2018年7月14日土曜日

御茶ノ水2 明大博物館とボランチアの人々

7/12、用事が終わってお茶の水駅周辺をうろうろしていたら10時になったので明大博物館に行ってみた。
明治大学と言えば、かつては駿河台下交差点へ降りる途中の西側に、レンガ?の薄汚れたような校舎がいくつかあったのだが、すべてきれいな高層ビルになってしまった。
その一つ、駅に一番近いところのアカデミーコモンの地階にある。
拷問の器具がある、とどこかで読んだが、行くのは初めて。
2018-07-12
朝一番だから、ボランチアの方3人以外、誰もいなかった。

入ってすぐ目にするのは1881年(明治14)以来の大学史のコーナー。
創立者の岸本、宮城、矢代だろうか。
時間がなかったので寄らず割愛。

ところで、彼らはみな、明治政府の法律顧問として来日したG.E.ボアソナードの門下生だった。明大のほかに、法政大学、関西大学の創立者たちもボアソナードの教えを受けていて、ずっと兄弟のような関係にあり、昨年9月、この3大学は連携協力協定を結んだらしい。
その記念として、ボアソナードと教え子たち、という展示があった。
しかしこれも拝見せず。

次のコーナーは江戸以来の食器、道具などが展示されていた。

明大博物館は、それまであった商品、刑事、考古の3博物館が2004年に統合されたもので、展示もその3つのコーナーに分かれている。
江戸切子などをみたあと、「刑事」のコーナーに。

ここは捕り物、拷問、裁判、処刑など。
御用だ御用だ、という提灯や各種さすまた、
十手なども。

膝の上に載せた抱き石など拷問器具の展示、そのあとは処刑

箱から首を出して鋸で切る?

左は火あぶり、右は磔、

火あぶりは、放火犯に対して行った。
磔は十字じゃなくて、横棒が2本、それぞれに手と足を縛る。斜めの棒に見えるのは槍。

写真は撮らなかったがギロチン台は予想通り。

「ニュルンベルクの鉄の処女」は、少女の顔がついた鉄の鎧のようなもので、中に罪人を入れて閉じれば、中の釘が刺さるようになっている。しかし実際はこれで処刑することはなく、むしろ恐怖をおある拷問用具か、釘のないものもあることから閉じ込めて晒し者にする恥辱刑に使われたと考える説もある。

考古コーナーは土器や遺跡の展示。

そのまま帰ろうかと思ったが、一つ気になったことをボランチアの方に聞いてみた。

首だけ出して鋸で切る道具にあった米俵は何か、ということ。

それまでおしゃべりしていた御三方は、急に姿勢を正して丁寧に説明して下さった。
「単に、板が動かないように重りだったのではないかと思います。米ではなく石が入っていたのではないか。
それから、あの目の粗い鋸では簡単に切れず、また竹製であった時期もあり、見せしめの意味合いが強かった。通行人にご自由にお切りください、と示しても、実際切る人は居なかったでしょう」

それでは火あぶりの柱にかけてある籠のような竹は何でしょう?

「これは分からないんですが、そのまわりに枯れ草などを置いても火が回りやすいように、空気の通り道ではないか?」「いや、逃げないように籠にしたのでは?」「鈴ヶ森で出たのは鉄製だったから使いまわししたのかな」「吉宗の時代の公事方御定書では・・・」
など、4人で議論になった。
一人がご自分のカバンからファイルを出すと、国会図書館デジタルライブラリーからプリントした処刑場面の絵図だった。彼はいつも持ち歩いているのだろうか。

ボランチア学芸員になりませんか?と誘われる。
皆さん明大のOBですかと聞くと、45人中、明大出身は10人くらい。この日の3人も、最も雄弁だった方だけ明大だった。真ん中の方は、病気で神田川向うに通院しているとき、たまたま見学に来て応募されたとか。会話に英単語が混じっていた。もう一人の方は女性で、われわれの話を聞いて素人っぽい質問したりして、それぞれ専門があるのかもしれない。

彼らは私より5歳くらい上だろうか。
昔の御茶ノ水や神保町の話になった。やたらとあったジローなど喫茶店やレストラン、楽器店、ヴィクトリアのスキー、皆さん私より御茶ノ水に詳しい。一人は名曲喫茶が大好きだったようだ。

当時駿河台にあった日大、中央、明治の話になる。
明大は最近中野にキャンパスを開設したが、駿河台、和泉、生田とずっと変わっていない。私も生協食堂にはいったことがある中央大学は、私が3,4年生のころ八王子に移転した(1978)。このころは東京薬科大をはじめ多くが多摩など郊外に移った。

少子化で移転した多くの大学が苦しんでいる中、明治は受験者数日本一を誇る(実受験者数。延べだと近畿大)。入試1年分で数十億円が入るそうで、ビルが一つ建つ。商学部OBの彼に、我々3人が「移転しなくてよかったですね」というと
「いや、あの頃明治は単に引っ越すお金がなかっただけだよ」と仰った。

女性の方はどこそこのブランマンジェがおいしかった、などと話された。
皆(私を含めて)爺さん、婆さんになっても青春時代の御茶ノ水の思い出はあるのだ。


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