2018年10月7日日曜日

本駒込図書館、勤労福祉会館の思い出

1977年、本駒込5-37-4 二葉荘に9か月住んだときは、一人の時間が一番あったころで、近くにあった図書館にはお世話になった。
不忍通り沿いの ここは都電の車庫があったところ。
そのご車両を展示した公園、都営アパート、本駒込図書館、勤労福祉会館になった。今調べたら昭和49(1974)で、私が来る3年前である。できたばかりだったわけだ。
図書館入り口。

谷中に引っ越してから、ずっとご無沙汰していたが、1984年4月に本駒込のアイソトープ協会で1週間研修した時(→)、来たことがある。そのときJ.Pホーガンの「星を継ぐもの」を知る。

入ったロビーは雑誌コーナー

右手は当時も幼児コーナーがあったが、LPレコードが大量にあった。
1977年、陽水、かぐや姫、荒井由実などはなかったが、当時はまっていた、日本の唱歌、童謡全集といったレコードを借りて、家でダビングした。

77年当時は歴史ものは読まず、『自然界における左と右』とか、『偶然と必然』とか、科学哲学ものや恋愛小説を読んでいた。

家が近かったから閲覧コーナーはあまり使わなかった。

図書館と同じ建物に勤労者福祉会館がある。
ここには当時おしゃれなレストランが併設されていて、よくアパートにきた國枝卓氏と昼食に入ったことがある。
いま入口は不忍通りに面しているが、昔は公園側からも入られたような気がする。記憶は定かでない。職員の方に聞いたら、下の写真のエレベーターなどは新しく作ったところで、そのあたりに通路があったかもしれないがわかりません、とおっしゃった。

レストランはこの先の会議室の場所にあった。
中を見せてもらった。
何の変哲もない会議室だが、窓の大きさが、ガラス張りのレストランの記憶と一致する。

そういえば、中原美香さんとここで食事したかもしれない。
薬学の同級生だった山本一夫博士が駒込病院の都立臨床研にいて、彼女は山本のところで卒研をしたという。それで二人で彼を訪ねたとき、駒込駅から歩いて、ここで食事した気がする。あれは1986年5月末。
ここの二階には体育館がある。

1977年の秋、大学3年生のとき、図書館にでもあったポスターだろうか、ここで勤労青年のためのダンスパーティがあることを知る。
このころ私は戸田でボート部の合宿(1か月だか2か月)をしていた。しかし日曜だけ洗濯に本駒込のアパートに帰ることができた。

いまの社交ダンスは老人ばかりだが、昔は大学でもダンスパーティがあり、このパーティも若者限定だった。私は勤労青年じゃないけれども、女性に縁のなかったこともあり、こっそりとドキドキしながら顔を出した。

この日、私はジルバしか踊れなかった。それでも可愛らしい一人の女性の電話番号を聞くのに成功した。当時アパートには電話がなかったから、神明公園の公衆電話から電話したのだろう。

彼女は真川啓子さんといい、一つ年上。渋谷区広尾の裕福そうな実家に住んでいらして、もう短大を出て働いていた。
初めてのデートは寒くなったころ原宿表参道を歩いた。夕食時だったが、知っている店などなく、彼女にリードされて地下のおしゃれな店に入った。慣れないところで何を食べようか迷っているとき、彼女はアップルパイを注文したので意表を突かれた。私は何にしたか記憶にない。
年賀状をもらい、
二回目は本駒込から谷中に引っ越した後、冬の不忍池を歩いた。しかし話が弾まず、それが最後になってしまった。
あのダンスパーティがあった体育館をのぞいてみた。
1977年を思い出すものは何もなかった。
・・・・
8年ほど前、息子は、1977年の私と同じ大学3年のとき、軟派?なバドミントン同好会で、まさにこの体育館を活動拠点の一つにしていた。
彼は私の33才のときの子供だから私の33年後に似たような経験をしていく。
私のダンスパーティから33年後の同じ体育館で、彼はバドミントンの練習をし、そこで出会った女性とこの8月に入籍した。挙式は来年らしい。

いまの家から550メートル、歩いて7分のところにこういう懐かしい思い出がある。


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