恵比寿駅くらいまで南下したあと、東に流れを変える。
広尾というのは、かつては渋谷川の流域、ススキのしげる原っぱで渋谷区から港区にかかる広い地域であったが、現在の住居表示では、渋谷区の東端で、渋谷川の北側、東は外苑西通りまでに限定される。
だからかつての広尾原と思われる都立広尾病院は渋谷区恵比寿だし、広尾小学校は渋谷区東、北里大学は港区白金である。

1丁目の5番と7番の間の坂はいかにも広尾らしい。
坂を上がると、墓地。東北寺。
米沢上杉家、日向佐土原島津家の墓があるらしいが、昼までに職場に戻らねばならないのでパス。
なお、昭和天皇皇女、島津貴子さまが嫁いだのは、鹿児島本家でなく佐土原島津家出身の島津久永。
この辺り広尾の高級住宅街だが、一本下の東北寺がわの家の方が斜面が多いせいか、緑が多い。


坂を南に下りたつもりが、このように少しずつ曲がっている。
坂下を左折して低地をまっすぐ東に向かったつもりが、実際の方角は北だった。
左側がずっと山だったことも錯覚した理由である。後で地形図を見たら渋谷川(東西)に入る南北の谷があった。

東京女学館、日赤医療センターが現れ、ずいぶん北に歩いてしまったことに気づく。
有栖川公園に行きたかったので日赤前の道を南下。
途中素敵な門あり。
聖心女子大学。かつての久邇宮邸正門

守衛の小屋も昔っぽい。
1918(大7)竣工。当時のまま大学正門に使っている。
工事用の車もここを通って行った。

北に隣接する日本赤十字医療センター・広尾ガーデンヒルズとをあわせた一帯は、かつて佐倉藩11万石堀田家の下屋敷。
大正時代に久邇宮家2代邦彦(クニヨシ)王の本邸となり、香淳皇后(邦彦王長女)は、1924 (大13) 年、後の昭和天皇と結婚する際、ここから宮中に向かった。

戦後国有化を経て1947年、聖心女子学院がこの地を購入、翌年新学制により聖心女子大学として発足した。緒方貞子は一期生。

堀田家の周り(南西部)は幕臣の屋敷であったが、いまはきれいな家が並んでいる。ぐるりと南に周ると
皇族の屋敷かと思うような豪邸
ガードマンが一人たっていて、みれば真如苑東京本部。
左の門には普通の家のように表札が。
名前も普通に伊藤真乗。

帰宅後調べると、俗名・伊藤文明(1906ー1989)真如苑創立者。
立川の石川島飛行機などで勤務の後、1936年退社、真言宗醍醐寺で出家、得度。
戦後真言宗から独立、1948年、新たな宗団「まこと教団」を設立。立川不動尊教会の寺号を真澄寺とした。
1951年、教団名を真如苑とする。浄土真宗大谷派の僧、真如とは関係ない。

ところで、この家はもと誰の屋敷だったのだろう?

真如苑の隣は聖心女子大の南口。
相変わらずガードは固く、学習院のようにキャンパスに入ることは不可能。
中には久邇宮家の御常御殿(パレス)(国重要文化財)などが残っており、年に1回程度(今年は春)公開されるらしい。

坂を下りると広尾には珍しい商店街(広尾散歩通り)。
駅も何もないのに、何でこんな町があるのか?

振り向けば通りの突き当りに祥雲寺、香林院の山門。
門前町か。
祥雲寺は筑前黒田家の菩提寺で墓もあるらしいが、立ち寄らず。


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