2025年1月17日金曜日

広島1 日清日露の戦役と宇品港、もみじ饅頭

 1月15日、クルーズ船飛鳥IIが広島に入港し、軽く観光しようと下船した。

着岸したのは広島港クルーズターミナル外貿埠頭5号岸壁だが、いわゆる宇品港である。
20250-01-15 9:30
遠くの建物に「県営宇品外貿CFS」と書いてある。
明治の陸軍史に関心があれば、宇品という文字に反応するだろう。
うじなという重箱読みが珍しいから余計心に残る。
9:42
飛鳥の着岸したクルーズターミナルから広島電鉄(路面電車)の海岸通という駅まで歩いて電車に乗った。220円。
広島電鉄路線図
停留所の駅名をみれば、元宇品口、宇品五丁目、宇品四丁目、宇品三丁目と並び、うじなだらけである。

広島は中国四国地方を管轄する第五師団の司令部があり、多くの軍用地が集まる軍都だった。
しかし、それ以上に重要だったのは、日本内地から大陸に人馬、物資を送る拠点だったことである。

山陽本線の前身、山陽鉄道は1906年国有化されたが、日清戦争(1894年 - 1895年)では広島までしか開通していなかった。そのため、東京からの鉄道西端で、大型船が運用出来る宇品港をもつ広島は最も重要な兵站基地となった。
13:44
この日は陸軍被服廠跡から広大霞キャンパス、広島駅、広島城、原爆資料館を周って帰って来た。(別ブログ)

路面電車を降りて、飛鳥が着岸している広島港クルーズターミナル(宇品波止場公園)までくると、左手前に(交差点のはすむかい)宇品中央公園がある。
そこに様々な記念碑があった。
13:56
宇品凱旋館建設記念碑
皇紀二千六百年、昭和十五年二月十一日、陸軍中将 田尻昌次

出征軍人・戦傷病兵の歓送迎・慰安のために、宇品の陸軍運輸部(この公園にあった)構内に凱旋館の工事が起工され、翌1939年に竣工式、1941年6月落成式をあげた。
終戦時は厚生省が海外引揚者の事務所として使用。その後は第6管区海上保安本部になったが、1970年、海岸倉庫跡に広島港湾合同庁舎が新築され、保安本部は移転、1974年、宇品凱旋館は破却され宇品中央公園となった。
13:56
明治天皇御駐駅跡
駐駅とは駅ではなく滞留の意味である。

戦時中に陸海軍を統率するため置かれる大本営は、日清戦争のとき鉄道西端の広島に置かれた。文禄慶長の役で秀吉が前線に近い内地の基地として名護屋にいたように、大本営を統帥する天皇も広島に来た。その滞在期間は7か月にも及んだ。
その間、側近の勧めもあったろうが、宇品で出征兵士を見送ったのだろう。
旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部

宇品から大陸に出発する兵士、物資は全国から集まる。
そのため、日清戦争中の明治27年に山陽本線完成に合わせて陸軍の軍事専用線が建設され、広島₋宇品間5.9キロを着工からわずか16日で完成させたという。(同年8月4日着工、8月20日竣工、8月21日に開業)。そして終点には陸軍運輸部の宇品支部が置かれた。
宇品線のルートは、今の広電・路面電車の通りではなく、その東の、海岸通りを北上し被服支廠と比治山公園の東、兵器支廠(現・広大霞キャンパス)の西を通っていたようだ。

軍用地と宇品線(原爆資料館の展示から)
歌碑
「空も港も夜は晴れて・・」(港)
1896年(明治29年)に発行された新編教育唱歌集の第三集に収録されている。日本人が作曲した初めての三拍子の曲という。歌の作者及びモデルとなった地域は、1973年まで明らかになっていなかった。
しかし調査の結果、本土と宇品島を結んでいる暁橋(通称・めがね橋)から見た風景を歌っていることがわかった。

「月に数ます船のかげ、端艇(はしけ)の通い賑やかに・・・」
というのは1894年の日清戦争のころの光景かもしれない。
14:01
かつて陸軍の兵と物資の輸送でにぎわった宇品に平和の象徴ともいえる「飛鳥II」が停泊している。
14:03
宇品線のレールのモニュメント
太平洋戦争時は兵士や兵器、物資を積み込んだ軍用列車が夜昼なく30分に1本入ったという。宇品駅の専用ホームは迅速に船に移せるよう560メートルもあった。
原爆が投下された8月6日は宇品―南段原間を3往復し、3000人の負傷者を宇品凱旋館に輸送したらしい。
戦後は軍用から貿易港に変わった広島港の動脈として地域の復興に寄与したが、1972年に旅客輸送が廃止され、一日一往復の貨物線となり、1986年、それもなくなり92年の歴史に終止符をうった。
宇品島(元宇品)と倉庫
六管桟橋から見た倉庫
宇品港は明治22年に築港され、旧陸軍の軍用港として利用された。その中心となったのが、明治35年に作られたこの桟橋である。この桟橋は、多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎えた。
戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用され、第6管区海上保安本部ということから六管桟橋と呼ばれるようになった。
しかし、現在は桟橋を西側の端にして埋め立てられ、宇品波止場公園となり、東側の岸壁が宇品外貿第5バースとしてクルーズターミナルとなっている。
陸軍桟橋は西側の護岸としてその姿を残している。その石組が見やすいように、一部が陸上に展示されていた。  
14:06
クルーズ船「飛鳥」の写真を撮ろうと男性が乗っかっている台こそ、その陸軍桟橋の石組みを展示したモニュメントである。戦争も遠い彼方になった象徴のような図である。
14:07
かつては沖に向かってまっすぐ伸びる一すじの桟橋だったのが、今や公園となり、反対側に飛鳥が泊っている。

これで広島見物を終えて飛鳥に乗ろうとしたとき、お土産を買い忘れたことに気づいた。
旧制広島高校講堂、陸軍被服支廠(出汐倉庫)、陸軍兵器補給廠(広大霞キャンパス)などマイナーな場所を周り、広島城、原爆資料館は早歩きで過ぎ、お土産があるような商業施設に寄らなかった。

ふと見ると、ターミナル(インフォメーションセンター)の小さな建物の壁際にもみじ饅頭の自動販売機があった。2個入り(280円)、3個入り(420円)の箱が売っている。船内のショップにある飛鳥のロゴ入りの大きな箱入りクッキーやチョコレートなどは上げる人もいないので、この小さな箱を買った。

28年前は江田島の旧海軍兵学校の売店でやはりもみじ饅頭を買ったことを思い出す。平箱の包み紙に校舎の写真と「五省」が描かれていて、中身よりその包装紙欲しさに買った。

しかし、今回はこしあん、粒あん、レアチーズ、チョコレート、クリーム、瀬戸内レモン、抹茶など中身を(全部買わないから)よく見て選んだ。

もみじ饅頭は紅葉の名所、宮島の高津常助が日露戦争の終わった1906年に作ったという。高津は商標権を取ったが、宮島の菓子組合長も務めていたこともあり、多くの店が作って宮島の名物となるようにした。商標権も有効期限の20年後に更新しなかった。明治末期から戦前にかけて「岩村」、「勝谷」、「藤井」などが作り始めた。戦前はすべて宮島で、12軒が作っていた。

私が買った自動販売機の紅葉堂は、宮島で1912年創業、のちにもみじ饅頭を作り、いま「揚げもみじ」で知られる。最大手のにしき堂は戦後の1953年創業という。

船に戻って部屋に饅頭などを置いた後、写真の整理でもしようと11階のEスクエアに上がった。さらに12階のデッキにいき、広島港をもう一度見た。
2025₋01₋15 14:43
宇品港は広島港と名を変えた。
向かいの島は金輪島(かなわじま)
カキの筏が見える。
兵士たちはこの島を見ながら大陸に送られたことだろう。
乗船前に、見送りに来た家族と一緒にもみじ饅頭を食べた兵士もいただろう。


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