6月19日、長野の弟と地下鉄早稲田駅で待ち合わせ。
早稲田大学にいくまえに、開館前の漱石山房記念館の周辺を30分ほど歩いた。
駅まで戻って西を見ると、大きな鳥居が見えた。
八幡宮というからには、大分の宇佐神宮を総本社とする武門の神である。
九州一円の神社だったが源氏によって全国に広まった。
今まで来たことがなかったが、地図でみるたび、穴という変わった名前は気になっていた。
早稲田大学に行く前に穴八幡も見ることにした。
穴八幡は早稲田通りと諏訪通りの交差点にある。
さて、石段を上がると立派な隋神門。
9:32
大鳥居脇の説明版は、穴八幡の起源ではなく、流鏑馬の説明であった。
後ろに馬上弓を射る武者の像がある。
そういえば高田馬場は馬場である。
家光の時代に旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのために造営された。
(この近く、早稲田通りを西に行って西早稲田交差点付近にあった)
ここの流鏑馬は、八代将軍吉宗が将軍世継ぎ(孫?)の病気平癒を願って、その馬場で行い、武門の神、高田八幡(穴八幡)に奉納したのが起源という。
以来、将軍家の厄除けとしてたびたび流鏑馬が奉納された。
明治以降は流鏑馬も馬場も廃止されたが、昭和9年皇太子(現上皇)誕生奉祝で流鏑馬が復活した。戦争で中断、1964年に近くの水神社境内で復活、1979年からは毎年体育の日に戸山公園で行われているらしい。
流鏑馬をなんでやぶさめというか?
話し言葉で矢馳せ馬といったのがなまってやぶさめとなり、一方で見世物的に鏑矢(戦場での一番矢とか合図とか、縁起のために音が出るようにした矢)をつかうことから「鏑の流し馬」という文字があり、同じものを指すから当て字になったのだろう。
馬を疾走させる直線区間は、通常2町(120間、約218メートル)。
(右利きが多いから)進行方向左手に間を置いて3つの的を立てる。
走路から的までの距離は5m前後というが季節のニュースで見るともう少し近いように感じる。
隋神門とは、寺院の仁王門と同じで、神域に邪悪なものが入り来るのを防ぐ神をまつる門のこと。
神社公式サイトによれば、康平五年(西暦1062年)、奥州の乱を鎮圧した八幡太郎・源義家が凱旋の折、日本武尊命の先蹤に習ってこの地に兜と太刀を納め、源氏の氏神である八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀ったという。
9:33
隋神門の扁額には光●門と書いてある。寮、賽のような字だが、分からない。
門の両そでに祭ってある神は、神社公式サイトによると「隋神さま」としか書いてない。
隋神は、随身と書けば貴人を守る左右近衛府の舎人のこと。ひな壇でお内裏様を守るのは左大臣、右大臣である。
それなら、義家を隋神様にすればいいのに。二人必要だと難しいか。
昔々斜面の藪に住み着いた狐の穴の跡をお稲荷様として祀っている神社があるが、ここの境内はよく整備されていて、土の斜面、藪などはなく穴はありそうもなかった。
南西を向く神武天皇遙拝所の左手から、旧別当寺の放生寺へ続く石段をおりる。
その途中、右手に出現殿という社殿があった。
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9:39 出現殿前の石垣も立派。
そのまま西門から諏訪通りに出て、再び鳥居の前を通って早稲田大学に向かった。
帰宅後調べると、江戸時代に南側の山裾を切り開いたところ横穴を発見、横穴より金銅の阿弥陀如来像が出現したため、瑞祥のあった神穴があることから高田八幡宮を「穴八幡」と称するようになったという。
前を通った出現殿の「出現」こそ、穴から阿弥陀如来像が出たことを意味し、穴の場所らしい。出現殿の門は堅く閉まっていて穴を見ることはできない。
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