天気の良い師走の水曜日、関宿にやってきた。
鈴木貫太郎記念館から関所跡、関宿城の大手門跡、武家屋敷跡。何もない○○跡地ばかりを歩いて堤防の上の千葉県立関宿城博物館にやってきた。
1995年にオープン。
ここは千葉の中心からはるか離れ、埼玉と茨城のほうが近い。なんでこんな辺鄙なところに県立博物館ができたかと考える。
理由は関宿という土地に関係しているはずだ。あまり知られておらず影も形もない関宿城ではなく、水運と洪水関連だろう。治水事業の資金が少し回ったとか、河川改修で農地をつぶした償いとか、そういったことがあるのかどうか。
2023₋12₋13 11:48
フェンスにある正門から入って建物への入り口へ向かう。
玄関は両側から長屋に挟まれたような通路の奥。
天守閣部分は古記録をもとに再現したというが、この風変わりな入り口周辺も関宿城にあった構造だろうか?
この運河はよく覚えている。
第二展示室にはいると江戸時代以前の水系の地図があった。
そして第三展示室は洪水でなく水運である。
別の窓から富士も見えたが写真にすると小さいのが分かっているので写さない。
入場料は200円だが65歳以上は無料。
平日とあって見学者はほとんどいない。
外見は城だが、中は関宿城や藩政時代の歴史ではない。順路に沿って入ると洪水関連の展示で始まり、水との闘い、治水をテーマにしている。
11:55
水塚(みづか)の分布
地図は関宿町が野田市と合併(2003)する前に作られたようで、細長い町域、すなわち二つの大河に押しつぶされるように挟まれた地形がよく分かる。
11:57
水塚の再現模型
水塚というのは、各農家が洪水に備え、屋敷の一角に高く盛り土して小屋を建て、そこに籾米、食料などを保管したものである。まだ現存する農家もあるらしい。
11:58
洪水絵葉書(明治43年、大正6年)
絵葉書と言えば風光明媚な観光地のものが普通だと思うが、こういうハガキはいつ出すのだろう? それとも記憶のための保存用だろうか?
関宿では洪水を防ぐため様々な努力がなされてきた。
11:59
浚渫船の模型
北関東から土砂が集まった関宿沖。
放っておくと巨大な天井川になってしまう。
川は洪水という災害をもたらす一方で船での運送を可能とする。
そのためには水量を調節する水門と、船を上下させる閘門が必要となる。
12:00
関宿の水閘門
水運がなくなって閘門は不要となったが、水門としてはまだ生きているようだ。
水閘門を挟んで関宿の対岸は埼玉だと思ったら茨城の五霞町だった。このあたり、茨城と埼玉の県境は利根川ではなく、その西の権現堂川と中川である。こういう事実も川筋の変遷、河川改修の歴史を表しているのかもしれない。
水運と言えば、関宿からは離れているが、利根運河の地図があった。
11:57
利根運河
博物館開館時は町だった埼玉・吉川、茨城・守谷も「市」という紙が貼ってある。
北関東と江戸を結ぶのは関宿経由で良いが、東北地方太平洋岸から江戸に来るとき房総半島まわりは船の難所だったため、銚子から利根川をさかのぼった。しかし関宿まで来るのはかなり遠回りである。また明治になって船が大型化すると浅瀬のあるこのルートは使いづらかった。そこでオランダ人技師を呼んでわが国最初の洋式運河としてできたのが利根運河である。
野田の町の南、北総台地の切れ込みを利用して1888(明治21)年着工、1890年6月に竣工した。運河の両側には通航料を徴収する収入所が置かれ、付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並んだ。さらには運河大師の勧請や桜並木の植樹を行い、運河の観光地化を図り、大きな賑わいをみせた。
1892年には汽船も就航し、1895年東京―銚子間の直行運転も始まる。東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。
しかし、翌1896年(明治29年)常磐線が、1897年には銚子-東京間に総武本線が開通すると乗客としての利用者は激減し、また東北からの大型船が直接東京湾に入るようになった。
さらに国が河川政策を変えた。それまでは水運を優先、水深を深して川幅を狭くしていたが、水害対策を優先し、川幅を広げて堤防を高くした。その結果、水深が浅くなって汽船の運行が困難になり、また、汽船乗り場が町から離れ、貨物の積み替えも不便だったこともあり、水運は徐々に衰退。
1941年には台風で利根川から入った水が堤防などを壊し、運営会社は破綻、運河としての役目を終えた。国有化されて堤防の改修で6000本の桜は切られ、運河沿いの商店なども立ち退いた。
1990年代から2007年ころまで、家族で埼玉から妻の実家の取手に行くときは叔父の車を借りた。国道16号で野田の手前まで来て、混雑を避けるため途中から16号の東を並行して走る県道7号(我孫子-野田線)を通った。農村部を走るこの旧道を南下すると運河にぶつかる。ここから左折して運河の細い堤防の上を少し東にいき、見渡す限りの水田の中を走る農道に降りた。この農道はほとんど車がおらず、国道6号が取手にわたる大利根橋まで続くから近道だった。
しかし、この運河の堤防が怖かった。わずか200メートルほどだが、すれ違い出来ないどころか、車1台がやっと。路面も傾いていて車高が高いワゴン車は倒れるのではないかと心配だった。倒れるはずはないが、運河は普通の川と違って川原がないから川幅は狭く、斜面が崖のように急である。ガードレールもなくハンドルさばきを間違えたら転げ落ちる。ちらりと見えた、はるか下の静かな水面が今でも忘れられない。
県道を走ってきて運河が近づくと緊張した。堤防上で対向車が来ても私の腕ではバックできない。だから運河の上を向こうから車が来るのが見えたら、むしろほっとして左折せず県道をそのまま南下したものだった。
その利根運河の掘削のときの工事設計書があった。
12:01
利根運河工事設計書(1890 明治23年)
吉川町・利根俊作 蔵
いくら明治時代とはいえ洋式運河である。設計書と言えば、細かい数字の入った表や定規で書いた図面が中心かと思ったが、江戸時代の古文書のような達筆の文章と素人っぽい絵だった。2年間で220万人を要した掘削工事はこの「古文書」にふさわしく、ほとんどクワとモッコを使った人力によるものだった。
所蔵者の利根氏の苗字が気になりネット検索したら電話帳にあっただけだった(吉川在住)。
今回関宿に来たのは鈴木貫太郎記念館でもなく、関宿城址でもなく、水閘門をみるためでもなかった。たぶんこの県立博物館に絶対あると予想した、利根川東遷に関する歴史地図を見たかったのである。
12:03
家康が江戸に来るまで、利根川、荒川など北関東に降った雨を集めた大河はすべて東京湾に入っていた。洪水のたびに川筋を自由気ままに変えていたから、下流の人は大変である。江戸からさらに東国に行くには何本も川を渡らねばならず、千葉県北部すなわち律令時代の下総国は、日本武尊や源頼朝が三浦半島から海を渡ったように、上総国の奥という場所だった。1590年家康は関東に国替えとなり、太田道灌時代の江戸城の拡張、城下町の建設に着手した。そのためには江戸城の東の低地を水害から守る必要がある。そのための大きな事業が坂東太郎、暴れ利根川の東遷であった。
素人的には利根川をここ関宿あたりで曲げ鬼怒川などを通して銚子のほうに持っていき、旧流路が江戸川になったのなら話は簡単である。しかし古利根川という川が江戸川よりずっと西の、杉戸、春日部を流れている。古利根川は松伏町で中川と合流、さらに越谷で元荒川に合流しているから、利根川の流路変更はもっと複雑そうだ。その地図を見たかった。
12:04
それによれば、
1.1594 加須の上流、利根川が二股に分かれて南に向かうほうの会の川を閉じる。これで東武蔵の洪水は緩和された。
2.1621 東に向かった利根川をさらに東へ移すため、8キロにわたり開削、新川を作って渡良瀬川と合流。
3.1621~1635 しかし渡良瀬川も東京湾に流れていたため、これを常陸川に移すため、栗橋付近で赤堀川を開削。しかし水は流れなかった。このころ各地で瀬替えが行われ、鬼怒川(1629)、小貝川(1630)、荒川(1629)が付け替えられている。
4.1640 渡良瀬川・利根川の水を集めた庄内古川(太日 (ふとひ) 川)は常に氾濫したため、さらに東に移そうと関宿付近から開削をはじめ、うまく谷を利用して3年で完成。これが今の江戸川である。関宿の西の逆川もこのとき掘られた。
5.赤堀川開削を再開。1654年、ようやく利根川本流は常陸川の流路を使い太平洋に出た。
まとめれば
利根川上流河川事務所公式サイトから
こうして葛飾郡など下流部の洪水は大きく減り、新田開発も進むと同時に、太平洋と東京湾が内陸の水でつながった。
12:11
行き来した高瀬船の模型。
人形が乗っているから実際の大きさが分かる。
周りの展示コーナーの蔵は、各地の河岸にあった蔵を再現したものか。
エレベーターで天守閣部分の4階に上がった。
12:14
4階は展望台
12:14
東に遠く筑波山と近く利根川。
北を向けば遠い男体山の日光連山と分流点がみえた。
12:14
左:江戸川、右:利根川
4階の展望台から階段を下りていく。
犬山、松本、姫路、彦根など国宝天守と比べ、再現模擬天守は階段が現代仕様。広くて歩きやすい。
しかし名古屋城天守閣にエレベーターを作ったのは反対である。外付けは景観を台無しにした。天守に上がるより外から見上げるほうが好きな私にとって、名古屋城は全く魅力がなくなった。バリアフリーは万能ではないと思う。
階下は関宿の歴史に触れた展示である。
絵図の西の逆川は権現堂川と常陸川をつなげる水路で、利根川東遷以前からあったらしい。
(松浦茂樹)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/46/2/46_23/_pdf
権現堂川は、いま幸手あたりの堤防で桜と菜の花が有名だが、中川となって南下し、ここには来ない。関宿の付近は埋め立てられ、江戸川とは分離されたが埼玉幸手と茨城五霞との県境として痕跡を残す。
この絵を見れば、水関所の棒出しは逆川でなく、南西の江戸川の入口にあり、まるで食道と気管の分かれ目にある弁のように見える。
幕末のこの城と水路と町がいま残っていたら、水郷として花菖蒲の中にお城がそびえ、独特の風景から姫路城や日光など比較にならないほどの観光資源となっただろう。ゴンドラの行き交うベネチアのように世界遺産になっていたか。
(続く)
20200704 びっくり行田駅の謎と中山道、元荒川
0 件のコメント:
コメントを投稿