2022年4月15日金曜日

京都13 仁和寺、御室会館と朝の勤行

3月19日、2泊3日で京都に遊んだ。

初日、肌寒い中、同志社、御所、京大、吉田山、金戒光明寺を見た。(別ブログ)

ひとり歩き疲れた夕方、岡崎神社の前からバスに乗って丸太町通りを一直線で西に向かい30分、JR花園駅前で降りた。
雨は上がり五時半近く。

そこから花園、御室の緩い坂道をまっすぐ上って仁和寺についた。
山門(仁王門でなく二王門という)ではなく東の裏門から入る。
17:40
この日の宿は、ここの宿坊、御室会館である。

仁和寺は、18年前に泊まった2004年4月6日、日帰り会議の前に立ち寄った2017年5月17日についで3回目。

御室会館のロビーに入ると、前回と同じように作務衣に坊主頭(定義通り?)の高校生かと思わせるような若い修行僧がてきぱき、丁寧に応対してくださった。こちらも思わず背筋が伸び、言葉使いもきちんとなる。

18時の待ち合わせまでロビーで時間つぶし。
暇なので昔お世話になったことを話した。2004年の部屋は入口に流しがあって学校の宿直室みたいだった記憶がある。しかし京都は他の宿坊含めいろんなところに泊まっていて、感違いかもしれない。すると、若い彼はほかに客がいなかったこともあり、鍵をもって案内してくれた。
2022-03-19 17:47
そうそう、たぶんこの部屋。
段差がもっとあった気がしたので、ああいう記憶になってしまったのだろう。

ロビーに戻っていると守屋君たちが来た。
18:42 
夕飯は仁和寺二王門まん前、京料理・フレンチの「佐近」
19:16
コロナ下、御室住宅地の人通りのないところということもあり、客は誰もいなかった
デザートの出たのが20:03
御馳走を堪能して外に出ると小雨、宿はすぐそこなので傘は差さず。
21:26
守屋君たちの部屋は15畳くらいか。
信者や末寺(真言宗御室派寺院)の宿泊研修などに使うのだろうか。
3月20日。
朝の勤行は6時半から。
6時20分頃にはお座りください と言われていたので境内をゆっくり歩くつもりで6時に出た。寒かった。しかし勤行のお坊さんは薄着だろう。こちらがぬくぬくしていては申し訳ない気がしてこちらもコートを着ないで外に出た。
2022-03-20   6:05 中門
大内山仁和寺は真言宗御室派の総本山。本尊は阿弥陀如来。開基は宇多天皇。

もともと光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、彼は翌年崩御、その子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。延暦寺、寛永寺などともに元号寺である。

宇多天皇は譲位して出家したあと仁和寺伽藍の南西に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住み、仁和寺は「御室御所」とも称された。屋上屋のような言葉だが、御室が地名となってから御所が付いたのだろう。

その後、代々の別当(寺務を統括する長官)や住職は皇子や皇族が務め、門跡寺院の筆頭として知られる。

中門から二王門をみおろす。
2004年の早朝、坊さんが二人、向こうから歩いてきたことを思い出す。
すれ違う時会話の内容を聞くと応仁の乱の話だった。

6:06 中門
6:07 名勝御室桜
つぼみはまだ堅そう。
2004年4月6日は桜の間に緋毛氈を敷いた長椅子が並べられていた。
あれは有料の席だったのかな?
このあたりは地表の土の部分が浅いため樹高が大きくなれないと、そのとき聞いたが、もともと小さい品種なのではなかろうか?
桜もこれくらいなら良かったのに、と来月伐採される千駄木の桜を思った。

白くなっているのは苔だそうだ。
桜のためには取ったほうが良いのだが、手が回らず放置していると、勤行のあとで坊さんが教えてくれた。

6:12
6時7分には金堂前に立ったのだけれども誰もおらず、 遠くでお経の声がする。
 あれ?ひょっとして場所は金堂ではなかったのだろうか。心配になって確認に戻ろうとすると若い坊さんが一人来て正面階段の柵となっている竹の棒を外し「もう少し経ったら入れますのでお待ちください」と言われた。
西の声の方を見ると橙色の法衣を着た坊さん達が立ってお経をあげている。
いくつもの堂宇を順に回り、朝の挨拶をしているのだろうか。
6:15
そのうち金堂の扉が開いて我々が中に入れることになった。
6時半近くになるとどんどん入ってきて4家族13人となった。2004年の時は一人ものばかり4,5人だった気がする。

みんなオーバーを着て完全防備。気遣いはいらなかったか。
最後に入ってきた家族の長男は高校生だろうか。銀髪で、おしゃれなコートに手を突っ込み不貞腐れたように座った。いやなら来なければいいのに。
7,8人の僧が座りお経が始まった。
途中、小学生の子どもがトイレだろうか、突然走って出て行き、そのまま戻ってこなかった。

子どもでなくてもお経は退屈。
いつものように関係ないことを考えていた。
しかし「しんがたころなうぃるす~」とか「おむろかいかんにしゅくはくのぜんなんぜんにょの~」とか時事的な話題が読み込まれている部分もあった。

お経の唱和の中、我々も一人ずつ焼香する。
銀髪の高校生も焼香した。

終わって外に出る。
7:10
この勤行の魅力は、国宝の金堂に入れることである。ここは「冬の京都」キャンペーンなどで公開されることもあるが、普段は非公開。

かつては双ヶ岡の向こうまで寺域が広がり多くの堂塔が立っていたと言われる。しかし応仁の乱で全て灰燼に帰し、焼け残った本尊は双ヶ岡西麓の西方寺に移っていた。江戸時代3代将軍家光の時代にすべて再建されたから京都では新しい。それなのになぜ金堂が国宝か?

再建がちょうど御所の建て替えと重なったからである。 慶長年間、1613年に建立された御所の正殿・紫宸殿が寛永年間(1624年 - 1644年)に皇室と縁の深い仁和寺に下賜され、移築、金堂となった。宮殿から仏堂への変更に伴い、屋根を檜皮葺から瓦葺に変えるなどの改造が行われたものの、現存する最古の紫宸殿として近世の寝殿造遺構として重要で、国宝指定された。

宿でもらったパンフレットのタイトルは「世界遺産・旧御室御所 仁和寺」とある。
世界遺産「古都京都の文化財」は二条城と3つの神社、13の寺院で構成されている。

暖かい御室会館に戻る。

7:23
朝食は7:30から

7:28
日中はお食事処にもなる「梵」は畳の上にテーブルが並ぶ。
給仕してくれる人も丁寧。
2004年は湯豆腐とカレイ?の干物がメインだった気がする。

もう来ないと思うので館内の写真を撮った。
客室のある二階に上がるとロビーのような場所があるが、薄暗くて誰もおらず、看板などが端に置いてあり、普通のホテルとは違う。写真の右のほうに畳敷きの大広間があり、研修、会議などで使うのだろうか。
ここを通過して右奥に客室が並ぶ。

8:03
洗面所、トイレ、ふろは共同

8:54
布団をたたんだ部屋から花園駅方面を見る。
右は双ヶ岡。
2017年には雨中に泥の坂を上った。
吉田兼好が晩年過ごしたことでも知られる。

9:01
荷造り、チェックアウトしてから荷物を預かってもらい御所庭園の見学に出た。
この時期、伽藍入山は有料のようだ。

二王門入ってすぐ左(西)の御殿、御所庭園は800円、霊宝館500円、御室桜の時期は境内も500円。宿泊者は霊宝館以外無料のため、お得である。

御所庭園は2017年にたまたま来た時も無料で入れたから2回目。
800円だったら入らない。
ほんとは文化財保護のために寄付したほうがいいのだろうが。
二王門わきの小さな御所御殿受付所は檜皮葺

9:04
本坊表門から入るとすぐ、根がどこだろうと探すほど地を這う黒松。

靴を脱いで大玄関から上がる。
続く廊下に土産物が並ぶ。
文化財の保存にはお金がかかるだろう。

9:09
白書院の各部屋に奇抜なオブジェが。
これは何だろう? レンタルスペースで収益になるなら分かるが、ただ飾ったのなら良くないと思う。襖絵をはじめとする、御殿群の雰囲気を乱してしまっている。

宸殿南庭
御所だから右近の橘、左近の桜がある。
建物群の多くは明治時代に焼失、再建されたものらしい。
9:14 黒書院
これもいらないと思う。

9:17
渡り廊下で檜皮葺の構造がよく見える。海外では見られぬ日本独自の屋根だという。
ヒノキの皮は木を殺さぬようにはがすため、10年ほどで再びとれるようになるらしい。

飛鳥時代に瓦が渡来して、寺院の多くは瓦葺となり、檜皮葺きは付属施設のみとなった。
奈良、平安時代は公的建造物が瓦で、私的建物が檜皮となった。たとえば朝廷の公的な儀式の場である大極殿は瓦葺きで、天皇の私邸である紫宸殿や清涼殿は檜皮葺である。貴族の私邸である寝殿造も檜皮葺だった。

伝来当初は瓦葺がより格式の高い屋根であったが、平安時代以降は国風文化の影響もあり、檜皮葺が最も格式高くなった。平安中期以降は、公的儀式の場も瓦葺の大極殿から、檜皮葺の紫宸殿に移動している。もちろん今も職人不足から檜皮葺は普通の家にはない。

御殿群、庭園を見終わって大玄関から出ると、結婚式の前撮りか、新郎新婦と撮影スタッフが歩いていた。
京都は撮影スポットがいくらでもありそうだ。

仁和寺は2回も泊まり大分詳しくなって満足したが、もう来ることはないだろう。
御室会館に戻り荷物をピックアップして御室、花園の緩やかな坂を南に降り、妙心寺に向かった。
(つづく)

京都で3日間、写真をいっぱい取ったのだが、まだ1日分しか書いてない。早く書かないと忘れてしまう。まずい。

2022年4月8日金曜日

桜吹雪、植物の子孫を残そうとする執念


2022-04-05 10:45
桜の花びらが舞っている。
チューリップの花びらも落ちている。
花弁は植物が受粉の目的で進化させたものだから、役割を終えたら邪魔ものとして落ちる。
人間による品種改良は花弁の大きさ、色などに着目して、持続時間は延ばさなかった。もっとも、この短期間というのが桜の良さという人もいる。
12:34
花びらが輝き、箒で掃くのがもったいないくらい。
今、箒と掃くの部首をじっとみつめ、初めて気が付いた。
65年のあいだにめったに書かなかった文字だった。
箒は棒が突き出ていて、掃くは帰ると同じ。
箒と掃くを同じ部首にすればよかったのに。
ちなみに右側にくるのは旁(つくり)、下側は脚。
井伊直弼で知られる掃部頭(かもんのかみ)は掃除する役職だったのかな?

12:39
ひこばえが例年にも増して出てきた。
本体が切られるのを予測し、子孫を残そうとするかのように。

12:37
食べきれず抜いた白菜からトウがのびて花が咲いた。
本体の水分を振り絞って花、実にあげようとしているのか、実が何も考えずに他から水分、養分をかき集めているのか。

12:37
大根など捨てた葉っぱからトウがのびた。
生命力に驚く。

12:41
極めつけは切り干し大根
新しい緑の葉っぱが伸びてきた。
死んでいく根っこからわずかな水分を吸い取っている。

12:36
11月にまいたホウレンソウのうち日陰にあったのは全く成長しなかった。
他の株と比べると20分の1の三乗で1万分の1くらいの大きさしかない。
抜くのもかわいそうなので残して置いたら、一人前に種を残そうとトウがたってきた。
植物というのは種を残すということが個体として第一の存在意義ということがわかる。


2022年4月6日水曜日

京都12 金戒光明寺と会津墓地

3月19日、2泊3日で京都に来た。

初日、肌寒い中、同志社、御所をみて京都大学から吉田山を越えた。(別ブログ)
真如堂のすぐ南に金戒光明寺の北門がある。
はいると左の山側は墓地、右はフェンス。
2022‐03‐19 16:21
2006年12月は向こうから歩いてきた。
写真でいうと右側、つまり西側に京大医学部の解剖献体に対する慰霊塔があった。
16年後に探しても見つからない。
後で地図を見たら一本西の道だった。

16:23 本堂
光明寺を検索するといっぱい出てくる。
鎌倉にもあるし、モミジで有名なのは長岡京の光明寺。
ここは金戒光明寺と言わねばならない。
正式名は紫雲山金戒光明寺というから、寺号は4文字である。通称「くろ谷さん」
知恩院と並び浄土宗の七大本山の一つである。

何代目かは知らないが、熊谷直実が鎧を架けたという松。
直実は、熊谷を本拠とした平氏だったが、石橋山の戦いから源頼朝に臣従した御家人。
なぜここに来たかは知らない。

16:24
ここは吉田山同様、独立した丘で、市内が一望できる。
それなのになぜ黒谷というか?(住所は左京区黒谷町121番)
そもそも黒谷は比叡山の谷の名前だった。
そこにいた浄土宗開祖法然が下って、ここに草庵を結び、叡山のほうを元黒谷、こちらを新黒谷と呼んだのが始まりという。

2006年、わざわざここを目的に来たのは幕末、会津の本陣があったからである。
幕末の歴史小説には良く「黒谷」が出てくる。

谷だと思っていたが、来てみれば城塞のような小高い要害の地。

政情不安定な時代、幕府の信頼篤い松平容保が新たに作られた京都守護職に任ぜられた。
尊王攘夷の過激派と新選組が争い、テロリストと強盗が跋扈する京にあっては治安に優れ、また多くの塔頭、大きな庫裏は、藩主とともに上洛した会津藩士1000人も駐屯できたという。

16:31
会津墓地に行くため「はすいけ」に架かる極楽橋を渡る

三重塔の前から京都市街を見る。
2006年12月、西の山にも朝日が当たり、
トレーニングでここを駆け上がっている人がいた。

16:36
前回はシンポジウム会場に行く途中だった。
先を急いだため「黒谷」の地形を見ただけで会津墓地には行かなかったから、初めて足を向ける。

平日の雨で誰もいない中、前を男女がゆっくり歩いていた。

16:38 会津藩殉難者墓地

容保と藩士の本陣到着は1862年12月。1864年には配下の新選組による池田屋騒動、また禁門の変の勝利などによって京の治安は回復された。しかし犠牲も大きく、藩士、仲間小者の戦病死が続出。そこでこの地に300坪の墓地が整備され、葬られた。その数は6か年で237人。さらに1868年の鳥羽伏見で倒れた115霊も合祀された。

16:41
前を歩いていた男女は50代と30代くらい。夫婦ではない。
言葉使いからまだ付き合っていないようだが、お互い好意を持っている感じだった。
男は蘊蓄を垂れ、まるで私のようだった。
ずっと前を歩いていたのに、追いつかれ、私が去ってもまだ墓地にいた。
16:51
裏口のような南門からでて、16年前上がってきた道を下る。

16:53
細い坂道を下ると丸太町通り。角の岡崎神社は覚えている。

10時前から歩き始め、もう7時間、
(この日は朝から寝るまでにスマホが3万680歩、23㎞)
さすがに疲れたのか、今夜の宿舎、仁和寺に向かってバスに乗ると居眠りした。
(続く)


2022年4月4日月曜日

京都11 吉田神社さざれ石、真如堂

3月19日、2泊3日で京都に来た。

初日、肌寒い中、同志社、御所、京都大学をみた。(別ブログ)

2022-03-19
京大吉田キャンパスの東に吉田神社がある。
初めてきたのは2000年4月。

明治22年(1889)、まだ東大路通もないころ、第三高等中学校は農村の真ん中、吉田神社に隣接して作られた。だから京大本部構内、正門から東を見れば吉田神社はほぼ隣。
京大はキャンパスだけでも広大だが、薬学部のすぐ西は鴨川だし、本部構内のすぐ東は吉田山。すなわちこれらもキャンパスの一部になっている。
学生たちはデートする場所に事欠かないと思うが、彼らは町中のカフェなどに行くのだろう。実際吉田山にはほとんど人がいない。

15:58 本殿
世界的なイオンチャネル研究者である森泰生氏は、今は桂におられるが、学生時代を吉田山の東に住まわれ本部構内の工学部で学ばれた。ゴルゴ13と吉田神社がお好きで、ご自宅には今でも吉田神社のお札がある(たぶん)。

この小さな山は東山36峰の一つだが、独立峰であったから聖地にもなったし、平安京造営の基準にもなった。標高103メートル、神楽が岡とも呼ばれる。

神社は藤原山蔭が859年、平安京における一門の氏神として春日大社(奈良での一門の氏神)四座の神を勧請したのに始まる。鎌倉時代になると卜部氏が神官を務めるようになった。

卜部氏は、古代の祭祀貴族であるが、ここの神官家は鎌倉時代に吉田山にちなんで吉田姓となった。江戸時代の公家は、堂上家と地下家に分かれるが、吉田家の家格は公卿となれる堂上家(137家)の一番下の半家(特殊技術をもって朝廷に仕えた26家)の一つである。
つれづれ草の吉田兼好はこの家の出身だが、吉田姓になったのは彼の後なので、卜部兼好が正しい。
15:58 さざれ石
22年前初めてきたとき、最も印象に残ったものが境内のこれだった。

君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌となりて苔のむすまで

私が子供のころ、長野県は卒業式、入学式で「君が代」の代わりに「信濃の国」を歌っていた。のちに(1970年代?)学校での君が代が問題になったとき、新聞で都道府県別の歌っている比率が出ていた。面白いことに、ほぼゼロ%か、100%で、そのゼロというのが沖縄、京都、長野の3府県だった。
とはいえ、長野県の子供であっても君が代は音楽の時間?などにちゃんと歌っていて、私も何百回、何千回とうたってきた。

そのさざれ石である。先生は説明してくれたはずだが、ちゃんと聞いていなかった。
祖母は「さざれ」という葬式や婚礼の引き出物に入っている巨大な菓子が好きだった。小麦粉と砂糖を固め、色で蓮の花や鶴亀など絵が描いてあり、中には餡子が詰まっている。その外側の白い粉っぽいざらざらした感じが「さざれ石」のイメージだった。

吉田神社さざれ石の説明によれば、
第55代文徳天皇(827- 858)の皇子、惟喬親王に仕えた藤原定勝が近江に近い美濃の春日村君が畑と京都を往復するとき、渓流で珍しい石をみつけた。
この石をもとに彼の詠んだものが「君が代」で、元の歌は「君が代は」でなく「わが君は」で始まる。(以下は同じ)

石灰岩が少しずつ溶け、その液が周囲の小石を結合させて固め、それが大きくなって、さらに苔が生えるまでの悠久の時間を歌ったもの。

しかし悠久の時間がたてばまた崩壊して小石に戻ってしまうのではなかろうか。
なんて思いながら雨の中、山を越えた。
時間がなかったので三高寮歌の「紅もゆる」の歌碑は探さず。

16:03
社域から道路に出ると宗忠神社
看板には黒住教が併記されている。

黒住教というのは、いまの岡山市、今村宮の神官、黒住宗忠が江戸時代(1814年)に開いた教派神道で、神道十三派の一つ。天理教、金光教と共に幕末三大新宗教である。

宗忠の死後、安政3年に吉田家から宗忠大明神の神号を与えられ、文久2年、この地(神楽岡)に宗忠神社が創建された。明治9年、神道黒住派として神道事務局(全国の神道諸派を結集させた団体)から独立した。

黒住神社にするか宗忠教にすれば神社と宗派の名が一致するのに。
いや、分かれているからこそ、黒住宗忠の姓名を覚えられるか。

神楽が岡から東をみる。
京都は何でもないところが美しい。
2000年のときはここまで来なかったが、2006年は早朝、金戒光明寺の山を下りて、向こうからこの坂を上がってきた。

16:05 後一条天皇陵
吉田山の東麓にある。
第68代(在位1016~36)
母も后も藤原道長の娘である。

16:12 陽成天皇陵
第57代(在位:876- 884)
長命で没年は949年。上皇歴65年は歴代1位。

このあたり吉田山の裏、二つの小山に挟まれた谷に当たる。
静かな住宅地の中にこういう天皇陵がさりげなくある京都はすごい。

16:14 真如堂
正式には鈴聲山真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺。

真如ということばはいろんなところで出てくる。
東本願寺第17代法主や、戦後の在家仏教教団の名前でもある。真の如来という良い字面だが、本来は「あるがままであること」という意味で、真理を指すらしい。

2006年12月の早朝、今回と逆方向から、つまり金戒光明寺から京大に向かう途中、たまたま真如堂に出くわし立ち寄った。
三重塔の脇、寒中残っている紅葉に朝日が輝き、銀杏の黄色も鮮やかで、本格的なカメラで撮っている人が二、三人いた。
ずいぶん紅葉がいっぱいあったような気がしたのだが、葉っぱのない今は殺風景だった。

16:16
真如堂本堂

旅行、散歩は一人が楽だ。分単位でいろんなものが見える。
長いブログを6本書いてもまだ1日分が終わらないくらいだ。

もともとじっくり仏像や壷を見るより、あるいはグルメより、地形を感じながら町を歩くのが好きだ。吉田神社は上ったから10分くらいいたが、真如堂は2,3分しかいない。たぶんほとんどの人は強行軍に加え、慌ただしい見物で一緒に歩けないだろう。

(続く)