2018年10月16日火曜日

東大球場、根津、汐見小学校

10月14日の散策はまだ続く。
宅地の中にひっそりあった日本医大国際会館をあとにして、西の通り(日医大前から東大農学部へ行く道)に出ると、やはり住宅地の中に飛び地のように文京学院大学文京幼稚園、同学生交流会館があった。

写真正面にみえる建物が、文京学院大学の本部だが、あれは本郷通りの向こうである。
かつては本郷通り西側だけの短大であったが(文京女子短大)、1991年に文京女子大となり発展拡大していった。今や短大はない。

通りを南の東大の方へ行かず、左(東)に曲がる。
鴎外「青年」の道、と観光案内板がある。
日本聖公会 東京聖テモテ教会
木造だったイメージがあるが、記憶違いか。

柿と教会の組み合わせが面白い。

弥生町も建て替えで古い家がなくなってきた。

渋谷鉦吉氏邸宅(裏門)

渋谷家正門

渋谷家の向かい側は東大。昔はこんな門がなかった。
左の青いのは東大球場(と言っても野球部の練習場)、右は地震研のはず。
奥(正面)の新しいのが地震研1号館で、右の古いのが2号館と書いてあった。1号館を建て替えたのだろうか。

入ってすぐ右、野蚕飼料樹圃場と看板あり

桑の木でもあるのかと思って上がってみるも桑はなかった。
どれかが飼料樹かと思ったが、雑草と区別付かず。

地震研1号館の壁とテニスコート金網の狭い間(つまり犬走り)を通る。
どうみても侵入者のようである。(事実そうだが)
昔はもっとテニスコートが広く、現地震研1号館の場所まであったような気もするが、きのせいか。

テニスコートの南の農学部グランドは人工芝になっていた。
向こうは応用微生物研究所だったが今は名称変更、分子細胞生物学研究所という。

薬学部は非常に野球が盛んで、春、秋の教室対抗(20チームくらい出る)のほかに、親善試合や研究室の練習もあった。御殿下のグランドだけでは間に合わず、南の端からはるばる1kmくらい、ここまでよく歩いて来た。

ここで4試合同時にすることはなかったと思うが、四隅のどこでもホームベースにした記憶があるのは不思議。ふつうはレフトが長くなる2隅がホームベースになる。

農学部グランドの東の土手の下は硬式野球部の練習場だった。
当時ここに来るときは平日の授業のある時で、野球部は練習していなかったから見たこともなかったのだが、今日は日曜、大勢で練習していた。
人工芝になっている。
皆体格もよく、上手い。
当時は奥まで見なかったせいか、この観覧席は初めてみた。
それで最近できたものかと思ったらとんでもない。
なんと1937年、安田講堂設計の内田祥三の手によるもので、国の登録有形文化財という。(→)  

内田は東大総長として有名だが、1923年の震災後、建築学科教授で営繕課長も兼務し、キャンパス復興を指導した。多くの校舎を設計しているが、この球場もその一つのようだ。張り出した鉄筋コンクリートのアーチで屋根を支えている。

通りに戻る。
東大球状の向かい側は工事中。昔は板張りのいい感じの住宅が並んでいたような気がするのだが、忘れてしまった。

新坂
S字坂ともいう。
江戸切絵図では左(北)は根津神社、右は小笠原信濃守下屋敷。道はなかった。

Sではなく、鏡文字のS。
鴎外の「青年」から名づけられた。

根津神社鳥居を過ぎて、南の住宅街に入っていく。
崖下であってもこれだけ広ければ日当たり十分、むしろ斜面は作庭に都合よい。
崖上は東大球場、レフト線のポールあたり。

崖下を南に行くとお化け階段。
途中まで登坂車線あり。

階段上は弥生町の静かな住宅街。
車も人も来ないから若い父親が安楽椅子にすわり娘を遊ばせていた。
そっと引き返した。

根津教会。
向うの民家と縦線が平行でなく、どちらかが傾いている。
聖テモテ教会より経済的に苦しそうだった。

日本医大大学院の東の路地を入っていくと、奥の駐車場のようなところで日医大野球部の人たちが素振りをしていた。

その東に素敵な建物があった。
金光教本郷教会所
創価学会もこういう建物にすればいいのに。

根津神社に戻る。
予想通り外国人が多い。
1978年ころはほとんど人がいなかった。
由来記などは他の方のブログに譲る。

つつじがなくても、緑の塊が並ぶと景色になる。

奉納者は柱の裏に書いてある。

水を飲んだ。裏に
戦利砲弾奉納
 陸軍々醫監森林太郎
 陸軍少将中村愛三
明治三十九年九月十日建之

これはどう見ても砲弾ではない。
この上に乗っかっていたのだろうか。

ザリガニをつる子どもたちを外国人観光客が珍しそうに見る。
餌は、おつまみの裂きイカ、封切ったばかりの袋に濡れた手を突っ込んでいた。
私なんかお勝手の煮干しかご飯粒だったから、コンビニから買ってそのまま使うなんてもったいなく思ってしまう。

石柱に刻まれた奉納者の名を少し読んだが知っている人は居なかった。
地元でないから当然と言えば当然だが。


裏門から出る

家に帰ろうと、藪下通りと不忍通りの間の道を北へ。

汐見小学校の手前(南)の三井不動産のマンションは、秋さんという地元有力者の邸宅だったらしい。大正2年に建てられた洋館と区の保護樹林を惜しむ声と、反対運動が始まったという記事が谷根千1985年12月号にある。
汐見小学校と第八中学校

汐見小学校は根津、千駄木に人口が増えた昭和2年に開校した。
学区は、駒込千駄木町・駒込坂下町・駒込林町の一部で、千駄木・根津・駒本3小学校の一部の児童が移籍、尋常科1224名、高等科116名でスタートした。

千駄木小は大正7年に1300名を超え、富士前小学校を借りて授業をするほどであったが、大正10年には1600名近くにも増えた。汐見小ができて492名が移籍した。

コの字型鉄筋コンクリート造り4階建て講堂付き、スチーム暖房の校舎は、当時としては東京でも屈指の最新式校舎で、他県からの見学も多かった。goo地図の航空写真でよくわかる。

当初、汐見小の敷地は根津裏門坂の専修商業学校の敷地を予定していたが狭かった。町内で困っていたところ、白井遠平氏が町のためならば、と1800坪の屋敷を破格の値段で譲ってくれたという。

今白井遠平を調べると、何と千駄木小学校の校地も明治41年、彼から購入したようだ。前島密とともに日清生命保険株式会社の設立発起人の一人に名を連ね、明治39年の住所は本郷区駒込東片町百五拾七番地。

八中の東、広い家。

一本だけ残る木
空き家になって木が繁ると近所迷惑だからすべて切ったのだろう。

八中の裏から藪下通りに上がる階段は、しろへび坂といったらしい。

新制中学は、そもそもすべて戦後できたものだから八中も新しい。
昭和22年に汐見小学校内に開校し、35年に北隣の今の場所に移ったようだ。
このくらい近い昔だと、できる前は何であったかご存知の方も多いかと思い、たまたま通られた年配の方に聞いた。

新田さんの屋敷だったなぁ、壊すとき土壁の中に金属の筋があって、友達と拾って売っちゃったよ。悪い奴だったね~
と仰る。

興味深い話を伺ったのに、うろ覚えの記憶を整理すると矛盾点がいっぱい。きちんとメモするべきであった。

彼はここの坂(階段)の名前を知らなかった。
お化け階段もそうだが、しろべびなんて、いかにも近所の子供がつけたような名前で、これは地図には載らないだろう。

雨がぱらぱらしたから急いで帰ると誰もいなかった。
妻は池袋に買い物に行ったらしい。
一人で昼ご飯を食べた。


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