毎年数回は池袋北口に来る。
6月5日、駅改札から地上に出ると中国人ばかり。
昔テレホンカードや中文新聞を配っていた中国の人々は今いない。
日本社会に溶け込んだのだろうか。
2019-06-05
この中国書店は2013年8月、K山さんと初めて入った。
売り場面積のわりに本が少ないため、平らに陳列されていた。
壁に向かうカウンターで黙々食べる客。
従業員も客も全員中国。
陽光城ができたころは、まだ中国人が少なかった。
彼ら専用の書店、飲食店などはなく、せいぜい同朋相手に食材を売る店がわずかにあるだけだった。
ここがその一軒。
本場中国の品物が珍しく、足を止めて見入ったことがある。
ダンスパブメモリーや豊島ダンス愛好会、城北馬場に行っていたころだから2002年から2005年ころかな、15年以上前か。
縛られたまま泡を吹いている上海ガニや、春節のころの豚の頭など、初めてみたものを話題にした記憶がある。
しかしこんなに急に移民国家になっていいのだろうか。
経済界は彼らを労働力として原料や工作機械のように金儲けのコマとしてみている。
しかし相手は人間である。
不景気になって解雇されたら、言葉ができない人間の再就職は難しい。
失業保険、生活保護の受給者が大量発生するだろう。
家族の帯同もOKになった。
途中で来た子供は言葉の問題もあるし習慣が違えば差別されるだろう。
差別は良くないというきれいごとは意味がない。
古今東西見て差別はなくならない。必ずある。
おそらく移民になれていない日本は、一番その感情が強いことを前提に考えねばならない。
呼び寄せる親たちの医療費など福祉費用はどこから出すのだろう?
人手不足として呼んだ企業、商店はすべて責任取るつもりはあるか。
政府はどこまで考えているのか?
単純労働で入った人々も頑張って市民として存在感を増していくだろう。
彼らの道徳、行動規範は日本人と違う。
眉をひそめる日本人もいるだろうが、習慣だからこちらが良くてあちらが悪いというものでもない。
また、旧弊から見たら行儀の悪いことであっても、若者を中心に日本人自身の行動も変わっていくかもしれない。
移民受け入れは、社会を変えることを意味する。
こんな重要な問題なのに、議論すべき国会では何もなかった。
与党の強行採決も問題だが、まともに問題提起をしなかった野党はもっとひどい。これでは国会議員は不要ではないか?
・・・・・・
この通りはみずき通りというらしい。
陽光城の西は道を挟んで吉野家。
普段は入らないが株主優待券で何回か食べたな。
並びの地下1階、金の蔵は2011年9月、T矢さんと再会して飲んだ。
その並び、コメダ珈琲のあたりにヨーカ堂という衣料品店があった。
昔はあのイトーヨーカ堂と関連があったらしい。(叔父が武蔵小山のヨーカ堂の仕入部長?だった)
昭和末期になくなったが、学生時代に何回か服を買った。
西一番街に入る。
2004年、この7階の城北馬場ダンス教室に通っていた。
まだ競技をする前で、練習相手もいないからレッスンだけ受けていた。
当時8階には和民だったか、居酒屋があった。
池袋演芸場の斜め向かい、このビルは2006年ころまで3階が黒潮という居酒屋、4階がメモリーというダンスパブだった。
今それぞれ鳥貴族と和風いちゃキャバ『おいらん』になっている。
ビルに入ってみる。おいらんはエレベーターが空いたらいきなり店だと怖いので5階まで上がって降りてくることにした。
5階は不動産屋だから怖くない
やっぱり怖いからエレベーターで降りた。
2019-06-05
ロサ会館がまだある。1968年開業という。ここのパブレストランは77年から79年にかけて何回が合コンで使った。
直接来ることもあったし、東口の線路際にあったボーリング場で遊んでからくることもあった。(ここにもロサボールというのがあるが、当時の記憶があいまい)
ビルはカッコいいが横断歩道が不細工
その東口のボーリング場はD-Boxビルにあった。
70年代、池袋トキワボールと東京靴流通センターが入っていたような気がするが、いまもハイパーレーンとヘルメット、シューズの Y's Road 池袋チャーリー店 が入っている。
その南側の文芸坐は新文芸坐になっている。
変わっているような変わらないような。
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