2018年10月29日月曜日

長岡3五十六胸像、米百俵、アオーレ

17時、山本五十六記念館を出て
すぐ南の記念公園に。
ここは高野家のあったところ。高野家は代々儒学者の家系。
暗くなっていてよく取れず。

胸像はもと霞ヶ浦航空隊に立像としてあったが、終戦後すぐ胸部で分断し、霞ケ浦に沈められた。その後引き上げられ、昭和33年、公園ができたときブロンズに鋳なおされ設置された。元はコンクリート製で、こちらは江田島の教育参考館にあるという。

五十六生家
戦災で焼失、戦後復元したらしい。

すっかり暗くなるが、地図で見ると米百俵の碑が近くにあるらしい。
近くに行っても、それらしきものなし。
発見。
俵が積んであるモニュメントかと思ったら違った。
その米を売った金で作った国漢学校跡地の碑。

もし100俵を三角形に積んだら底辺は俵何個か?
答え (-1+√801)/2=13.6 (14)
62歳でも辛うじてできた。
後ろに倒れて積めない、と答えるのは好きでない。

小林虎三郎は、象山門下にあって吉田松陰(寅次郎)と並び二虎と称されたほどの秀才であったが、藩主は継之助のほうを重用した。
北越戦争では、藩主牧野忠訓に従って東北に避難したから死なずに済んだ。藩主が藩知事になると、主席家老稲垣平助らを飛び越え、三島億二郎らとともに、家老職に匹敵する大参事になった。

米は三根山藩から送られた。
皆飢えていたが、藩士1200戸で割れば1軒2升にすぎない。虎三郎は、皆に我慢させ売った金で校舎を整え、明治3年6月開校。

駅に戻る。
長岡と言えば花火か。
へー、こんな頑丈なものから出るんだ。
ま、大砲の砲弾みたいなもんだからな。

ついに見つけた。本丸跡。
ほんとに駅前ロータリーの真ん中。

長岡というのは大都市でありながら豪雪地帯。
駅前の空中デッキがすっぽり透明な壁と屋根で守られ、チューブのようなものが四方に伸びている。

雨風に会わないまま、アオーレ長岡というところにいける。

広く大手通りに開いたオープンスペースでありながら、雪国に便利な屋根付きのイベント広場。
巨大。
中でもなく外でもない。
ナカドマというらしいが、土間はもともと中だから、正しくはソトドマというべきではないか? 
下に降りたら二の丸跡

なんか卒塔婆みたいなものに長岡の歴史が書いて貼ってある。
まだ何も書いていない板がいっぱいある。
市民の俳句コンクールとか七夕のお願いにも使えそう。
木が多いが、隈研吾とは少し違う。
と思って調べたら、これも彼だった。
広い階上のスペースにはテーブルがあちこちあり、帰宅途中の高校生がたむろしたり、勉強したりしていた。

ここには市役所も併設されていて、駅直結でこういうものがあるとは、長岡はいいものを持っている。
市役所の守衛さんが連絡通路との境にいらしたので聞くと、出来たばかりで(2012年)、もとは体育館とただの空き地だったという。

こんな立派なものが作れたのは、民有地でなかった城跡が戊辰戦争と空襲で二度にわたり更地になったという長岡の負の歴史のおかげであろうか。

いや、人口27万人、さいたま市の4分の1ながら、大学3つ、県立近代美術館、県立歴史博物館もある。士族、町民を含め、幕末以来の意識の高さと不屈の根性であろう。

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