コロナが終わった。(終わっていないが、騒ぎが収まった)
そして、各地で恒例イベントが復活した。
駒込総鎮守の天祖神社の祭礼も9月16,17日、4年ぶりに行われた。
神社自体というより、氏子の各町内会が行う祭礼と言ってよい。
我が町会は動坂の上、都立駒込病院の西南に広がる「上動五三会」。
ちょうど2年交代の班長(自動的に理事となる)が回ってきて、昨年は15軒ほどある班内の配りものをするだけだったが、今年はお祭りをするということで、お手伝いした。
祭前日の9月15日(金曜)に駒込病院の前の歩道に神酒所を設営しながら、天祖神社の氏子町会、すなわち神社の勢力範囲はどこか、聞いてみた。
このあたり、南の根津神社のほかに谷中、日暮里の総鎮守・諏方神社、また本郷通りの向こうの白山神社、また旧中山道の向こう、東洋大学のあたりは氷川神社。というふうに、神社の支配域が入り組んでいる。
駒込天祖神社の氏子町会は13あるらしい。この地で生まれ育った年配の方が、指折り数えて仰っても、町会名が似ているから、書かれたものがないと私にはよく分からない。
どうせ私はあまり役に立っていないので、さぼって病院裏の天祖神社に様子を見に行った。ちょうど奉納金の一覧が掲示されているところに、各町会からの寄付金が書かれていた。数えると13ある。これが氏子の町内会、天祖神社の勢力範囲のようだ。
奉納金額も併せて列記する。
1.動坂中町会 62(千円)
2.神明上町会(宮元町会)77
3.吉片町会 56
4.富士前町会 62
5.東林町会 95
6.浅嘉町会 54
7.上富士町会 62
8.神明西部町会 58
9.神明町会 130
10.動坂町会 92
11.上動五三会 65
12.駒二親和会 68
13.西林町会 70
この13町会の掲示順番は何だろう?
金額順でもないし、歴史順? まさか受付順?
さて、この町会名は昔の町名をもとにしている。
本郷区の動坂町、神明町だったところはそれぞれ3つの町会があり、吉祥寺町とその向かいの片町は一緒になって吉片町会をつくった。
住居表示の法律は1962年(昭和37年)5月10日、公布・即日施行。それまで人々の結びつきの強さなどで決まっていた町名、地名が、道路によって分けられ、新たに命名された。
文京区のこのあたりは昭和41年4月に新表示となったが、もちろん町内会が再編されるわけではなかった。私の住む動坂町は、田端駅から駒込病院、本郷通りの駒本小学校前にいたる都道によって分断され、南東側が千駄木4丁目、5丁目、北西側が本駒込3丁目、4丁目となったが、町会はそのまま存続した。
ちなみに私が属する町会は、千駄木五丁目と本駒込三丁目に分断されたが、それを機に動坂上町親和会から上動五三会と改名した。
9月16日(土)お祭り1日目
8:00 町会お神酒所集合
宮入りというのは、神輿が各町内を練り歩いた後、天祖神社に入ることである。13の神輿が掛け声とともに集合すれば、それはそれはテレビに出るくらい壮観だろう。
10:00 子供神輿、山車(太鼓)出発
動坂上の交番前で横断、保健所通りから我が家の夏ミカンの下を通り、千駄木5丁目から動坂通りに出て、本駒込3丁目の住宅街を練り歩いて終了。
午後の私は、池袋で16時からダンスのレッスン、練習があるのでお祭りのほうは欠席。
我が町会を含め、夏休みには動坂3町会の合同、動坂公園でラジオ体操をする。
15:01
神明公園前で神輿発見
写真では半纏は「動坂」「宮元」とある。
神明上町会(宮元)の町域である。
各町会の中心、昨日訪ねた天祖神社に行ってみた。
15:05
神輿の入っていた倉庫がならぶ。
中は皆出払っているだろう。
境内にあまり人はいない。
神社を出て本郷通りに向かう。
15:07
神明上町会お神酒所
文京区駒込地区全体のほぼ中央に在り、天祖神社(神明さま)のほか、都指定史跡「駒込名主屋敷」、区立九中、神明公園などがある。
この町会は、もともと祭礼の時に結成される宮元氏子会がもとになって昭和30年に発足した。宮元とは、天祖神社のある地区ということだ。
写真のテントは「宮元」とあるが、隣のテントは「神明町上町会」とあった。
テント内に鎮座する大正12年大倉竹次郎作の大神輿は、13町内最大級の台輪寸法2尺8寸(上動五山会は2尺6寸、神明町は2尺9寸)
・・・・・
9月17日(日)
3連休の真ん中、各町会は大人神輿が出る。
12時過ぎに我が上動五三会の中神輿が出発した。
生まれて初めて神輿を担がせてもらった。
(別ブログ)
赤飯の弁当を食べたあと16時に再集合、神酒所に覆いをかけるというので、それまで解散。
ちょうどこの日は子供たちが13の町内神酒所をめぐるスタンプラリーの日。
各町会は訪ねてきた子供たちにお菓子を配る。我が町会はお菓子でなくレトルトカレーだったが、他はうまか棒1本とか、飴玉2つとかだったらしい。カレー1食分は大いに喜ばれたが100箱はすぐなくなり、前日の神輿を担いだ子供に配ったお菓子の残り(ポテトチップ1袋など)を配った。
スタンプラリーの地図を見れば各町会の位置が分かる。
駒二親和会はなんと駒込駅の向こう、豊島区である。スタンプラリーで行ってくれる人がいるのかな? 旧住所の吉祥寺片町や、上富士町は本郷通りの向こうまで広がっていたが、町会も同じように広がっているのかな?と思ってみると、神酒所も向こう側にあった。
私も地図を片手に回ってみることにした。大人だからお菓子をもらいに来たと思われないように、遠くから見るだけにする。
ひとまず天祖神社に行ってみようと病院わきを入っていくと動坂町会の神輿に遭遇。
14:20
駒込病院横。
軽トラの上に太鼓、笛の8人が乗っている。神輿は担がずに台車の上に乗せて引いている。
動坂町会は坂下なので、ここは町内ではないはずだが。
宮入りした後の帰り道だろうか?
しかし我が町会は宮入りしなかった。
役員の2,3人に理由を聞いても、はっきりしない。中神輿では格好悪い。かといって大神輿では担ぎ手がいない。宮入りするには奉納金が数十万円必要? 来年にとっておく。などなど。
神社の境内に緑の半纏を着た人がいた。わたしの上動五三会の半纏を見て、あきらかに宮入りしなかったことにご不満のようであった。「氏子総代会では出てくれるようにお願いしたのだが・・・まあ町内にいろいろ事情があるのでしょう」
ちなみに、前日の子ども神輿は 6町会、本日は大人神輿が5町会、宮入りしたという。
5つでも結構迫力あったのではないか?
見に来ればよかったな。
14:22
天祖神社境内はほんとに宮入りがあったのかな?と思うほど昨日に続き静か。
それでもお参りする人がいるのが、いつもと違う。
社伝によれば、1189年源頼朝が奥州藤原泰衝追討の途中、霊夢に感じ家臣籐九郎盛長に仰せ其所を探させたところ、老松に大麻がかかっており、此を見て神霊の効験を喜び、その松の辺りに神明宮を建てたという。その後、中絶して宮守もなく神木の老松の下に小祠のみありしを、慶安年中(1648~1659)堀丹後守利直が再興したと伝えられている。
江戸時代には、駒込神明宮とよばれ駒込の総鎮守として信仰を集めた。
町内のお神酒所の祭壇にも鏡を飾るのは、祭神が天照皇大神だからか?
14:23
屋台は4軒出ていた。
この日は白山神社、根津神社と祭礼が重なった(例年は根津神社が決めたあと、他は1週間ずらすらしいが、今年は?)
そのために4軒が少ないのか、いつも通りなのか、よく分からない。どっちにしろ人がいなくて暇そう。
14:25
前日も来た神明町上町会(宮元町会)
この通りは本郷通りからまっすぐ天祖神社本殿に至る参道である。
14:26
お神酒所の斜め前の駐車場に神明上町会というテント。
宮元町会のサテライト休憩所?
さすが有力町会である。
14:27
富士前町会の大神輿に出くわす。
このあたりあちこちで掛け声が聞こえる。
14:29
神輿を追い越して富士神社にきた。
ここの境内には2つの町会お神酒所がある。
ちなみに、ここ駒込冨士神社と千駄木の満足稲荷神社は天祖神社が管理している(兼務社)。
14:29
富士前町会お神酒所
さっき神輿を追い越した。
14:30
神明西お神酒所
となりの上富士町会の神酒所は不忍通りの向こう、六義園のほう。
その町会神輿は、町内に住んだ元首相・若槻礼次郎が寄贈したものという。
しかし私も神輿を担いだ後で疲れていた。引き返すことにした。
吉片町会、浅嘉町会のほうを周ってもいいが、来た道をまっすぐ家に帰ることにした。
するとまた別の神輿に遭遇。
14:33
神明西の神輿。
このあたりは宮入りした後、再び町内を回っているのだろうか?
かなり体力的にきついだろう。
14:36 宮元町会
あの大神輿だろうか?
家の前まで来て、しかし、こんな機会は二度とないかもしれないと、通り過ぎて南の東林町のお神酒所まで足を延ばした。
この町会は駒込林町の東半分だが、保健所通りの両側を町会域とする。
私はつい先日までここは根津神社の領域だと思っていた。(つまり、動坂町と林町の境である狐坂に、数年前、天祖神社と根津神社の両方の祭礼旗を見たことがある)
しかし、完全に天祖神社の氏子のようだ。
まあ、確かに千駄木は根津ではなく駒込である。
高村光雲は日本橋方面に行くとき「江戸に行く」といったし、夏目漱石も東大農学部の先、今の日本医大の横に転居したときは「駒込の田舎」といった。
近年、駒込というと山手線の駅のあたりを言うが、昔は畑しかなく、昔になればなるほど、「駒込」は南のほうを差す。
東林町会事務所の芳林閣
ここは町内に住んでいた子爵大給氏(豊後府内の大名家)が建てて寄贈したもの。
この町内は大給家のほか藤堂家、松平家など大名家、越後市島家、実業家須藤家、大平正芳、岡本銀行頭取、久米家、安田楠雄、高村光雲・豊周、宮本百合子実家中條家、高村光太郎、児玉希望、島薗家など、金持ち、文化人が多かった。
神酒所は奥に話声が聞こえたが、表には誰もいなかった。
町内住人だった高村光雲、昭和4年作のお神輿、ご神体が飾ってあった。
さて家に帰り、13町会の範囲について改めて考えた。
旧住所では上富士前町は、六義園の向こうまで範囲だったが、町会もそうだろうか?
こういうことはスタンプラリーの地図(神酒所の場所)だけでは分からない。
調べたら文京区の公式サイトに区内町内会の地図があった。
文京区の公式サイトから
この図は区民の町内会加入を促進するための地図のようだ。
これを見れば、六義園周辺は上富士前町会からはなれ、大和郷会になるようだ。しかし科研製薬跡の文京グリーンコートはなお上富士前町会の区域ではある。
なお、昭和41年の住居表示で駒込林町の東半分(東林町会)は、崖下の不忍通り沿いの駒込坂下町と一緒になり千駄木三丁目となった。しかしもともと住民の交流もなかったから町内会は別々のまま、坂下の千駄木三丁目南町会、北町会は根津神社の氏子である。
・・・・・
お祭りが終わった夕方、簡単な打ち上げ会をしたとき、町内に残る銭湯、ふくの湯の入浴券をもらった。
文京区では65歳になると月4回は100円(通常520円)で入浴できるのだが、大して風呂は好きではないし、面倒なので一度も使ったことはなかった。
18:22 ふくの湯
銭湯は何年ぶりだろう?
温泉の大浴場は入っているが、町の銭湯は1981年3月、学生生活の最後、谷中真島湯以来である。見学が目的だったので、昔のように洗面器にシャンプーやせっけんを入れて行くのでなく、体をふくタオル1枚だけ持って出かけた。
18:23
ここから先は撮影できない。
男湯は大人10人、子ども3人いて、水風呂もあり、思ったより繁盛していた。
浴槽上のペンキ絵はおなじみ富士山だったが、横に鷹とナスが描かれていた。江戸時代、この駒込地域は富士神社、鷹匠屋敷(現駒込病院)、そしてナスの産地として有名で、一富士二鷹三ナスビの言葉はここが由来という。
当たり前だが、カランの前の鏡は家の風呂よりきれいだった。
顔を見ながら神輿を担いで痛かった肩のあたりを少しもんでみた。
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