2018年10月10日水曜日

林町1 島薗、須藤、安田

千駄木には密集地と高級住宅地とがある。
立派な家は、団子坂上から動坂上まで続く保健所通りの両側と、須藤公園の北側あたりに多い。

しかしどんどん景色が変わっていくので、ここらで邸宅の写真を撮っておく。

ちょうどこの日(10月8日)、動坂から、ムジナ、キツネ、タヌキ、大給、アトリエ、団子、と坂道を上り下りし北から南へ撮って歩いた。
それで、最後の団子坂上から反転し、今度は尾根道の保健所通りを家を見ながら北上する。
この道は、根津裏門坂から団子坂までの藪下道からそのまま北へ続く、江戸時代からの古道である。
出発点の団子坂の角は、坂道のところでも書いたように東洋大学国際会館。
私の学生のころは宮城県の宿泊所、萩風荘だったはずである。
それ以前にあった岡本銀行頭取の屋敷を見たかったな~。

東洋大学の並びは本郷図書館。
昔は大観音通りの南、今の鴎外記念館のところにあった。
保健所通りは電柱もなくすっきりしている。
一方通行で、ところどころ道幅をわざと狭くしたりして、車もスピード出せないから静かな住宅街になっている。

本郷の東大や上野の芸大に近く、後背住宅地として林や畑が開かれ、文化人が多く住んだ。

歩き始めてすぐ目につく洋館は島薗邸。

かつて東大医学部付属図書館の入り口を入ってすぐ左に部屋があり、そこを島薗文庫といった。大きな机がいくつかあって、自由に勉強したり閲覧したりする部屋だったが人はほとんどいなかった。ひとり女子学生が便せんに手紙をかいていたことを覚えている。
壁の書架にあった古い書物が島薗家から寄付されたものだったのだろう。

島薗順次郎(1877 - 1937)は、脚気とビタミンの研究で知られる。1924年内科教授、33年付属病院長。
長男・順雄は52年医学部教授、64年医学部長、
次男・平雄は元宮崎大学教授。
三男・安雄は元国立武蔵療養所長
安雄の長男・島薗進氏は理三に入られたが、転学し宗教学者。

順次郎氏は千駄木町(今の1丁目)に家を建てたが、結婚した長男順雄(のりお)氏のために昭和7年、この家を建てたという。

谷根千61号に島薗久子さんの談話がある。
それによれば、昭和12年に順次郎氏がなくなってから、長男・順雄氏夫妻が親代わりとなり、二階を増築して独身だった平雄氏、安雄氏を住まわせた。
久子氏は田宮猛雄の娘、昭和20年に安雄氏と結婚してこの家に嫁いでくる。当時長兄は軍医で千葉、次兄は兵隊に行っていた。その後、久子氏は昭和28年まで住み、金沢へ行ったが、子供たちは、子のいない長兄夫婦の世話になり、この家から大学に行ったという。

奥は和風建築になっているのが外からもわかる。
登録有形文化財で、住居としては使われていない。たまに音楽会やら茶道、華道の会が行われているようで、和服姿のご婦人が入られるのを目にする。第1・第3土曜に公開され、入館料300円。

島薗家の墓は谷中墓地。

島薗邸を出てすぐ、須藤邸がある。実業家といわれるがよく知らない。

須藤邸の石造りの土蔵

須藤邸の北隣、内藤邸も立派

保健所通りを少し戻って、須藤邸の角を東に入る。
 
須藤邸正門
 
さらに東隣の現代的な家も表札は須藤。
明治時代は、今の3丁目の児玉邸などもある邸宅街一帯、さらには保健所通りの西(千駄木の郷)まで須藤家の地所で8000坪もあった。大正時代に分譲され、きれいな住宅地になっている。

その隣は山脇邸。睡庵、とある。

この四つ角をさらに東へ行くと須藤公園の上に出る。

須藤公園のすぐ手前、道の南側。
その向かい、道の北側、角には素敵な家がある。
千駄木の誇りでもある。

この公園、以前はもっと鬱蒼としていた。
昭和8年に須藤家の庭の一部、1462坪が東京市に寄付され、昭和25年に文京区に移管された。

睡庵、山脇邸の角まで戻り、北上。
右側、石の門柱の家。
ちょうど、わきの小さな門から喪服の美しい方が出てこられた。

突き当りを左(西)へ

日本画家、児玉希望邸跡
「禁葷酒」と彫った石柱が目立つ。
今もご子孫が住まわれているらしいが、昔の写真を見れば、大きな門の奥に大木が何本もある広い屋敷だった。例の石柱も門のわきに写っていた。家々の新しさを見れば、大邸宅はそんなに遠い昔ではない。

児玉邸の向かい、道の北側

この道をまっすぐ西へ行くと安田邸の前で保健所通りに戻る。

保健所通りとの角は、少し前まで純和風のお屋敷だったが、やはり相続問題だろうか。
三階建てのマンションになり、ご子孫も住まわれている。
日清戦争時の連合艦隊司令長官、元帥海軍大将と似たお名前で、ご縁者だろうか。
今回調べたが分からず、代わりに日向飫肥藩の歴代藩主がやはり似たお名前と分かった。

旧安田楠雄邸は工事中。
まだ入ったことはない。

保健所通りを少し南に戻ると、安田邸の南は保健センター。
通りの名前はここからとられた。
かつては須藤家の土地だった。
保健センターの南は特養ホーム「千駄木の郷」
1977年、本駒込に住んでいたころ、ここに北海道会館があった。

家などに全く興味がなかった年ごろでも、立派な家が多いと思いながら自転車で通学していた。
北海道会館の前は川崎銀行頭取の屋敷。見事な洋館だったため、GHQに接収されてしまった。
安田、岡本、川崎と、保健所通りを頭取通りだったか銀行通りだったか、そう呼ばれたゆえんである。

さらに保健所通りの北上を続ける。(→林町2)


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