8月10日、物好きなことに、わけあって飯山線立ヶ花駅から5キロほど離れた実家まで歩いた。
定年退職して自分の人生を思い出すように、高校時代に使った立ヶ花駅、母校の中野平中学、平野小学校、とちょうど子供時代を遡るような順番で見てきた。
そして小学校の南に平野保育園がある。
しかし平野保育園は中野平中学の西側に移転した。田舎だから建物は壊すこともせず、10年か20年か知らないが、しばらく空き家のまま残っていた。それでも今回来たらさすがに建て替わり、消防センターになっていた。
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平野保育園跡。
平野地区コミュニティ消防センター
平野保育園には昭和36年(1961)4月から38年3月(1963)まで、2年間通い、5歳、6歳の誕生日を迎えた。
このころの思い出は自分の頭の中の最も古い記憶の一つである。
古い記憶は新しいものと比べ、今後年をとってもボケても残るというが、終活の一環としてできるだけ思い出してみる。
国土地理院1976/11/04(昭51)
平野保育園と平野小学校
卒園して13年、小学校を出て7年後の航空写真。
保育園は、神社の境内にあった。
ずっと名前を知らなかったが、今調べたら西江部神社という。
岩船(岩水神社)、吉田(日野神社)、片塩(諏訪神社)とちがい、部落名がそのまま神社名になっている。
私が子供のころ、大人たちは江部を西江部、東江部、北江部と3地区に分けて呼び、ここは北江部だった。しかし北江部という地区(部落)は正式にはなかったようだ。隣の平野小学校は北江部と思っていたが、調べたら西江部だったし、小学校の北の泉団地(昭和40年、市営住宅)は、昭和43年泉地区として独立したが、それまでは西江部区となっている。
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西江部神社境内
当時はこのような樹木はなく、保育園は参道、境内まで園の敷地のように使っていた。
建物はくすんだミントグリーンの板張りで、南西の隅に玄関、下駄箱があり、入ると遊戯などする大広間だった。
1階は西側がその大広間で、東に小部屋がいくつかあった。
北東の隅に調理室のような部屋があり、金属製のボウルに「えのぐ」と書いてあったのを覚えている。当時、農村部の子供は小学校に入ってから字を初めて習ったが、我が家は比較的早くテレビが入ったので、「つづく」「おわり」「はれ」「くもり」などから自然と字を覚えた。しかし「えのぐ」が何か知らなかった。
午後のお昼寝は二階に上がった。眠らずに毛布の毛をむしって毛玉を作って遊んでいるところを見つかり注意された。
社殿は新築されていた。
かすかな記憶では、もっと床が高かった気がする。
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神社の裏に回ってみる。
当時は笹が繁っていて、たまに野ぐそがしてあった。紙が一緒の時もあったから犬猫ではなく、通りを行く人間が我慢できずにしたのだろう。
また、以前の社殿はコンクリートの基礎でなく石垣の上に建っていた。
神社の東側は田んぼが広がり小さい川が流れていた。
私はみんなと積み木遊びなどするより、ひとりで魚やカニを捕まえて遊ぶのが好きだった。今では考えられないことだが、当時は自由に敷地の外に出られた。
捕まえたカニなどは家に持ち帰るため、拾った空き缶に入れ、保育園の縁の下などに隠して帰宅時間を待った。
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その田んぼも小川もなくなって、神社の東は住宅が建ち、公園になっていた。
公園のまわりを見てもかつて広がっていた水田も小川もない。
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小川が一すじ流れていたが、水量は少なく、草に覆われていた。
一帯の区画整理で川筋は変えられているだろうが、宅地化前の1976年の航空写真を見れば、神社の東に2本あった川の東のほうか?
もちろん今、川で遊ぶ幼稚園児、子どもはいない。
小川の南側に新しい建物があった。
表に回ると「平野放課後児童クラブ」と書いてあった。
12:47
中野市平野児童センター
中野市は子供がどんどん減り、高丘小学校は生徒数が3分の1になり、北部の4小学校(長岡、平岡、科野、倭)は1つに統合されるという。ところが平野は市街地に隣接した農村部であったため近年宅地化が進み、平野小学校は私のころ6学年で360人だったのが480人になっている。
児童センターの駐車場から南を見る。
耕作放棄地が広がっている。
一番古い記憶は、人生の始まりともいえる。
私の場合それらのいくつかは保育園時代だった。
保育園の地に立ち、まわりを歩けば、60年間忘れていたような何かを思い出すかと期待していた。しかし建物が消え景色も変わると、新しく頭に浮かぶものは何もなかった。
道路に出ようとすると懐かしい市民プールの横を通る。
このプールはいつできたか?
プールの真ん前は天理教の北信分教会。
12:48
中野市民プール
8月10日という最盛期でありながら、定休日と間違えるほど人がいない。
私の知る昭和50年代は、それはそれは大盛況だった。ほとんどの学校のプールが25メートルだったのに対し、50メートルもあり、流れるプールもある。近隣では一般人が遊べる初めてのプールということもあり、連日歓声と水しぶきで賑わっていた。
ネットでは見つからない。
国土地理院所蔵の航空写真は
1978-07-30
1977-08-07
1976-11-04
1973-05-25
1947₋11₋06
とあり、73年にはプールがなく、76年にはある。
1974年の平野小学校100周年記念の航空写真にはプールがある。しかしよく見ると幼児プールの東に工事用車両の出入り口が見える。
すると、私が初めて行った昭和50年(1975)夏が中野市民プールのオープンということになる。
この1975年は、高校を卒業、大学に合格し、初めて親元を離れた年である。そして初めて故郷に帰省すると新しい立派なプールがあった。
中学の同級生たちも18歳で大学進学や就職でそれぞれの人生を歩き始めた年である。
中学の仲間は、15歳で卒業すると、それぞれの高校の友人との交際がメインとなったり、いつでも会えるという安心感だったり、いったん3年間は疎遠になった。しかし、高校を終え、それぞれが違う道を進み始めると、新しい職場や引っ越し先などについて話したくなるものだ。
そしてこのオープンしたばかりの市民プールが社交場のようになり、再会の場所となった。と言っても誰と会ったかはっきり覚えていないのだが、ながの東急に就職した松島美智子とは50メートルプールでクロールの競争をした。彼女は中学時代女子で一番速かった。
約束していなくても、行けば誰かに会えた。隣のクラスの今井一行などとも偶然会って話をした記憶がある。
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中野市民プール駐車場
ガラガラに空いている。
「行けば誰かに会えた」というのは自分が頻繁に行っていたことを示す。そもそもプールの住所が岩船で、歩いて近かった。保育園に行く途中にある。
そして75年夏の後半からか、あるいは翌1976年の1シーズンだけだったか、プールでアルバイトをした。
岩船の中島さんがプールの管理人を市から委託されていて、働かせてもらった。一日2000円。しかし朝8時半から18時半まで10時間だったから時給200円。当時、都会でのアルバイトは時給400円だった。
プールの監視員と聞いていたが、実際の仕事は炎天下の駐車場で車の誘導と、ごみ集め、掃除だった。当時のプール人気はすさまじく、常に満車、2人一組で一台出ると大声を出して一台入れた。売店も大繁盛したからゴミ捨てかごもしょっちゅう一杯になった。
そして営業時間が終わったら更衣室の掃除。すのこ板の下によく100円玉が落ちていて、そのままいただいた。
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バイト仲間は数人いたが、二人だけ覚えている。
一人はいつもジーンズのつなぎを着ていた小柄な女性。彼女は「オリバー君」と呼ばれていた。ちょうど猿と人間の混血かと日本中で話題になったチンパンジー(1976年6月来日)に歩き方が似ていたからだ。しかしとても可愛らしかった。他の男子も狙っていたようだ。あるとき、私が(多分非番のとき)3歳のいとこを連れて行ったらオリバー君が「かわいい」と相手してくれた。それをみた他の男たちが「オリバー君は子供が好きなんだから小さい子を連れてくるなんてずるい」と非難した。
覚えている二人のうちのもう一人は確か西条の私と同年?の男。おそらくオリバー君を好きで私に対してライバル心をもっていたのではなかろうか。しかしオリバー君が辞めて、私が当時はまっていた空手の型(鉄騎初段、平安五段)を教えたらプールサイドで練習に励み、仲良くなった。
12:50
いま営業時間は9:30~18:00
7月は10:00~16:00
昔より短くなったような気がするが、これだけ人がいなければ当然だろう。
こんな状況では廃止になるのではと心配になる。
そうだ、1976年か77年、昼の喧騒が過ぎ去った夕方のプールに、HJさんが一人で来た。高校3年のとき、中野高校の文化祭で美術部の部長をしていた彼女を初めて見た。その半年後、75年春、彼女は跡見女子大学美学美術史学科に進学、同時に進学上京した私が初めてデートというものをした女性である(上野公園)。秋には免許取り立ての私が新座のキャンパス前で彼女をピックアップし森林公園までドライブした(トヨタのパブリカ)。しかし二人とも寮住まい、ほとんど手紙のやりとりだけの付き合いだった。返事がなかなか来ないと、ひとり相撲のような手紙を一方的に出してしまい、それがこじれて友人関係は消滅した。
プールで再会したときもなんとなく気まずい雰囲気だった。夕方になると肌寒いほど涼しく、彼女はそうそうに泳ぐのをやめ水から上がった。ビキニの水着だったせいか、恥ずかしそうに更衣室のほうに走っていったのが、私の目に残る最後の姿である。
12:50
プールがオープンして48年、つまり私が故郷から離れて48年。
あの夏の、かつてのにぎやかさが夢のようだ。
しかしアルバイトを募集していた。
道路の近いところに新築したようだ。
12:50
かつては道路が高いところにあり、道路と天理教の母屋の間に川があった。
通学する朝、川で天理教の家のお姉さんが洗い物をしているとき、上級生か誰かが石を投げ、水しぶきが彼女に当たった。彼女は上目遣いで見ただけで何も言わなかった。ひどいことをすると子供心に思った。
12:52
左は道路を挟んでプール。
天理教の裏に、小川沿いの細い道があり、岩船からの子供はほとんどこちらの近道を通って小学校に行った。ある朝、オニヤンマが羽化しているところに出くわした。
右側は田んぼだったが、今は川も細道もコンクリートとなり、田んぼは宅地になった。
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50メートルプールと川
この川は、プール建設にあたり流路を敷地の東の端に替えられたようだ。かつてはもっと水量があった。中野扇状地の末端に当たるここ岩船はあちこちに水が湧き、川はどこも水量豊かであった。しかし上流で取水が増え、道路の拡張と舗装、そして宅地化で沁み込む土の部分が減った。その結果、この50年で湧水地はどんどん消え、無数にあったきれいな水の小さな川は消滅した。残った川も道路拡張のためU字溝になってふたをされた。
さて、この川は、今のプールの真ん中あたりを流れ、道路をくぐって天理教の前に出て、平野小学校のポプラ並木と道路の間を西に流れていた。
そしてプールのあたりには、この川と田んぼに挟まれて水の湧く小さな池があり、保育園から小学校低学年にかけては帰宅時必ず立ち寄る場所だった。
あるとき、カニか魚かゲンゴロウを捕まえていると地面が揺れた。少し高いところにあった道路を見上げると、止めてあったオートバイが倒れた。新潟地震である。今調べると1964年(昭和39年)6月16日13時01分(火曜日)とある。私が小学校2年のときか。
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プールと岩船部落の中間点。
保育園、小学校、中学校に通った道である。
当時は田んぼの中の一本道だったが、その後プールができたこともあり拡張された。さらに周辺が宅地化され、新しい道路が交差し、新しい家が並ぶ。
12:56
町田憲一君の家の豚小屋
当時は岩船部落の西の端から保育園・小学校・天理教まで1軒もなかった。(下の写真)
昭和37年(1962)
保育園からの帰り。
道の先に西江部神社の森と小学校が見える。そこまでの間は何もなかった。
歩いているランドセルの上級生は分からないが、その後ろは吉田部落の長島佐代子ちゃんと竹内徳良ちゃん。
水田地帯にまっすぐ開いた新しい道路は、常に地盤沈下したから、当局はたびたび小石をまいた。このあたりにはない、砕石されたばかりの新しい石で、黄鉄鉱か何だか知らないが、きらきら光る鉱物が含まれていた。私は金だ!金だ!と拾って、しばしば持ち帰った。写真の先頭を歩く私の帽子の中はその大事な石たちである。
保育園は61年前。
小、中、高校を終えて上京したプール元年は48年前。
人生って、長いような短いような。
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