2018年10月21日日曜日

道灌山通り~よみせ通り、へび道

10月21日晴れ、
10/6(本郷通り、駒込神明町) 10/8(千駄木林町) 10/14(千駄木町、根津)に引き続き近所の撮影に。
いつでも行けると思っているうちに建物がどんどん消えることが分かったから。
毎回1~2時間だからもっと早く行くべきだった。

今日は狐坂から不忍通りに降りる。
道灌山下交差点
不忍通りは両側に高層マンションが迫り、ザイオンの谷底のようである
(行ったことないけど)

通りを渡り振り向く。
マンションビルの1階に天米とレアルが開店準備をしている。

天米はかつては坂上の文化人に愛され、かき揚げ丼が絶品と言われたが、何十年もたち、たぶん代も2回か3回変わっているだろう。一度入ったが、ハゼのあげ方が不十分、かつ内臓が苦く、大根おろしが古かった。こんなにいい場所なのにほとんど客は入らず、惜しい。

レアルは本場の(従業員も客も)カレー屋。
安いので何回か入った。そのたびに食べきれないナンを包んで家に持ち帰る。

不忍通りを挟んで天米、レアルの向かいにはラーメン一徳、
隣はこれも本場の(創作中華)田園。入ったことはない。
いっとく、田園の裏のマンション、モニュメントみたい。
地震で倒れないだろうか。
(この写真だけ別の日に撮影)

道灌山通りは昔から広かったようだ。
八犬伝の手前の焼き肉屋は、名前が変わった。

西日暮里方面を見る。
この交差点の向こうは台東区、すぐ(数十メートルで)荒川区になる。

正面のマンションは数年前にできたザ・パークハウス谷中道灌山レジデンス。
確かに住所は谷中の北の端で、道灌山通りにも面しているが、なにか名前に無理がある。
寺町も道灌山も遠い。

そのマンションのあたり、あるいはその並びくらいに5年ほど前まで花屋さんがあった。
若いお兄さんが一人でやっていて、店だけでなく、ガードレールにも棚を置いてそこに鉢をならべ、夜になると仕舞わずに、よしずをかぶせてひもを縛っただけだった。
彼は古くなった苗を「ご自由にどうぞ」と路上に並べ、私はナスやキウリをすでに植えたあとだったが、もらった。

いま、写真に見える残った二階建ての家はほとんど閉店、無人となり
「あなたと豊かな街づくり フジタ」
の看板が貼ってある。最後の人が立ち退いたらマンションになるのだろう。
消えかかっている看板の字をなんとか読めば、
靴クリーム・久保田商店、惣菜屋・あき、おにぎりお茶漬け・くに、などである。

よみせ通り入り口
右角は、大島ラーメンだったが、2,3年前に節骨麺たいぞうになった。両方とも入ったことない。

このあたりラーメン激戦区で、いっとくの他に、つけ麺TETSU本店、麺屋義もある。
そういえば、最近、中華田園の隣あたりにあった南仏レストラン西菜亭もラーメン屋になってしまった。従業員は中国人。客も外国人が多そう。しかしなんでこんなにラーメン屋ばかりになるのだろう。麺や義だって、5年前はハンバーグが売り物の洋食屋だった。

よみせ通りを南下、ひょいと右を向くと
すずらん通りを覗くと、随分見晴らし良くなった。不忍通りの角が更地になったようだ。またマンションか。

すずらん通り、西から東をみる。
不思議である。なんでこんなに飲み屋が集中しているのだ?
駅から離れているし、神社仏閣の門前でもないし。

このあたり、隣の並行する通りはこんな感じなのだ。
すずらん通りとは何か?
たぶん、戦時中の建物疎開か、空襲で空き地になったところにバラックで飲食店ができ、そのまま飲み屋街になってしまったのではなかろうか。自分の土地ではないから、売買もできないし建て替えも難しく、この雰囲気になったのでは? なんて想像して南へ進む。

今日は根津千駄木下町祭りで、餅つきイベントのところに行列。
このよみせ通りを境に西は千駄木、東は谷中である。
では通りの東側は何もしないのかというと、幟がちゃっかり立っていて、とくに境ははっきりしていなかった。

左手に谷中銀座の出口(入り口)

混雑しているのでこれ以上行かない。
行列は和栗や。
開店11:00、店の人が注文とっていた。
今10:30 

1978年から81年、当時は観光地でなく、普通の商店街だった。
お茶屋さんが緋毛氈の長椅子を出して、ほうじ茶のにおいを覚えている。
谷中に3年3か月住んだが、よみせ通りは学校に行くにも駅に行くにも外れていた。
ただ、荒川区町屋で1年くらい家庭教師のアルバイトをしたことがあり、道灌山通りに出るのにここを自転車で通った。
右側の山陽食品みたいな店ばかりだった。

春木屋は閉まっているが、昔ながらの食堂だった。
2011年にきたとき、たまたま入った。すでに観光地化しているよみせ通りにおいて、ほとんど客はおらず、年取った方のつくるラーメンはあまりうまくはなかったが、ミカンを1つ、サービスでいただいた。

10円饅頭のとなりにマルエツプチができている。
マイバスケットもできた。
谷中銀座もよみせ通りも、地元の人が買うものなかったからね。

マルエツの場所にノコギリ屋根の工場(旭プロセス製版)があったというが、記憶にない。
保存運動もあったが解体されたのは2013年9月20日、千駄木に引っ越してきたあとだから、見に来れば40年前を思い出したかもしれない。その後、駐車場をへてマンションになった。

指人形笑吉の前に吉里
5月に息子が結婚するというので相手の方のご家族とここで食事した。
しかし息子らは引っ越して籍を入れても結婚式をしないので、嫁さん含めてお会いしたのはそれっきりである。こんなんでいいんだろうか。

よみせ通りの終わりは団子坂下から来る道。
左は三崎坂、右はへび道入口。
坂に上がる手前の青い庇は朝日湯。
近くの風呂屋が休みの時はここまで来た。

以前来た時の写真があるので載せておく。
2012-10-15

そうそう、よみせ通りは染谷霊園の裏あたりを水源とする谷田川のあとである。
すなわち、商店街になった霜降り銀座、田端銀座から続く道(川)。

川であるから団子坂と三崎坂の間のここには橋があり、枇杷橋といったらしい。
枇杷橋から下流は、川が文字通り蛇行する。
 
へび道に入る。

鴎外や漱石のいたころは、「青年」の純一が歩き、「三四郎」が美祢子を誘ったように、暗渠ではなく川が流れていた。川沿いの家は6尺くらいの厚板を二枚渡して、その上を渡って家に入ったらしい。

ここから上流の田端方面は田んぼや畑が広がっていたようで、シジミも小魚も取れたが、上流に家が建て込むとドブ川と化し、大正の震災後から徐々に暗渠化された。
標高差のないところに水を流すと、下に向かう力がないから、ちょっとした障害で流れは曲がり、蛇行する。

ここらは昔と変わらない。
このあたり谷田川ではなく、藍染川といったらしい。

何回曲がったか数えなかったが、15回くらいらしい。

渡辺真知子の「迷い道」を聞くとここを思い出した。歌詞に「曲がり道くねくね~」とあるからか。1977年11月リリース、その翌月、本駒込のアパートを出て、歌が最も流行っている時にへび道のそばのアパートに引っ越した。

へび道終わってまっすぐになるところに、今おしゃれなカバン屋さんがある。
そこを右に入った路地に、40年前、「切手買います」という看板を出した「普通の家」があった。
中学生のころ集めた切手、ストックブック1冊を試しにもっていったら、おじいさんが出てきて、パラパラ見て、「全部で1000円なら買ってもいい」といった。通信販売などでもっと大金をかけて集めたものだったが、「はい、いいです」と売ってしまった。

彼が「これが一番いい」と行ったのは、私が家の土蔵で見つけた古い封書からはがしたものだった。満州から出した軍の切手で、記念切手や国宝シリーズとか鳥シリーズなど大事にしていた美しい切手ではなかった。

蛇道に戻って振り返ると
左が蛇道の出口、右の細道が私のアパートへの道


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