2021年1月27日水曜日

日本橋川を、常盤橋から海まで歩く

普通、川があって橋が架かるから、川の名前が先にある。

奇妙な名前の日本橋川は、明治になって命名されたものである。

「江戸はこうして造られた」鈴木理生(2000)

もともと家康入府前、今の神田川の水はすべて平川として日比谷の入り江に流れ込んでいた。
家康は築城よりも都市計画を優先させた。
日比谷を陸にするため、江戸前島(銀座当たりの微高地)を掘削して平川の水を東に流した。併せて城下まで物資輸送できる道三掘を掘った。(上の写真の図)

その後駿河台を掘って神田川(平川)の水を外堀として隅田川に流すと、平川は途中埋められたこともあって堀のようになり、川というより濠と物資輸送の水路になった。
それが明治になり再び飯田橋との間を掘り川に戻し、このとき日本橋川とされたらしい。
(別ブログ)

(Goo辞書「江戸城門」から拝借)

小田原北条攻めの時、秀吉が戦後処理として、目障りな家康を東海から遠い関東に押し込もうとしたとき、渋るであろう家康に「水運が使えるから」と強く勧めたとか。


2021年、雨が降ったりやんだり、寒い1月24日、神田駅から日本橋川に出て、海まで歩くことにした。
2021-01-24 13:07
このあたり中山道の角度で道路が碁盤の目に出来上がってから鉄道が斜めに通ったから、斜めの交差点が多い。写真左の鋭角のビルは石づくりでいい感じだが見たら1990年代だった。いい趣味である。
このあたり高架鉄道は昔のままレンガが使われている。
この工事はそれを生かす方向に行って欲しいな。

京浜東北・山手線にそって歩けばすぐ新常盤橋交差点。
日本橋川である。
13:14
新常盤橋と東北新幹線
1988年架橋というから新しい。
時期からして東北新幹線の南伸に伴う工事、区画整理で新たに道路ができたのだろう。
上は首都高都心環状線。

目を下流に転ずれば石橋と江戸城の外郭門。
旧常盤橋と常盤橋御門

昔は水路や掘が多く、その割に橋が少なかった。その橋をお城に向かって入れば、入ったところに枡形門があった。常盤橋御門はその一つ。

奥州・水戸街道は東の日本橋が起点だが、将軍、大名などがお城や大手町から東北、常磐(じょうばん)諸国に向かうときはこの門から出入りした。田安門(上州道)・神田橋門(芝崎口)・半蔵門(甲州道)・外桜田門(小田原口・旧東海道)と共に江戸城と街道を結ぶ要所として江戸五口に数えられた。

明治10 年(1877)、それまでの木造橋は洋式2連の石造アーチ橋(通称、眼鏡橋)に架け替えられた。現存する東京最古の石橋。
手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れた下流に建設されたが、旧橋は「磐」の字を用いた「常磐橋」という名で呼ばれる。これは「皿」が割れて縁起が悪いことからこの字にしたともいわれるし、新橋と区別する意味もある。

13:16
工事中の常磐橋
旧橋は経年と東日本大地震による損傷で2011年から通行禁止となっており、2013年から修復工事が行われている。本来は2020年中に完成予定であったが、コロナの影響か遅れている。

周辺地域では「常盤橋街区」として超高層ビル建設など大規模な再開発計画が進んでいるが、人々は何で開発が好きなのだろう? 開発しなくてもいいという人もいるだろうが、開発好きな人が世の中を動かしていく。
13:17
日本橋川に沿う外堀通りに面して日本銀行本店

常盤橋から常磐橋を見る
石垣を積まれた常盤橋御門は最も保存状態が良く、見学したかったが向こう岸なので次回に回す。

13:18
高速道路の橋脚で常磐橋がよく見えない。
ここで一時的に川から離れ、日銀本店、三井本店、三越を見た(別ブログ)。

13:43 三越本店
日銀の貨幣博物館など寄り道したが、日本橋で川に戻った。

日本橋川は古くから川に面して荷揚げできるよう両側が建てこんだため、神田川中流のように川に沿った道がない。川面が見えるのは空き地を除くと基本的には橋のところだけ。

常盤橋の下流は
・一石橋 
外堀通りが渡る。北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助(ぬいのすけ)の屋敷があり、破損したときは両後藤の援助で再建された。そのため後藤の読みから五斗+五斗で一石、という洒落から名付けられたとか。
・西河岸橋
日本橋から一石橋までの右岸一帯は、西河岸町という地名であった。
初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという、当時最新式の鉄橋だったが震災で破損、大正14年に現在の橋に架け替えられた。

一石橋のそばは呉服橋交差点という。
呉服橋は外堀川にかかっていたが、第二次大戦後のがれき処理で埋められ、橋も消滅した。(下図)

明治40年頃

さて2021年、日本橋から川筋に戻る。

13:43
日本橋魚市場発祥の地
像は乙姫らしい。
日本橋の魚河岸は、1923大正12年の関東大震災で焼野原になり、その後の復興計画によって海軍の転出した築地に移った。


遊覧船(左)は休業していた。

乙姫様の横から見下ろせば、首都高で頭を抑えられて日本橋もかわいそう。
東京オリンピックや新幹線より、首都高の廃止あるいは地下化のほうが先だったのではないか?
東欧などGDPは低くても古い景色の良い街並みは民度が高い国に見える。
日本も生活は十分な水準に来たのだから、もう金儲け、経済優先でなく、少し身なり(景色)に気を配って民度の高い国として見られたい。

13:45 麒麟
一般にはビールのラベルのように翼はないが、道路の起点から飛び立つイメージで特別に付けられたらしい。

13:46 日本橋南詰
首都高の地下化は神田橋JCT~江戸橋JCTの間、1.8kmで計画されているが、着工しても10年から20年、新幹線以上にかかるらしい。JRの西からもぐり、日本橋川の下と半蔵門線の上をすり抜け、銀座線の下をくぐり、都営浅草線の上と江戸橋の下で出てくるという難工事。
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/exp-ug/pdf02/03.pdf

少し南岸を歩く。
13:48 江戸橋南詰
左、三菱倉庫日本橋本館 右、日本橋郵便局
ここは郵便発祥の地として知られる。前島密の像でもあるのかな?
渡るのが面倒だから見に行かず。
(帰宅後ネットで見たらほんとにあるらしい)

13:50 江戸橋
日本橋を見ようとするが、首都高の橋脚がじゃま。

大げさに「江戸橋」なんていかにも新しい名前だと思ったら、17世紀には架かっていたらしい。江戸、お江戸という言葉にふさわしい場所だったのだろう。まあ、日本橋なんてのもよく考えればふざけた名前だ。

江戸橋から下流側をみる
大きく右に湾曲する。


13:56 小網町児童遊園
右への湾曲は続く。
浅草寺の大提灯、日本橋小舟町はとなり。

14:01 鎧橋北詰
この付近は、古くは海との境も分からぬ茅の生い茂る沼地で、家康入府のあと日本橋川を残して埋め立てられた。江戸時代は渡船「鎧の渡し」が両岸を結んでいた。
鎧の名の由来は、一つは源頼義が奥州討伐の際にこのあたり(東京湾)で暴風雨に遭い、自分の鎧を海中へ投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ風がおさまったという説、もう一つは平将門が兜と鎧を奉納したという説。

初めて橋が架かったのは明治5年。橋の南には証券取引所や第一国立銀行ができた。
鎧の由来は兜町の兜との関連かと思ったが、鎧の渡しのほうが古いから、兜のほうが鎧に倣ったか。いや、兜も頼義、将門につながるらしい。

今の橋は1957年(昭和32年)にかけられた。
14:02
鎧橋から上流の江戸橋を見ると左に曲がっている。
昔、江戸湾に入った船がこの川を北西にさかのぼり、このあたりから西に向きを変えると突然富士と江戸城天守閣が見え、将軍家の権威を高めるのにも役立ったとか。

鎧橋 下流をみる
流れはほとんどなく、海が近い。
しょっぱいかな? なめる気はしないけど。

14:04 茅場橋北詰
橋を渡れば茅場町。地下鉄路線図で見るけど、行ったことはない。
いかにも茅の繁っていた湿地らしい地名。
この橋をとおる新大橋通りは震災後につくられたから橋はそれ以降。
橋の下を日比谷線が通っている。


14:08 湊橋
これは古い。幕末の地図にはある。
なお当時は水路、川に隔てられ、橋の両側とも島だった。(箱崎の島と霊岸島)
このあたり日本橋川防潮堤耐震補強工事の看板あり。

明治11年
左上が常盤橋、右下に豊海橋と永代橋
江戸橋と湊橋の間は橋がなかった。

14:14
日本橋川最後の橋、豊海(とよみ)橋
これも幕末の地図にある。
ここで隅田川と合流する。

14:15
豊海橋から隅田川にかかる永代橋を見る。
隅田川は右のほうに隠れていき、向こうに見える水面は晴海運河。

昔は広重の絵にあるように、永代橋のすぐ先は石川島、佃島だから海だったのだが、その南に月島、勝どき(明治、大正)、豊海地区(1963)と埋立地が下流に延び、その分隅田川も長くなった。

タイトルで海まで、と書いたが、うそ。
ここを終点とする。





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