2018年10月21日日曜日

谷アパート~谷中荘、蛇の目寿司、真島湯あと

10月21日の散策は続く。
これから1978年1月から1981年3月末まで住んだアパートに行く。
住所は谷中2-5-11と今でも覚えている。谷中真島町の一角。
左はへび道入口、右の細い道を行く。
蛇道の西は千駄木、東は谷中

2011年に千駄木の家を仮契約、翌年本契約、リフォーム前に見に来ていたころ、このアパートまで足を延ばした。そのときの写真があるので合わせて載せる。
2012-10-15
右の細い道のすぐ奥に、アパートの隣の大家さんの家がかすかに見える。

アパートは建て替えたのでセットバックし、ここだけ広くなっている。
その前は自転車のすれ違いすら難しい道だった。

3階建てになっていた。

昔は1階に2室、2階に2室。
4畳半と3畳、押し入れ、あと玄関、台所、トイレで1畳半、28,000円。
大家さんは壁の向こうに住む(玄関は別)まだ若い女性だったが、3年間で2,3回しか会わなかった。
この細い道をなおも奥へ行くと、


へび道から来る(ちゃんとした)道へ出たところに、コインランドリーがあった。
乾燥機のまわっている、あの匂いを覚えている。

コインランドリーの道は短くて、すぐに広い道に出る。
まっすぐ行くと三崎坂下にでて、岡倉天心記念公園を経て夕焼け段々、
電車に乗るときはこの道を日暮里駅まで歩いた。

この道の東に並行する道があって
昔のまま

この崖のうえは美作勝山藩の屋敷、明治以後は日本橋の豪商、明石屋の9代目、実業家、渡辺治右衛門の別邸。
石垣はいつのものだろう。

この崖の前に薬学の同級生中尾裕史氏が住んでいた。

奇跡のように残っている。
彼は二階の端だった。

彼の部屋で徹マンだったか、何人か集まったことがある。
中尾は料理が得意で何かをつくったのだが、ご飯が足りないというので、うちでも炊いて、この暗い崖下の道を、お釜を手に急いだ。

そうか、谷中荘といったのか。

見上げると二階の入り口の戸が開いている。
そっと上がって覗いてみた。
そうそう、手前の部屋。

彼の引っ越しの時は、薬物代謝の研究室の人たちが手伝いに来た。
薬学会の前会頭、広島の太田茂先生は当時博士課程にいらした。休憩の時、窓辺に座った彼の後ろに石垣の崖が見えた。

中尾にもらったご飯の茶碗は、お茶漬け用の大きいもので、お代わりしなくてもいいのでとても便利、いつまでたっても割れず、実は結婚しても、何十年たっても、今も使っている。

柿の木!
アスファルトの割れ目に生えるド根性大根というのがあるが、この柿はもっとすごいのではないか。
だれかが捨てた種が、ほこりのたまったわずかな土に発芽し、割れ目に根をねじ込んだ。

食べごろである。
誰も食べないのかな?
お金がなくて、柿しか食べられない夢見る若者がいればいいな。
しかしその場合、柿がすべて食べられ、この景色は見られない。

中尾のアパート、私のアパートを経てへび道入口に戻る。


2012年に来た時、この駐車場の場所に昔のままの蛇の目寿司があった。

2012-10-15
蛇の目寿司はいつなくなったのだろう。
アパートから数十メートル、毎日2回前を通ったが一度も入らなかった。

横の白鶴・中華料理・来楽は、2012年すでに閉店している。1980年ころはあまりきれいな食堂ではなかったが、盛んに換気扇から臭いの熱気を出していた。1回くらい入ったかもしれない。
写真で分かるように、来楽の横の路地がごみ置き場で、あるときマンガ本が大量に出ていて、そっくり部屋に持ち帰った。

このあたりに真島湯があった。
家から数十メートル。いろんなシーンを思い出す。
なくなる前に来たかった。

へび道のほうをふりかえる。
真島湯は右手。
このあたり藍染川はまっすぐ。

右が谷中真島町、左は千駄木ではなくもう根津(藍染町)である。


0 件のコメント:

コメントを投稿