2019年12月16日月曜日

本郷給水所公苑、水道歴史館と江戸の火事

12月11日、散歩のために休暇をとった。
家を出て本郷台地の西側斜面の坂道をすべて歩くという計画。
菊坂をあがり、弓町をおり、壱岐坂、忠弥坂、桜陰、元町公園をみたりして文京区の南端にいる。
神田川が掘られていなければ神保町あたりまで南下するところで、助かったとはいえ、もう2時間以上歩きっぱなし。

建部坂の一本東にも並行して坂がある。
11:56 富士見坂 
左のピンクの壁は指圧屋だが、右側が順天堂大学の21階建てビル、センチュリータワーになっていてびっくり。

斜度は緩やか。ここも両側が旗本屋敷だった。
富士見坂は都内だけでも23か所あるそうだ。
実際に見える坂はもっと多かったであろう。

富士見坂を登り切ると右が本郷給水所公苑。
ここは1997年、桜蔭に来たとき帰り道に発見した。
階段を上ると広い公園。
12:00
あちこちで昼飯を食べている人、多数。
12:02
江戸時代の上水道が展示されている。
あたかもここで発掘された遺跡のようだが、昔の水道がこんな高いところを通っているわけがない。神田上水の幹線水路の一部をここに運んで復元したらしい。
側壁も蓋も立派な石材。昔の人の、水を通すという事業へのエネルギーを感じる。

この公園が道路より高いのは、給水所の配水池のうえに土を乗せて作ったから。
配水池というのは浄水を貯めるから汚れないように上がふさがれている。

東京市水道局(現東京都水道局)が1892(明治25)年に給水場を建設、1898年に配水池が作られた。1974年に配水池の拡張工事があり、その上に文京区が公苑を作ろうと計画。1976年12月開園した。私が大学二年のときだ。
ところで公苑と公園はどこが違うのか?
戦後、同音の似た言葉は同じ文字になり、すべて園になったはず。
昔ならわかるが、昭和51年にもなって公苑という字にしたのはなぜか? 
公苑というのは馬事公苑、神宮外苑とか公共用地から発達したもの。
公園は庭園から発達したもの。
何も作らなければ公苑かもしれないが、バラ園が売りなんだから、庭園、公園だろう。


公苑の横には東京都水道歴史館がある。
1995(平成7)年4月、それまで西新宿にあった東京都水道記念館を閉じて、本郷給水所に隣接する東京都水道局本郷庁舎2号館に新設された。

西新宿のものは知らないが、記念館から歴史館に名前を変えたのだから江戸を充実させたのだろう。水道橋という掛樋のあったこの地が、水道歴史館にはふさわしい。

ここはいつでもすいていて無料だから、そばに来るたびに入る。
1997年の桜陰の帰り以来、分かっているだけでも2012年4月、2015年11月、今回の4回目。

家康の江戸入府いらい、神田、玉川の上水から明治の水道建設まで展示は充実している。
水というのは生活そのものだから江戸時代の住居、長屋も再現されている。
これがいい。
12:07
長屋というのは平屋の木造ワンルームアパートのようなもの。
しかし間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(3.6m)
つまりすべて合わせて6畳分しかない。
すなわち入口の土間が1畳半で沓脱と炊事の竈、水がめ置き場など。
奥の4畳半が居間兼寝室である。
押し入れなどないので、布団も家具もすべて出しっぱなし。
工場などもないから、庶民も下級武士も自宅で内職した。
その材料も散乱する。
ここで一家が暮らした。


これをみれば江戸に火事が多いのも分かる。むしろ当然だろう。
電気ガスがなく、火を焚くしかない。
周りは薪などいろんなものが散らかっている。
オキ(燃えかす)のまま眠ることもあるだろう。
おさんどんを1年365日、一生50年で3x365x50=5万回、火を使う。
その家が一生の5万回に一回しか失敗しなくても、5万軒あれば1日3回火事が起こる。
つまり1万5千軒で毎日どこかで、600軒あたり毎月、どこかで火事だ。
そしてこのように密集、紙と木の家では、あっという間に広がるだろう。

大阪は商家が多かったから丁稚、下女をしっかり教育して火の用心に努めたが、江戸は独身男が多く寝たばこなども多かっただろう。

冬になれば断熱材もない壁、一枚の障子戸では火を焚かねば耐えられなかっただろう。
そして冬の乾燥した北風。
すると江戸の北西である文京区が火元になると大火になりやすい。
ざっと見ただけでも以下のようにある。

明暦の大火(振袖火事)明暦3年1月18日、19日(1657年3月2日、3日)
  死者10万7000。 菊坂の本妙寺など山の手3箇所から出火、
  江戸城天守も焼失。江戸時代最大の火災。
天和の大火(八百屋お七の火事)天和2年12月28日(1683年1月25日)
  死者830–3500。駒込大円寺から出火。
  焼失した武家屋敷241、寺社95。
水戸様火事(小石川水戸屋敷から出火)元禄16年11月29日(1704年1月6日)
  死者数不詳。  焼失した武家屋敷275、寺社75、町家2万。
小石川馬場火事 享保2年1月22日(1717年3月4日)
  死者100以上か。 小石川馬場の武家屋敷から出火。

12:08
長屋の一角にはつるべの井戸、ごみ置き場、共同便所、お稲荷さん、物干し場
1997年以来、江戸の話を読むときは、ここの景色を思い出している。

ところで本郷給水所の水はどこから来たか?
受付の女性に尋ねると3階のライブラリーで聞いてくれという。
ここは1階が明治以降、2階が江戸時代の展示になっている。
3階はふつう行かないから階段もない。
エレベーターで上がると係の人が待っていてくれた。

「本郷給水所の水は淀橋浄水場から来ていました」
「えっ? あれは四谷台地だから、本郷の山には上がれないのでは? 千川上水のほうからでは?」
「いいえ、間違いありません。淀橋です」


じつは駒込、本郷、湯島の武家屋敷、町屋は確かに千川上水だった。
中山道と明治通りの交差点、淑徳巣鴨学園の裏に千川上水公園があり、分水堰や沈殿池があった。
12:22
江戸期の上水路の地図をみても千川系である。

ここではっとした。
本郷給水池は明治にできた。淀橋で浄水したあと鉄の水道管で圧力をかけて小石川の谷を越えて本郷まで上げたのだろう。

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