秋葉原駅のまわりは直交する二本の線路で座標面のように4分割されている。
北西にあった青果市場は秋葉原UDXなどになり、すっかり様相が変わった(別ブログ)。
しかし南西の第三象限はあまり変わっていない。
電気街秋葉原としては昔からの表玄関である。
かつては改札を出たここで包丁や万能スライサーなどキッチン道具の実演販売などもやっていた。
「世界のラジオ会館 秋葉原」のロゴも昔のまま
戦後、神田須田町の靖国通り沿いに闇市が並んだ。
昔、その万世橋、昌平橋辺りは都電が何本も通り交通の要衝で、闇市のなかには軍から横流しされた電気部品を売る露店も多くあった。
近くにあった電機工業専門学校(現東京電機大)の学生が安い部品を組み立てラジオを作りそれが高く売れたらしい。農家にもっていって食料と交換したのである。
しかしGHQが露店排除を命じたことで露天は行き場を失う。その電器屋の収容を目的に「ラジオ会館」が建てられた。当初は電気製品・部品を扱う店が多く入っていたが、時代とともに一般家電、オーディオなどが並ぶようになった。私の学生時代1979年には46店舗が入っていた(別冊アングル1979,10月号)。
1984年12月石油ファンヒーターを買いに来たとき、普通の大型電気店のようなラジオ会館にも入った。
改札出たら目立つからね。
その後パソコンのショールームが次々とオープン、しかしほかに移転、一般家電なども縮小し、今外から外壁を見るに、アニメやカードなどの店が多いのかもしれない。
ラジオ会館の旧館は2012年に解体され、今のビルは2014年に竣工したという。
別冊アングル1979年10月
秋葉原にきた露天商が集団で入居したのは、ラジオ会館のほかに、総武線ガード下のラジオセンター、ラジオストア、中央通りの向こう、セガの隣の東京ラジオデパートなどである。
「ラジオ」というのは、テレビがなかった時代、無線で何か面白いものが聞こえるものとして若者が自力で作ろうとしたのであろう。真空管や電気部品一般を扱う商店はみな○○無線、○○ラジオという店名にし、ラジオは電子部品一般の代名詞だったのではないか。
13:30 ラジオセンター
しかしコロナ禍で三密になりやすい休日は自主的に閉店しているようだ。
東大薬理の遠藤實先生、飯野正光先生のところはよく測定機器を自作した。
私のひと世代前は電気生理学を研究するにはアンプ(文字通り細胞の微小膜電位、微小電流を増幅させる)を自作した。
さすがに私のころアンプは実験機器メーカーから市販されていたが、有機合成化学や生化学と違い、生物学というのは物理の知識と、細かいはんだ付けや旋盤工作の技術とを必要とする。例えば超微小筋肉片の張力を図るに、金属片がわずかな力で変形すると抵抗が変わることを利用し、ブリッジ回路を作ったりした。
ラジオセンターも中には開いている店もある。
その切片を入れる実験槽の容量もわずかであるから微量液量でも測れる温度計も自作した。
様々な値の抵抗やコンデンサー、ケーブル、スイッチ用のケースなど買って帰った。
新しい発見、人と違うデータを出すには、新しい装置を作らねばならない。飯野先生らの哲学だった。
13:33
上野から銀座まで続く中央通りと総武線
1984年石油ファンヒーターを買いに来たときは商品を見ていたら、「安くしますよ」と声を掛けられた。中央通りを渡ると人通りも少なくなって、連れていかれたのは箱に入ったまま積んである小さな問屋のような店。電気街は思ったより広がっていた。
学生時代のステレオなどは生協だったし、就職してからのラジカセやビデオカメラは大宮。ビデオデッキはどこだったかな? そのうち大宮に量販店もできて、わざわざ秋葉原まで来て電気製品を買ったことはたぶんない。
中央通り沿いの九州電気。
1979年の図だと同じ場所に九州電子。同じ店だろう。
13:35
かつては暗くて狭い路地?通路?に入ると、地面に箱を並べて電子部品やジャンク品を売っている一角があった。シンシナチで娘同士が小学生の同級生だったインド系のRajan Rati夫妻が1996年6月来日、埼玉の我が家に一泊した。翌日東京案内でこのラジオセンターに連れてきた。東京タワーや増上寺よりその路上部品ショップに感激したようで写真を撮りまくっていた。東南アジアなどの猥雑な生鮮市場がハイテク日本ではこういうふうになるのかと思ったのではあるまいか。日本だってふつうは輪島の朝市など路上は野菜の箱やかごが並ぶのだが。
13:36
ブースというか棚を月1500円で貸していた(2か月目からは2500円?)。
結婚当初家電を買った大宮、北浦和のラオックスなどは戦後、秋葉原の一坪の店から大きくなった。
アメリカではよくベンチャー企業がガレージからスタートするが、この1500円の棚に出品した子供からハイテク大企業が生まれればいいな。
今はネットの時代で昔ほど必要性ないかもしれないが、コアな人が集まり現物を手に取れるメリットはある。
戦後そのままのようなラジオセンター2階への階段。
なぜか昭和30年からの年表が貼ってあった。
周囲がきれいになる秋葉原になぜここだけ戦後が残ったかというと、すぐ上を総武線の線路が通っていてどうにもいじれないから。一時移転すれば改装は可能だが、渋谷のような全面的高層化はいったん線路を地下に作ってからでないと無理だろう。いや地下は地下で日比谷線、TXが南北に走っているから無理だ。
13:39
天井に配線が走る階段踊り場に神棚のような神社。
さては秋葉神社か!?とおもったらお稲荷さんだった。
この地は火事の多かった江戸の北。火除け地として家屋を撤去し火災鎮護の神、秋葉神社を勧進した。幕末の切絵図にはないが、明治11年の実測図にはある。
旧昌平橋と和泉橋の間
この秋葉社は上野からの鉄道の延伸にともない、台東区松が谷(上野公園と浅草の間)に遷座した。
アキハバラは国鉄の駅の読み方で定着したが、昔はアキバッパラとかいろいろ呼ばれた。
だから1999年11月3日、次女の七五三で埼玉指扇の秋葉神社アキバジンジャにいったときはアキバハラが正しいのではないか、と思ったが、いま浜松の本宮、秋葉神社はアキハと読むことを知った。
13:41
ラジオセンターのすぐ横までアトレが迫っている。
戦後から続く昭和のラジオショップがどこも同じ駅ビルのようになったら寂しいな。
次に来たのは2010年。
駅はすっかり変わっていた。
東側は貨物駅が1975年に廃止になった後、上野発着列車の留置線になったが、それもヨドバシカメラやTXの駅、広場になった。青果市場と電気街があった西側は
改札を出ると総武線の下をくぐる自由通路ができていた。
朝市のように地面に電子部品の箱が並んでいた一角はなくなっていた。
2010年は秋葉原UDXでMDC社のオートパッチクランプ装置のユーザーミーティングだったのだが、駅の変わりように驚き少し周りを歩いた。メイドの格好をした少女がティッシュを配り、フィギアを求めるむさくるしい男たちが行列を作っていた。ゲームセンターに入ると視覚と聴覚が刺激されすぎて気分が悪くなった。昔も独特な駅だったが、また違う方向に変貌していた。
左・秋葉原ダイビル 2005年竣工
右・秋葉原UDX 2006年竣工
ダイビルは1923年創業の大阪ビルヂィングの略「大ビル」だろう。
UDXはUrban Development Xという。
UDXは翌2011年もイオンチャネル創薬のセミナーがあり、澤田、関野、黒川、今泉氏と会ったとメモにある。ここは階段席の会議ホールもあり、交通至便、また来るだろうと思ったら、転職したこともありまったく用事がなくなった。
その、戦後闇市、電気街から大変貌してびっくりしてから早くも10年、あのとき新たに登場したメイドカフェ、AKB48もすっかり古くなってしまった。
13:42
線路越しに東のヨドバシカメラが見えないかと振り向いたら、昭和のまんまの京浜東北線と駅舎が見えた。
別ブログ
20210404 秋葉原駅にあった青果市場
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