2023年3月6日月曜日

地下鉄一日乗車券で北千住と東陽町イースト21

東京23区の地図を集めている。

1/24 豊島、新宿
2/13 文京、台東
2/14 渋谷
2/16 北
2/17 板橋
2/21 荒川、葛飾、江戸川、墨田
2/22 世田谷、目黒
2/27 品川、大田

以上15区の窓口に行き地図をもらい、あと8区。
東部の足立、江東、
都心の千代田、中央、港、
西部の練馬、中野、杉並が残っている。

3月1日、この日は午後、練馬区光が丘のパーティに誘われた。
この機会を逃すと練馬区なんて行く用事がない。ついでに杉並、中野も回ろう。
朝から回ればほかの区も行けるのではないか?
そこで地下鉄一日乗車券を買った。
2023‐03‐01 8:53
千駄木駅ホームにて、地下鉄一日乗車券。
自動券売機で買える。都営も乗れて900円。
ちなみに千駄木から光が丘までは片道423円。

まず向かったのは千代田線で3つ目の北千住。
9:02着。
足立区の南端だが、区役所出張所の区民事務所がある。
9:09
千代田線ホームから地上に出るのは時間がかかった。
区民事務所は北千住駅前の丸井の中にある。

平日の朝だと改札口に急ぐ人ばかりで、買い物客のいない丸井も、出張所用の入口しか開いていなかった。直通のエレベーターで上がり、地図がありませんかと、来所者の案内をしていた女性に聞くと、窓口の女性に確認に行った。
戻ってこられて、足立区には無料の地図はないという。
有料地図なら区役所にあるが、ここにはないという。
9:14
今まで15区を訪ねたが、行ったところはすべて、出張所であっても地図はもらえた。
そんなことはあるのだろうか? ないというのは本当だろうか?
防災地図とか、街歩き、観光地図とか、何かあるのではないか?
納得できず、区民事務所を後にする。

北千住付近の地図をみると、旧日光街道を少し南へ行ったところに足立区千住庁舎というのがあった。そこに行ってみよう。
9:16
駅前通りはどことなく地方都市を思わせる。
旧日光街道にぶつかり南に曲がる。
9:18
旧日光街道は、北千住駅前通りから南は千住本町商店街という。
この道は何回か通っている。
ブログ

9:20
歩きながら左(東)を覗くと、文化財的な歯科医院の看板が見えた。
今昔のブログを見たら、2年前に来た時もこの写真を撮っていた。

そのときこの写真左側の高層マンションは工事中だった。
実はこの敷地は鴎外森林太郎の父が開業した橘井堂(きっせいどう)森医院があったところ。
9:22
二年前フェンスで覆われていた周囲はすっかり整備され、周りこむと森鴎外旧居橘井堂跡という碑が建っていた。
森林太郎は東大在学中は竜岡門付近に下宿していたが、明治14年に卒業してから17年にドイツへ留学するまで、ここ千住から三宅坂の陸軍病院まで人力車で通った。

日光街道をさらに南下、千住一里塚跡などがある大踏切通りを過ぎると、左に千住庁舎がある。
9:27
千住庁舎
9:28
しかし中に入ると、足立福祉事務所、千住保健センター、子育てサロンなどが入る病院のような雰囲気の施設で、一般人相手の窓口もなく、とても地図がもらえるような場所ではなかった。

早々に退散し、駅に向かった。
しかし地図を諦められない。
9:32、足立区役所に電話してみた。
自動音声ガイドではなく、ちゃんと案内嬢が用件を聞いて担当部署に回してくれた。

確かな情報として、やはり地図は一部100円で販売しているという。防災マップもないのかと聞くとこちらも100円で冊子になっているらしい。またそれらは区民事務所などにはなく、本庁にしかないという。
東武線の梅島駅から徒歩12分というので、今回はとても行く気にならず、諦めた。

次の目的地は江東区。

今まで地図をもらうには、区役所だけでなく、支所、出張所も含め、駅に近い施設を訪ねていたが、やはり区役所がいい。墨田区役所、品川区役所で分かったが、区役所は大きいから、入口近くに総合案内所があり、地図をもらうのがスムーズ。そして出張所などには在庫がないかもしれないが、区役所ならば(もし、あるなら)確実にある。
また、区役所は区の顔であり、様々な23区の雰囲気が分かる。

うまり、北千住から江東区役所にいく。
幸い、地下鉄の駅から近い。

北千住駅に戻り、日比谷線の始発電車に乗る。
いったん千代田線の地下に入ってしまったら日比谷線は一番上の3階だった。

北千住は多数の路線が乗り入れて、その利便性から今、住みたい街ランキング上位の駅だが、朝の通勤は大混雑なのではなかろうかと思っていた。しかし、日比谷線の始発電車はガラガラだった。
時計を見ると9:44
家を出てから1時間経ってしまったのに、まだ地図は1枚もゲットしていない。
茅場町で東西線に乗り換え。
10:14東陽町駅に到着。
10:18 東陽町駅
永代通りと四つ目通りの交差点

地下鉄入り口が、洪水時に備え道路より高くなっている。
この駅はダンスの競技会がホテルイースト21でよく開かれたので、2005年と2006年に2回ずつ、最後が2015年、合計5回来ている。

江東区など東部の地域は景色に変化がないため、何度来ても東西南北が分からない。
地下鉄出口の交差点にある地図は、案内板に立って見ている方角が上になるよう描いてある。北が上になる地図よりも、向いている方角が上になる地図を好む人のほうが多いということだろうか?

地図を見なくても、江東区役所はイースト21に行くとき前を通っていたので道は分かる。しかし、何回も来ているのに、今回、地図を見て区役所が駅の北にあることを初めて知った。
10:21 江東区役所着
足立区と違い、地図は一階の一番近い窓口ですぐ下さった。江戸川区と同じく、ハザードマップなどと一緒に「暮らしの便利帳」に挟まった転入者用のキットであった。地図だけで良いですというと抜き出してくださった。

「ここにいてはいけません」という江戸川区のハザードマップはインパクトがあったが、江東区もほとんどが埋め立て地。心配になる人もいるだろうが、国土地理院の等高線地図を見ると近年の埋め立て地はむしろ江戸時代からの陸地より標高が高い。

埋め立てというと、江東区は埋め立てによって陸地が大きく増えた。
明治15年に11平方キロ(のち深川区、城東区となる相当地域)だったのが、大正時代に15平方キロ、昭和15年に20平方キロを越え、私が上京した昭和50年に31平方キロ、今は40平方キロと3倍以上になっている。
いま立っている区役所前も東京湾から大分離れているが、仙台掘川の南、木場の東だから明治時代は波打ち際だった。
今、江東区は豊洲、有明も含め(フジテレビお台場は港区)、区の形もすっかり変わり、面積は6位、人口は8位まで増えている。埋め立てのなかった北隣の墨田区などを大きく引き離した。

さて、
上の区役所の写真でも見えるが、すぐ先の左のほうにイースト21が見えたので懐かしくなってちょっと足を延ばしてみた。
10:28
イースト21、の入り口
虎ノ門のホテルオークラの系列である。

10:30
イースト21の前の横十間川親水公園

ダンスで来たときは東西南北を気にせず、また知識がなかったから気にならなかったが、横十間川は江戸城から見て横、つまり南北に伸びる掘割である。しかし、ここは東西である。はて? 
いま地図を見たら、横十間川は錦糸町駅のそばの猿江恩賜公園の東を確かに南北に流れているが、江東区役所の北で西に曲がり、東西方向となり、この先、西側で南北に並行する大横川につながっていた。
2015年最後に来たとき、ダンスは二回戦で敗退し、時間があったのでこの遊歩道を西に歩いて木場公園まで行ったことを思い出す。

初めて東陽町にきた18年前、2005年は競技ダンスを始めて半年、JDCのノービス級で49組中6位に入った。
翌2006年、3回目に来たとき13組中2位となってD級に昇級した。
最後の8年前、2015年は6人目のパートナーとDSCJのB級になっていて、翌年のA級昇級を決め、一番熱心に踊っていたころだった。
年月は速い。いつまで踊れるだろうか。

(続く)

2023年3月5日日曜日

シナノ薬品、大森ベルポート、品川区役所

東京23区の地図を集めている。目的はない。

豊島、新宿から始めて、すでに13区の窓口を訪ねて入手した。集めること、行くことが目的になっている。
残りは都心3区と周辺7区。
2月27日、一番南の大田区、品川区に行った。

大田区役所は蒲田駅からすぐ近くだが、大森駅のそばに出張所がある。
大森のほうが懐かしいので、その大田区入新井特別出張所を訪ねた。
2023‐02‐27 12:46
Luz(ラズ)大森
線路の高架にみえるのはミルパ商店街のアーケード屋根

出張所は繁華な北一番街に面したショッピングセンター「Luz大森」の一階にあった。多くの飲食店のほか、入新井図書館も入っている。
大田区の施設は人が集まる駅のそばにあり、便利である。

地図はすぐもらえた。

ここから少し(多分2,3分)歩けば、戦前から昭和30年ころまで、シナノ薬品のあった場所に行く。

祖父の弟、友二郎が東京の知久喜代と結婚、知久の婿養子となった。喜代が大森にあった帝国女子医専薬学科を出た薬剤師でもあったことから医薬品卸の会社を興した。
大学病院にも薬を卸し、景気はよかった。
子どもがなかったため勉強のできた私の父を養子に欲しがったが、長男であったため祖父が放さず、二男の安雄叔父が養子に入った。叔父は医者になるべく雑司が谷の獨協中学に入れられたが、戦時中でほとんど学校に行かず、戦後は時計宝石の卸を始めた。
祖父の三男昌親は信州中野で自転車屋「親輪舎」を始めたが、四男の叔父、恒は戦後、上京、知久夫妻の元で仕事を始めた。
しかしシナノ薬品は倒産、夫妻は亡くなった。
(恒叔父は借金を抱えたが、「シナノ薬品」の看板を継ぎ、大森で小売り店の薬局をはじめた。そして高度成長期に大森から座間に移転、店舗を4つ、貸家を経営するまでに復活させた。)

私の父は子供のころ、戦前か戦時中でも空襲が始まる前、大森に滞在し、ひとりで東京中を見物して歩いたという。2010年死ぬ前に、楽しかった思い出を話してくれた。

つまり、大森のシナノ薬品は我が家の祖父、父親世代が上京した時の拠点となったところだった。そのため、弟と脚の達者な叔母との3人で2018年、その場所を訪ねた。しかし一切の痕跡がなく、坂とか川、橋、寺社などがないこともあり、その場所に立っても面白くない。弟と私は思い出もないから、そうそうに大森駅に戻った。

この日、地図をもらったあと、すぐそばだからもう一度行ってみようかと思ったが、何もないことが明らかなのでやめた。

・・・
私にとって大森駅と言えば大森ベルポートである。
2005年3月に初めてきて以来、2017年まで、ほぼ毎年、全部で9回来た。
12:56 大森ベルポート
正面(西口)から入ると、アトリウムが広がる。
この広い空間の中央を椅子などで四角に区切り、ダンス競技会が開かれた。
エスカレーターで二階にあがる。
アトリウムは、廊下がつながるB館、C館、D館と正面のA館に囲まれ、高い天窓から光が入る。

社交ダンス競技の団体はJDSF、JDC、JBDF, JCFなどいろいろあるが、一番レベルの高いJBDFがこの会場を使い、参加者も多かった。
控室が満員のときは下が見下ろせるベランダのような二階の廊下で着替えた時があった。場所をとったときは早朝だから誰もいないのだが、昼時が近くなると飲食店が開き、人も増え、燕尾服、ドレスの選手は場違いの違和感があった。
それでも多くの人はこの上から興味深く目を向けた。

12:59
アトリウムの裏(東側、A館)にあるロビー。
ここは選手控室になり、レジャーシートを敷いて着替えたり食事したりした。

そもそも大森ベルポートは、いすゞ自動車の創立50周年事業の一環として、本社、倉庫などのあった敷地に第一生命との共同事業で開発。1996年に竣工した。いすゞは五十鈴であることから、「ベル」ポートとしたという。五十鈴は伊勢神宮の五十鈴川から取ったもので創業者の名前ではない。石川島造船所の自動車部門が独立、1930年代から四輪車を製造し、かつてはトヨタ、日産とともに御三家と言われた。
ちなみに、いすゞ自動車は2022年に本社をここのA館から横浜に移転した。

13:00
ここに選手が並び、自分のヒートになると入場した。
JBDFは2017年に退会してしまったので、もうここに来ることはないだろう。
13:05 大森駅東口に戻る。

大森駅の北西、線路沿いに大森貝塚がある。
二度目に来た2006年、一回戦で負けてしまい、桜の咲く大森貝塚遺跡庭園でおにぎりを食べた。今回は行かず、次の品川区の地図をもらいにいく。

品川区役所は隣の大井町駅から近い。
ちなみに、品川駅は港区である。
明治22年に東京市ができたとき、品川宿は新橋東京間に鉄道ができてますます発展したので芝区に入り、芝区が戦後港区になった。
品川区は品川駅の南に広がる市街地が品川町になり、それがさらに南の村々と合併、昭和になって品川区となった。さらに戦後、西に広がる荏原区と合併したが、品川区の名が残った。つまり北東の隅の品川の地名が区全体の名前になった。
当然、区役所はもっと南西にある。
13:14
大井町駅西口
イトーヨーカ堂がある。生活しやすそう。
13:17
イトーヨーカ堂の北の道を西にいく。
商店街は西から来て京浜東北線に直角にぶつかる東急大井町線のガード下である。
13:20
商店街が切れると、ガード下から再開発の工事現場が広がった。
JRの土地だったようだ。
赤レンガ倉庫も見えた。あれを生かしてお洒落な場所にするのだろう。
13:22 品川区役所
駅から8分。
正面から入ると総合案内があった。区によってはここで地図がもらえる。
ところが30代くらいの男が何か話していて、職員が電話をしている。聞いていると、どうもディスカウントショップで買った品物にクレームをつけたいらしい。話は終わらず、職員は再び電話をかけた。電話も長い。私の後に並んだ人々は次々と去っていった。この職員は担当部署に割り振るという自分の仕事が分かっていない。
私もイライラして他の窓口にいこうとしたら、女性職員が、たまたまか一人来た。地図が欲しいというと5階の広報課に行ってくれという。
13:30
品川区役所 五階
地図は広報課のカウンターに置いてあった。

もらってからエレベーターで1階に降りると駐車場出入口だった。
斜面に立っているのか、私が入った正面玄関は3階だった。
階段で玄関ロビーに上がると、さっきの男性はまだ立っていて、職員はまだ電話していた。
そして私に案内した女性職員は、その前のロビー真ん中で来庁者をさばいていた。


地図集めブログ

2023年3月4日土曜日

クロスエアタワーの目黒区施設と天空公園

東京23区の地図を集めている。
2月22日、下北沢で世田谷区の地図をもらったあと、目黒区の地図をもらうため、目黒区の駒場まで歩いてきた。
2023‐02‐22 12:02 
駒場東大前駅 西口
下北沢駅からここまで1.6キロ、21分。
(実際は地図をもらうため代沢支所に立ち寄ったからもっとかかっている)

12:04
かつて駒場の駅から南に登る坂のすぐ西に公務員住宅があった。
学生時代、ここに住む高級官僚の息子の家庭教師を数か月した。その後、宿舎は廃止され、2017年は建物がまだあったが、今回は更地になっていた。

坂を上がると淡島通りに出る。
突き当りの駒場エミナースは、1992年友人の結婚式で来たが、今はプラウド駒場になっていた。
都立駒場高校との間の道を南下する。
駒場東邦中学・高校入口の案内板があった。
1976年、座間のいとこがここを中学受験して、近くだから結果を見にいってくれと頼まれた。何度見ても名前がなく、不合格を伝えるのがつらかったが、彼は第一希望の栄光学園に受かり事なきを得た。
12:13
警視庁第三機動隊の建物群(写真)の間を下りると、東邦大学大橋病院がある(写真左)
このあたりは学校や官庁、公共施設が多い。
1909(明治42)年ころの地図を見れば、
帝大農科大学の南、すなわち公務員宿舎のあたりは駒場練兵場があった。そして淡島通りの南、つまり駒場高校、第三機動隊、駒場東邦、大橋病院のあたりは騎兵実施学校、近衛輜重兵営、騎兵営の文字がある。そして坂を下り切った玉川通りの南は駒沢練兵場、砲兵旅団司令部、兵営があった。

12:18
高速道路の下を通る玉川通り(国道246号)を渡る。
上空はコンクリートの巨大なループ。

このループは山手通りの地下を走る中央環状線と高架の首都高(渋谷方面、東名方面)をつなぐ大橋ジャンクションである。ビル何階分もの高低差があるから、車は何周もしなくてはならない。
私が駒場から大橋あたりを歩いていた昔は、中央環状線がなかったからもちろん大橋ジャンクションもなかった。地下鉄の東急田園都市線も建設中で、この場所は東急のバス営業所があった。
歩道橋を渡りきるとクロスエアタワー。
地上42階の高層高級マンション。
3階から6階と11階から41階が分譲住宅や地権者の住宅、
7階から9階には図書館や区役所出張所などの公共施設がはいっている。

歩道橋からの入り口は、高級マンションか高級ホテルのエントランスそのまま。
区役所などにありがちなお知らせなどの貼り紙、告知板などない。
9階に上がると目黒区北部地区サービス事業所と目黒区立大橋図書館があった。

目黒区の地図はすんなりもらえた。
同じフロアに屋上への出口があった。
出ると大橋ジャンクションの上にできた庭園だった。
12:23
高低差のある斜面もあり、とても屋上とは思えない。
お弁当を食べているOLもいた。
私もベンチに座り、リックのなかを探しおやつを食べた。


12:30
ここは目黒区立公園の一つである。
12:30
左:クロスエアタワー、右:目黒天空公園
同じ建物の屋上のように思えたが、橋でつながっているのが分かる。

12:33
地上に降りてクロスエアタワーを振り返る。
目黒区というのはお洒落で金持ちだとつくづく思った。
区役所の出張所という機能は同じでも、建物はほかの区と全然違った。
12:33 氷川神社
クロスエアタワーと玉川通りを挟んである。
就職して大宮周辺に住むまで、氷川神社で知っているのはここだけだった。

12:35
下の山の手通り(環状6号線)と上の玉川通りをつなぐループ。
これは昭和50年(1975)にあった。大学1年生の秋、川口の叔父に車を借りて都内を初めて運転した。駒場の寮の裏に駐車して、夜、世田谷区深沢のアルバイト先まで車で行ったとき、このループを通った。車の免許は同年代の者より早く取ったが(高校生割引!)、都心を乗り回すようなお洒落な男にはならなかった。
後年、大橋ジャンクションと聞くたびにここのことだと思っていた。

ここから渋谷のセルリアンタワーまで950メートル、12分である。


2023年3月3日金曜日

新しい下北沢駅から駒場まで

 東京23区の地図を集めている。

東部の荒川、葛飾、江戸川、墨田の4区の地図を入手した翌日の、2月22日に渋谷に用事があった。渋谷区の地図は持っていたが、世田谷、目黒の地図が欲しかった。
区役所や出張所の位置を確認して下北沢から駒場、大橋経由で渋谷まで歩けば、2区の地図が手に入れられることが分かった。
2023‐02‐22 11:31
小田急の下北沢駅に下車

長野から出てきた1975年、76年のころ、下北沢駅は駒場から座間の叔父のところにいくとき、井の頭線からよく乗り換えた。

当時、井の頭線は、京王帝都・井の頭線といい、確か東京でもっとも冷房車両の比率が高いおしゃれな路線だった。

しかし「帝都」とは名前が古い。
これは1940年に帝都電鉄(井の頭線)が小田急と合併、さらに2年後の戦時中、京浜電鉄(いま京急)とともに東京横浜電鉄と合併、東京急行電鉄(大東急)となり、さらに二年後の1944年には東京・八「王」子を結ぶ京王電気軌道も吸収合併された。
そして戦後1948年、大東急が分裂するとき、井の頭線と京王線が一緒になったため、京王帝都電鉄の名ができた。帝都の文字が取れて京王電鉄となったのは、会社設立50周年の1998年である。

さて、私が下北沢駅で乗り換えていたころ、小田急線のホームは方向別単式ホーム2面2線だったが、井の頭線と交差する急行停車駅であったから、非常に乗降客が多く、朝など転落事故が起きそうなほど人でごった返す。下りのホームで電車を待つ目の前は崖が迫り、広げることも困難、狭さがさらに強調されていた。

その後、下北沢に来ることはなくなり、小田急線自体もほとんど乗らなくなってしまったが、一昨年、豪徳寺に来たとき、梅ヶ丘、経堂の駅が複々線化に伴う橋上駅になっていて、その変貌ぶりに驚いた。下北沢駅も地上駅だったのが2013年に地下化され、2018年には複々線化が完成、急行と普通電車用が上下二層に分かれた。

今回その工事後に初めて下北沢に降りたわけである。
以前は井の頭線と小田急線は改札なしで行き来でき、駅の出入り口も共通であったが、新しい駅は完全に分かれた。
小田急の新しい駅舎は東口、中央口、南西口と3つ改札口があり、東口から出る。
11:33
小田急線下北沢駅 東口

線路が地下に入ったため、新宿に向かって細長い土地が空き地となっている。
昔は全く見られなかった景色である。
もともと下北沢の記憶はほとんどないが、これだけ変わってしまうと何も思い出せない。

11:34
昔と同じように上を井の頭線が通る。
駒場から歩いてきたら到着する駅の南東方面をみる。
しかし全く記憶が蘇らない。

世田谷区役所は一昨年、豪徳寺に行ったとき前を通ったが、今回地図をもらうためだけに行くのも面倒なので下北沢の支所にいく。
11:40
世田谷区北沢総合支所
支所だが立派。大きな吹き抜けと太い柱があり、さすが世田谷、芸術的な建物になっている。
世田谷区の地図はすぐもらえた。

下北沢は駒場から渋谷と同じくらいの距離(1.6キロ、20分)だが、渋谷より小さい分、気楽で落ち着いた。何回か休日には歩いてきて、パチンコしたり、服を買ったりした。1年前期の試験が終わった秋、下北沢で買ったジャケットを着て田舎に帰省した。
しかし47年も経ち、景色も変わってしまうと周辺を歩いても若いころの記憶は甦りそうもない。
駒場に向かって歩くことにした。
11:43
確かこの道をいけば駒場にいく。
左は昭和信用金庫

11:44
坂道の途中、右を見ると崖沿いの道。
この道だけ覚えている。

11:47
高級住宅街

11:51
池ノ上駅
東側(駒場側)に踏切が二つある。
1975年はここに松蔭中学・高校の案内板がたっていた。
この辺りは下北沢と違ってほとんど変わっていないので、はっきり覚えている。

11:57
左:東大の駒場ロッジは留学生のための宿泊施設。以前は宇宙航空研究所の敷地で、たぶん森だったのではなかろうか。
右は1989年開校の都立国際高校。
両側とも47年前歩いているときはなかった。

11:59
目黒区立駒場野公園
47年前は東京教育大学農学部の正門だった。
 
 駒場のブログ
 20170611 駒場3 ケルネル田圃と駒場下商店街
 20170603 駒場2 農学校と旧前田利為邸
 20170603 渋谷から東大駒場まで
12:00
井の頭線の踏切をちょうど下北沢に向かって電車が通った。

12:01 左は駒場小学校
校庭がアスファルトである小学校を見たのはここが初めてだった。
緩やかな坂を下りる。

12:02
かつて、坂下に蕎麦屋の満留賀があった。2017年に歩いたときは左のビルに入っていたが、この6年のあいだに廃業されたようで、看板はなかった。学生時代は入った記憶はないが、就職して生化学会が駒場であったとき、昼食をとった。

12:02 駒場東大前駅 西口
蕎麦屋はなくなったが公衆便所は昔のままのところにある。