10月17日、土曜、甲府に向かった。
家族らと松本に旅行する計画で、彼らは「7時ちょうどのあずさ1号」に乗るらしいが、私は途中甲府に降りてみたかったので、初めてスマホの目覚まし機能を使い、早朝に出た。
まだ真っ暗、西日暮里04:41発、神田05:01の中央線快速に乗る。
こんな早朝ガラガラだと思ったら、すぐに空席は埋まり、登山姿の人が多い。
新宿から京王線で高尾にでも行くのか、かなりの人がおりたが、さらに多くの人が乗った。
新宿で隣に女性が座った。登山帽のため顔、年齢は分からず。
しばらくすると彼女はパンを食べ始めた。私は恥ずかしくてこういうことはできないが、堂々とサンドイッチと甘い菓子パンを食べていた。
2026-10-17 5:35
東小金井あたり。
中央線快速は吉祥寺から各駅停車になる。特別快速はないのかと思ったが、この電車が一番早く甲府につく電車。
立川で多くの人が下りた。奥多摩に行くのだろうか。
立川を出ると空が明るくなってきた。
終点、高尾で乗り換える。
同じホームの向かいに止まっている電車に移るのだが、ぼーっとしていたら席があっという間に埋まり、ぎりぎり座れた。
松本行き各駅停車なのにボックスのある中距離電車の車両でなく、山手線のような通勤用の車両だった。
こういう状況のため、この電車でもコンビニパンの朝食は食べられず。
高尾 06:15発。
電車は高尾を出ると山間部を走る。
相模湖は思ったより登山客が下りなかった。この駅はかつては津久井郡相模湖町であったが、いまは相模原市緑区となっている。
昔、相模湖と津久井湖の間に帝京大学薬学部があり、1988年6月ここが会場となった日本薬理学会関東部会でダントロレンのCa-induced Ca release阻害が温度依存性であることを発表した。ちょうど東大医薬理から会社に復帰、薬効部門にうつったときで、指導監督する人がおらず皆の前で練習することもなかったから、最初から半分くらいまでスライドなしでイントロをしゃべり続けるという、独創的というか変な口演だった。
この時は学会事務局が用意した専用バスで高尾駅から往復したので、相模湖駅に降りたことはない。相模湖町寸沢嵐というのは学部生のとき指導してくれ、助手に来ないかという話もあった嶋田さんの住所だった。
JC24 06:15高尾
JC25 06:23相模湖
JC26 06:28藤野
JC27 06:32上野原
藤野と上野原の間に県境があり、相模湖の相模川はここから桂川と名前を変える。信濃川のように地元の人は相模川とは言わなかったと思うが、ダムの観光か、河川行政のにおいがする。
上野原は河岸段丘で有名だが、よく確認できないまま過ぎてしまった。
列車は西に向かい、山に朝日が当たっている。
JC28 06:36四方津(しおつ)
JC29 06:40梁川(やながわ)
中央本線はずっと桂川の北を走っているがたまに川が見える。絶景だと思ってスマホで撮ろうと取り出すと過ぎてしまう。
6:45
鳥沢を過ぎて桂川を渡るときの絶景を取り損ねた後の1枚。
JC30 06:44鳥沢
JC31 06:48猿橋
JC32 06:54大月
CO33 07:00初狩
CO34 07:06笹子
駅番号の前についた路線記号に着目したい。
大月まではJR東日本の J と Chuo の JC であり、お茶の水(JC03)、吉祥寺(JC11)などの続きである。
ところが初狩から番号はそのまま引き継ぐものの路線記号がCOとなる。
CはJR東海の会社記号だが、ここはJR東日本である。はて。
調べたら、JR東日本は東京近郊区間のほかに甲信エリアで路線記号をつけている。東京近郊では私鉄と区別するため J をつけるが、地方では J をつける必要がない。篠ノ井線はSN、信越線はSE、中央線がCOとなっている。
(ちなみにJR東海では、御殿場線で書いたように、Cの次は東から順に東海道、御殿場、身延、飯田にABCDをつけていて、中央西線(塩尻~名古屋)はCFである。CHをのぞき(名鉄が先に築港線で使ってしまったので欠番)、CJ(関西本線)で終わっており、COはない。)
笹子を出ると高速道路E20と同じように、長いトンネルに入る。
甲斐大和で両方とも地上に出るが、再び長いトンネルに入り、出ると甲府盆地だった。
CO35 07:12甲斐大和
CO36 07:18勝沼ぶどう郷
7:17
勝沼ぶどう郷駅
かつては勝沼駅だったが、1993年に改名されたという。
さくらんぼ東根駅と同様、地元農家には大きな宣伝になる。
ところで、サクラがあって盆地の絶景が見えない。
日本人は春の一瞬だけのために桜を植えすぎではないか?
7:19
塩山の手前で甲府盆地が見えた。
初めて中央線に乗ったのは、1976年12月、大学2年のときだった。
工学部に進学した高倉仁史君と一緒に剣道班の同級生だった由井克之君の家を訪ねた。由井は下宿して長野高校に通い信大医学部に進んだが、実家は人家も少ない小海線の信濃川上だった。高倉とは乗り換えの小淵沢で待ち合わせることにして、やはり私は朝一番の中央本線に乗った。
そして塩山駅におりて、三科よしみさんと会った。
彼女は高校2年の関西修学旅行のとき出会い、少し文通して翌年4月に玉木一徳をつれて上諏訪で2対2で会ったがその後切れていた。2年しか経っていなかったがだいぶ印象が変わっていた。彼女は出勤前だったから、少し話して次の電車に乗った。その後お互い連絡は取らなかった。
塩山駅は1986年に今の橋上駅となったが、当時は木造の薄暗い駅舎で、彼女と話したのも古い木のベンチだった。
CO37 07:22塩山
CO38 07:26東山梨
CO39 07:29山梨市
彼女は山梨市の山梨高校に通い、謡曲仕舞のクラブに入っていた。県下一の名門高校のような名前の山梨高校は当時、県立の女子高だった。(1989年から共学)。
ここで「山梨」について書いておく。
甲斐の国はいったん甲府県となったが、府県制の中でこの県名はよろしくなかったのか、あるいは幕府直轄地の地名が新政府に嫌われたのか、すぐに甲府の属した山梨郡から山梨県とした。ちなみに山梨県の郡はもともと巨摩、八代、山梨、都留の4つであったが合併が進んだ今は知らない。
CO40 07:32春日居町
CO41 07:35石和温泉
CO42 07:39酒折
CO43 07:43甲府
(1982年12月岸田孝三君、2012年3月の日本生理学会で松本に行ったときは信越線/篠ノ井線経由だった)
「7時ちょうどのあずさ1号にのるから」と息子は言ったが、「8時ちょうどのあずさ2号」のことは知らないだろう。狩人のあずさ2号だ。
甲府駅に入る前、甲府城の石垣が見えた。
以前よりだいぶ復元されたのだろうか、大きなものがよく見えた。
人生、死ぬ前に初めて甲府駅に降りた。
あずさ1号は偶然息子一家と同じ車両だった。
7:43
甲府駅周辺
左が南、右が北。
西日暮里(東京)から甲府までは134km、普通運賃は2420円。
高崎線だと前橋以北の磯部、渋川あたり。宇都宮線だと宇都宮を過ぎて蒲須坂あたり、東海道線だと沼津を越えて吉原あたりまでだ。
7:43
北口方面
7:44
北口方面
当初、軟弱な家族たちは新宿9:00ころのあずさに乗ると思っていたから、7時ちょうどのあずさに乗れば甲府で2時間作れる。南の甲府城と北の躑躅が崎、武田氏館を見ようと思っていた。ところが彼らは早起きして7:00ちょうどのあずさ1号に乗るという。そこでそれより早い電車を探して朝1番の中央線できた。私の甲府は45分しかない。
それでも北口からタクシーをチャーターして躑躅が崎、武田神社まで急いで往復しようと思ったが、ちょっと南と北の両方は無理なので諦めた。今、北口をのぞいて、タクシー乗り場がすぐ見えなかったので、正解だった。
7:44
大村智(さとし)とイベルメクチン
山梨大学「flotilla」の展示
土壌中の放線菌からノーベル賞の対象となったイベルメクチン誘導体をとって抗がん剤にしようという試み。
真面目にがんを狙うならイベルメクチンにこだわることもないと思うが、こだわらないと山梨大学の意義がない。
7:46
甲府駅南口方面
7:48
甲府駅南口
町を見ている暇はない。
7:50
左:甲府駅、右:甲府城
車窓から見える石垣はこれである。
(甲府城については別に書く)
このあと、あとから来るあずさ1号に間に合うべく30分の駆け足でお城を回って駅に戻った。
8:23
かふふ駅煉瓦広場
かふふ来(幸福)の鐘
かふふ駅は歴史的仮名遣いだから分かるが、かふふ来がコウフクと読めても「来」を幸福でなく「かふふ」につけたのが分からない。甲府が来るのがめでたいということか。
全席指定席で、家で予約するとクレジットカードから特急料金だけ引き落とされるが、チケットはない。スイカとの連携もない。料金を払ってある座席は緑で、空いている(未払いの)席は赤ランプになっている。甲府からは空いていて私の隣の赤ランプの席に息子が孫を見せに一時座ったが、やがて車掌さんに声をかけられた。
普通運賃のほうは出場のとき改札でスイカから引かれる。
明日(あした)私は旅に出ます
あなたの知らない人と二人で
いつかあなたと行くはずだった
春まだ浅い信濃路へ
行く先々で想い出すのは
あなたのことだとわかっています
そのさびしさがきっと私を
変えてくれると思いたいのです……
さよならはいつまでたっても
とても言えそうにありません
私にとってあなたは今も
まぶしい一つの青春なんです
8時ちょうどのあずさ2号で
私は私はあなたから旅立ちます
(作詞:竜真知子、作曲:都倉俊一)
1977年だから大学3年のころ、当時は何とも思わずに歌っていたが、今読むと切ない歌だ。
まだ深く愛し合っているのに、このまま続けても彼は幸せになれないと知った女性が、自ら身を引くために他の男と旅行する(旅立つとかける)という既成事実を作って無理やり彼と離れるという話だろうか・・・
さて、当時は上りに1号、2号、下りにも1号、2号とあった。しかし翌年1978年3月のダイヤ改正で下りが奇数で上りが偶数となり、2号というのは上りの一番列車となった。
小淵沢を出て長野県に入ったところ。
八ヶ岳が見えた。
ようやく朝飯が食べられた。
息子と孫にはあったが、違う車両の妻には連絡せず、車窓の景色を楽しんだ。
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20250331 京都23 青蓮院と東寺、洛南、梅小路の市電














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