2026年1月22日木曜日

赤塚城址公園、東京大仏、板橋植物園

 1月6日、三田線の志村三丁目でおりてすぐ南の崖上にある志村城址にいった。

続けて三田線の終点、西高島平に来て赤塚城址にきた。

二つの城は同じ崖線にあり、兄弟関係にある。普通の歩行ペースで 約40〜50分(3.5〜4 km) 。原っぱなら歩けば当時の人々の距離感を味わえるが、現在の住宅地では歩く意味もない。

14:38 西高島平駅
西高島平駅から南に少し歩く。
赤塚城址は公園になっている。
14:51
赤塚公園到着
ここは区立でなく都立公園。
この池はかつて濠だったか湿地帯の池だったか。
この公園には板橋区立美術館と郷土資料館がある。

15:02
板橋区立美術館
区民サークルのためのギャラリーではなく、ちゃんとした美術館のようだ。この日は「戦争と子供たち展」をやっていた。入館料は大人900円。
収蔵品展は無料のようだが、常設展はない。

ちなみに区立美術館があるのは、板橋、練馬、世田谷、目黒である。
いずれも区民ギャラリーがあったり収蔵品展は無料か200円程度。文京区の(私立)弥生美術館、竹久夢二美術館などと違って住民との距離が近い。墨田も区立美術館を持つが、こちらは北斎、浮世絵などに特化していて常設展(400円)がある。
15:05
トンボ池
武蔵野台地の端だから崖から地下水がわいている。
かつては東京中の崖線で湧いていたと思うが、たいてい崖上が宅地化、舗装され、崖自体もコンクリートで固められた。ここは珍しい。

赤塚公園は23区内とは思えないほどひろい。
15:09
板橋区立郷土資料館
無料なので入って見た。
15:12
いまの東京23区はたいして差がないが、江戸時代は大名屋敷が並んでいた千代田区や文京区とちがって、板橋区は田畑が広がり、中山道、板橋宿しかなかった。
そのため、資料館の展示物は、板橋宿、道祖神、旧家に伝わる古文書、幕末の徳丸ヶ原と高島秋帆、昭和の高島平団地くらいに限られていた。そのぶん分かり易く、じっくり見られた。
区立の郷土資料館(歴史・博物館)は23区すべてにある。
美術館と違って、収蔵品が集めやすいし、入館者も多いだろう。

中山道沿いにあった加賀藩下屋敷は明治になって陸軍用地、火薬製造所となった。

書籍コーナーに赤塚城址発掘調査の報告書があった。
城址に上がる前に予習。
15:25
赤塚城址地形図
東西北の3方が自然の谷で、360度のうち300度ほどが崖であり、まるで独立峰の平山城のよう。
国土地理院HPから
中央十字が赤塚城。
首都高5号池袋線(=新大宮バイパス)が笹目橋を渡る前に北に大きく曲がる地点、すなわち西高島平駅の南のほうになる。
15:08
郷土資料館を出て崖の階段道を上がっていく。
15:28
上がると平坦な芝生地
おそらく本丸跡だろうが、何もないのが良い。
東京23区内とは思えない。
赤塚城は康正2年(1456)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたとネットにあったが、1456年というと彼は10歳である。何もできないだろう。

前のブログ(志村城址)でも書いたが、下総守護・名族千葉氏は古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏が争った享徳の乱のとき内紛が起こった。
重臣原胤房と同族の馬加康胤(千葉氏の通字の胤がある)は足利成氏につき、上杉方についた宗家を攻めた。父の胤賢ら一族を殺された宗家の幼い兄弟、実胤と自胤は亥鼻城から市川城に逃れた。
しかしそこも攻められ、上杉方の太田道灌は兄弟をひきとり、兄は石浜城(数年前、浅草北方、南千住に石浜神社を訪ねたが、神社は移転したもの)、弟の自胤はこの赤塚城を与えられた。

兄が隠居したあと弟の自胤は石浜城に入り、しかし享徳の乱は幕府が足利成氏主導の再編を認めることで終結、分家の千葉氏が上総に居座り、千葉自胤は武蔵の国人に転落した。その後太田氏、後北条氏に従ったが、秀吉の小田原征伐で没落、赤塚城も廃城となった。
15:30
芝生広場の南は梅林になっている。
二の丸跡という説もあるが、濠跡も高低差もなく本丸広場と別の曲輪とは考えにくい。

都立赤塚公園
崖を中心に雑木林が残り、北の山下には釣り堀池とトンボ池が、濠の名残のように存在している。公園は城址の北の3分の1くらいを占め、
右下(南)に谷を隔てて赤塚公園の一部が飛び地になっている。

公園の南の道を西に向かう。
15:34
左:住宅地、右:赤塚城址公園
1975年の航空写真をみれば左の住宅地は畑だった。
15:35
西側に空堀がある。
この西は別の曲輪だったのだろう。
東京の城跡としては江戸城を除けば、一番遺構が残っている。戦国時代終わりに廃城になったにもかかわらず。
15:36
地形図通り、道は西に下っていて、途中で崖になっている。

道を戻って南東の谷に降りていく。
15:42
左は谷、右は本丸のある丘。

谷に降り切ってから東に上がると、都立赤塚公園の飛び地になっていて、その南に乗蓮寺がある。
山門は東向きだったからぐるっと回り込んだ。門前の石段の下に駐車場の管理もかねて守衛の人が二人もいて、4時で門を閉めるという。入らせたくないようだったが、山門から降りてきた参拝者が「裏口は遅くまで開いているから大丈夫ですよ」と教えてくれたので、守衛さんから彼のほうに向いて、お礼を言いながら石段を上がった。
15:48
乗蓮寺
室町時代初めに今の板橋区仲町に創建されたとされる。江戸時代には慶学山乗蓮寺と称した。
1973年、首都高の建設と国道17号拡幅に伴い、この地に移転し、山号も変えて赤塚山乗蓮寺となった。

なんといってもこの寺が有名なのは東京大仏である。
15:48
「大仏さまにおさいせんをぶつけないで下さい」。
目立つことが目的という看板の役目を果たしている。

大仏の建立はもちろん移転してきた後、1977年。
以来、この寺の代名詞となっている。すなわち多くの人は東京大仏を知っていても乗蓮寺の名は知らない。とげぬき地蔵やこんにゃく閻魔と同じである。

大仏はその名の通り東京で一番大きかったが、最近、2018年に東京西多摩郡日の出町に鹿野大仏(ろくやだいぶつ)ができて抜かれた。とはいってもやはり「東京」では一番だろう。
ところで地蔵、観音の東京一番はどこなんだろう?

乗蓮寺は大仏のほかには植村直己の墓があることでも知られる。彼は1984年、43歳で消息を絶つまで15年間板橋に住んでいた。「己」はキだと思うが自然と変換された。(ミは「巳」)
15:49
南の裏門から出る。
私としては、ここは大仏や植村直己よりも、赤塚城の二の丸跡ということが大きい。
谷を隔ててほぼ同じ大きさの丘だから、双子のような双峰式、連郭式の城である。
境内のどこかに赤塚城二の丸跡という石柱があるらしいが、散策に飽き、探さなかった。

坂を下り、乗蓮寺の道路を挟んで斜め向かいは板橋区立植物園だった。
15:50
この植物園は2023年2月に来たことがある。
板橋区役所赤塚支所に板橋区の地図をもらいに来たついでに閉園間近の夕方だった。
不覚にも向かいに東京大仏があることを知らなかった。
コンクリートの擁壁の上にお寺があると思わなかった。
意外、と言われるが私はそれほど草花に興味がない。
3年ほど前と同じようにまっすぐ奥の畑に行ってみた。

15:53
あい変わらず何も植えていなかった。
今ならダイコン、ハクサイなど冬野菜の季節。
自分の畑なら二毛作、三毛作をして土地を遊ばせることはないのだが、お役所仕事だから余計なことはしない。

15:55
帰り際、地植えのシクラメンが珍しいと目を止めた。
よく見ると、どういう組み合わせか交互にアリッサムという植物が植えられている。
ダイコン、白菜と同じアブラナ科であるがニワナズナ属というから春の七草、ナズナの仲間だろうか。そういえば七草粥の前日であった。

誰もいない植物園を出た後、夕日に向かって東上線成増駅まで歩いた。
翌週12日にダンス競技会があるので駅前で散髪して、成増図書館で時間をつぶし、18時から2026年度の初練習をした。

正月休みを引きずって夕方の練習まで家でグダグダするつもりだったが、思い切って出かけたおかげで、志村城址、高島平、赤塚城址、東京大仏、と半日で色々見られた。

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