2019年12月27日金曜日

目黒の予研、港区白金、三光坂をあるく

12月15日、暖かい。
目黒駅の住所は品川区上大崎。

駅東口に出てすぐ、シティコート目黒というURの賃貸しマンションがある。
ここも上大崎二丁目。
ゆったりした敷地に4棟。
2019-12-15
かつてここに海軍大学校があった。
関東大震災で築地の学校が被災、1932年(昭和7年)8月、移転してきた。戦後、映画会社が取得したが1955年になって国立予防衛生研究所が入居した。

1979年か80年の学生時代、セファロスポリンの生合成を研究していたころ、培地中の力価を測定するのに枯草菌Bacillus subtilisの菌株が必要となり、ここへ頂きに来た。相手の先生がどなただったか記録も記憶もない。
古めかしい建物だなあと思ったが、当時は知識も関心もなかった。

予研は1992年、戸山に移転、97年に東村山の国立多摩研究所と統合、そちらを分室とし、国立感染症研究所と改称した。

海軍大学校の建物は予研の移転後も残っていたが、1999年(平成11)取り壊され、UR都市機構のマンションになった(2002年竣工)。
うっすら記憶にある海大=予研の建物の写真が歴史読本別冊戦記シリーズにあったと思って段ボール箱を探したが見つからない。

そうだ、2007年10月、何十年ぶりかでここに来た。
当時白金台にオフィスのあったベンチャー企業リプロセルの淺井康行君に会うため。
既にURのマンションができていて、がっかりした。
あのときも何か記念碑、痕跡などないか探したがあったかどうか記憶なし。
少なくとも今回2019年は見つからなかった。
となりは白金幼稚園
私の子どもたちが出た伊奈町のしろがね小室幼稚園は関係ない。
住所はここから港区白金台になる。

目黒通りは首都高をくぐる。
目黒駅の南から来る目黒通りと合流。
この通りは駅のところで二股になり、駅を過ぎると再び合流する。

東京都庭園美術館正門
高松藩松平家の下屋敷、陸軍火薬庫、後に朝香宮邸となった。
戦後、外務大臣公邸をへて1950年西武鉄道が取得。
1955年白金プリンス迎賓館として開業、1974年まで使用された。
プリンスホテルを建てようとしたが反対運動で断念、1981年東京都に売却された。

その東隣が国立科学博物館付属の自然教育園。
高松藩から戦前の白金御料地まではとなりの庭園美術館と一緒、朝香宮邸ができて分離した。戦後は文部省に移管される。
自然教育園に隣接した区立公園。
遊ぶ親子連れもおしゃれ。

この日、白金に来たのはダンスの練習。
目黒通り沿いにある「白金台いきいきプラザ」。
名前から想像できるように高齢者施設のようだ。
港区白金なのに温泉旅館のような雰囲気

宴会場のような畳の大広間
あらゆる壁、取り付けできるところはすべて手すりがついている。
本当に大浴場まである。
ダンスは地下2階のホール
更衣室にはシャワーもあり、さすが港区である。
パーティー会場の隅で練習させてもらおうと思ったが、ミクシングなどあり、練習にならず。踊っている人も高齢者ばかり。

ホールの外のロビーも年代を感じさせるが、港区らしい丁寧な作り。
休憩でお茶を飲んだら自分の紙コップに名前を書く。
ここも高齢者仕様で、コップが置いてあるのは手すりの上である。

あまり練習にならないので早々に退出、目黒通りに出て白金を散歩することにした。
歩く人々は明らかに、今まで暮らしてきた埼玉よりも、今の千駄木よりも垢抜けしている。

東大医科研のとなり、旧国立公衆衛生院は港区が購入し、ゆかしの杜、郷土博物館となった。別ブログで書く予定。

八芳園は寄らず。
目黒通りは下り坂となる。
日吉坂
能役者日吉喜兵衛が付近に住んでいたというが、全く知らない。

坂下は清正公前で国道1号線、桜田通だが、降りずに左に入る。
白金らしい邸宅街

聖心女学院の表札が。
聖心の私道のような坂を降りていくと右側に広い工事現場があった。
帰宅後地図を見たら東大白金寮とあるではないか。
白金寮はすでに廃止されている。
新しい留学生用の白金台ロッジが医科研に隣接してあり、その場所こそ女子寮があったと思いこんでいたが、こんなところにあったのか。
2017年に日本エスコン(千代田区)が取得した。マンションになるらしい。

坂の突き当り。
東大医科研を出て蜀江坂をくだるほうには大きな門がないから、ここが正門だろうか。
学習院などは自由に入れるのだが、聖心はさすがに入れない。

ふたたび通りに戻る。
豪邸のよこに良い感じの坂道。名はないようだ。

豪邸は表札なし
服部セイコーの創業者・服部金太郎氏の邸宅だったらしい。
1933年に建てられ戦後は進駐軍に接収された。
東京裁判の日本語訳や日本国憲法の草案が検討された歴史的建造物らしい。

服部家の資産管理会社の三光起業が所有してきたが、お家騒動の際にセイコーHDが210億円で買い取り、さらに2014年、シンガポールの大手不動産デベロッパー、シティ・デベロップメンツが305億円でセイコーから買収した。
グーグルで見れば洋館のほかに、北東に和館が2棟ある。
なお右下のタワーマンションは、緑豊かだった竹中工務店の福利厚生施設をつぶしてできたザ・パークハウス白金二丁目タワーである。服部邸や周辺の邸宅から見たら目障りなことだろう。

三光坂のいわれは知らない。

白金テラス三光台はかつて吉田拓郎が住んでいたらしい。
服部邸の塀に沿って南に回ってみる。

旧服部邸の和館前で。大分髪が減っている。

これも旧服部邸の和館前

絵本に出てくるような家。
この先行き止まりにつき、戻って別の道へ
何とか目黒通りに出たい。
この先も行き止まり。

別の道も行き止まり

結局、三光坂まで戻り、東(北?)に下った。

途中、右に専心寺。
道路側がコンクリートっぽいが、建物は木造のようである。
白金氷川神社、重秀寺と接しているようだ。
中は入らず。

坂を下り切ると、恵比寿駅から北里大学の前を通ってきた道にでる。
ここは8月に北里から歩いた。

南北線・白金高輪駅に向かう途中、白金らしからぬ懐かしい景色。
臨済宗大光山重秀寺の参道
寺が地主のアパートのように見える。
寺は広いが入らず。

塀の向こうの墓地は立行寺のようである。
旗本大久保彦左衛門の墓があるらしい。近くの八芳園は薩摩藩の抱え屋敷だったが、江戸初期は大久保彦左衛門の屋敷だった。
明治11年、郡区町村編制法により東京府芝区ができたとき、このあたりはギリギリ入らず白金村だった。
明治22年、東京市発足のとき芝区に編入されている。
しかし品川などよりずっと都心に近く、古くから栄えた。
大名の下屋敷、抱え屋敷も多かったから、それらが明治後実業家の緑多い邸宅などになった。しかし都内一等地で個人の維持は難しく、金になれば、今はタワーマンションに変わっていく。
日本人が買わなくても外国人が買っていく。


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