2025年2月5日水曜日

新宮2 丹鶴城と附家老の水野氏、徐福

1月17日、新宮に上陸して神倉神社、熊野速玉大社を訪ねた。
中央からたいして道もなく、人も少ない辺鄙なところになぜ大きな神社ができたのか、前のブログでここの神話の時代について考えた。

その後の新宮について書く。

このあたり(現在の三重、和歌山・両県の牟婁4郡)は熊野国造がいて、熊野国があったが、律令制が始まるころは紀伊国に編入された。平安時代は熊野三山が整備され、上皇たちの熊野詣が始まるが、相変わらず他の地からは隔絶されていた。

平安末期、河内源氏第5代の源為義(義家の孫、義朝の父すなわち頼朝の祖父)が、熊野三山を統括した熊野別当の娘(新宮神官鈴木重忠の娘との説もあり)と通じ、10男となる源行家がうまれる。
行家は以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え歩いたことで知られる。彼は新宮十郎、新宮行家とも称し、熊野新宮氏の祖となった。頼朝の叔父にあたり、同世代であったが、のち頼朝の命で捕らえられ斬首された。

熊野別当家は15代・長快の死後、新宮家と田辺家に分かれた。為義の娘、すなわち行家の同母姉・鳥居禅尼(頼朝の叔母にあたる)は、熊野水軍の棟梁・新宮別当家の嫡男・行範に嫁いだ。行範は15代の孫であるが、のち19代熊野別当につく。鳥居禅尼は、範誉(那智執行家)、行快(22代別当)、範命(23代別当)らを産んでいる。鳥居禅尼は女性ながら頼朝から地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になった。

神倉神社の石段が頼朝の寄進というのは、こうした関係があったからか。
9:25
駅前の地図。上が東。

熊野速玉大社から南東に少し歩くと川沿いに小高い丘がある。
新宮城である
10:38 
丹鶴城遠景
もともとここには熊野別当の別邸があり(本邸は速玉大社の南のほう)、先に述べた鳥居禅尼がここに住んだ。彼女は、出家前は丹鶴姫と呼ばれたことから、新宮城は丹鶴(たんかく)城とも呼ばれる。
10:41
新宮城入り口
歩いてきて、この入り口に至る手前(写真左のほう)にお寺のような建物があった。しかし寺名はなく、「正明保育園」と書いてあった。塀が新宮城のそれと同じで連続した感じであったから城の一部かと思った。
しかし帰宅後調べると、天理教が所有しているらしい。1891年(明治24年)に西側のふもとにあった二ノ丸跡に天理教南海大教会が建てられ、1972年にお城の東側に移転すると天理教会婦人部によって現在の正明保育園が開園した。
10:41
丹鶴城公園 説明板
明治以降、城跡は民有地であったが、1980年に新宮市が買収、公園とした。城山を紀勢本線の鉄道トンネルが貫ている。
麓の二の丸は公園外だが、公園入口から坂を上がっていくと順に松の丸、鐘の丸、本丸と続く。
10:43
石段を上がっていく。
左(西)は速玉大社の方角で、熊野川が見える。
橋は国道42号線。

戦国時代、新宮を統治した堀内氏は、別の場所の平城(神倉神社のそばの全龍寺のあたり)にいた。堀内氏が関ヶ原で西軍について没落したあと、紀州和歌山に入った浅野家の一族、浅野忠吉が新宮に来てこの丘に築城を始めた。一国一城令によって中断したが、1618年に再開する。
石垣もよく残っている。

10:44
他と比べ、このあたりの石組がきれいなので、これが城内、松の丸に入る城門の跡だろう。


ところが1619年、城の完成を前に、本家の浅野氏は安芸広島に転封、ここにいた家老の浅野氏も従い備後三原3万石を預かる三原城城代になった。
浅野氏と入れ替えに家康の十男・徳川頼宣(1602~)が紀州藩主として入国する。

頼宣は2歳で常陸国水戸20万石を領し、7歳で駿遠三50万石に転封されたから、徳川譜代の家臣が後見人というか、傅人(めのと)というか、おもり役としてつけられた。それが水野重央(重仲)と安藤直次である。二人はのちに頼宣の附家老(つけがろう)となった。
(紀州藩付家老には他に三浦氏、久野氏がいる)。

(以前、犬山城にいた尾張徳川家の附家老、成瀬家についてブログでも書いたが、附家老は大名並みの石高を領し城を持っていても、あくまでも御三家の家臣である。一般に陪臣は直参幕臣より格下に見られたから、附家老は損な立場かもしれない)

頼宣とともに紀州に入った水野重央は、新宮に3万5000石を領した。
(安藤氏は田辺に3万8千石。文京区伝通院前の安藤坂に名を残す。)

水野氏というのは代々三河刈谷城主であり、松平家とは親せきづきあいで、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたる。この家はのち分かれ、明治維新のとき大名であったのは、下総結城家、上総菊間家、上総鶴牧家、近江朝日山家、そして紀伊新宮家の5家がある。老中で有名な水野忠邦は唐津藩主であったが、この家はのち羽前山形、近江朝日山に転封された。
10:44
上がってきた石段を振り返る。
丹鶴ホールは隈研吾のように縦板が並ぶ。
熊野川の支流、相野谷川の鮒田水門もよく見える。

新宮に来た水野氏は3代にわたり浅野氏の築城を引き継ぎ、1667年ころ近世城郭を完成させた。
(紀州藩は一国一城令の例外で、紀伊、伊勢の二国で和歌山城、松坂城(紀州家伊勢領18万石を統括)、田丸城(伊勢神宮のそば、付家老・久野氏1万石が城代として田丸領6万石を管理)、田辺城、新宮城の5城を保持した)。

水野氏は明治維新まで続いたが、幕末の安政2年(1855)、藩内の牟婁郡木之本村(現三重県熊野市木本町)が徳川御三家紀州藩の直轄から水野氏に知行替えされそうになったとき、住民が猛反対(安政の村替騒動)し中止となった。

新宮の水野家は大名並みの石高、城もちとはいえ、あくまで紀州藩の家臣であったが、領内は明治新政府によって、独立した新宮藩として認められた。すなわち明治4年8月、廃藩置県で新宮県となった。しかし同年11月分割され、熊野川から東が渡会県(明治9年に三重県に統合)、西部が和歌山県に編入された。

それにしても三重県の尾鷲市(人口 14,000人ほど)、紀伊長島などは県庁所在地の津はもとより伊勢松坂からも遠いが、元は紀州で、主邑の和歌山からはとてつもなく遠い。近畿地方の南部全体を紀伊半島とはよくいったものだ。
10:45
松の丸から鐘の丸へ入る門の跡
浅野時代は鐘の丸が二の丸で、西崖下の二の丸(現保育園)が三の丸だった。

それにしても3万5千石の城としては立派である。
昔の熊野は今よりずっと重要な場所だったのかもしれない。
10:46
鐘の丸から本丸・出丸を望む。

10:47
この城址にはまったく建造物がないが、唯一、なまこ壁の建物があった。
倉庫かと思ったら便所で、お借りした。

便所は鐘の丸から本丸に上がる途中にある。
10:49
本丸から西を見る。合流点に亀島がみえた。
写真の時刻から用を足した時間が分かる。

本丸の真ん中にソテツが植わっていたが、他には何もない。
10:51
本丸周囲の崖っぷちには「危険ですから上らないでください」と書いた看板がある。しかし登りやすいように石段ができている。落ちるのは自己責任だと思うが、注意書きがないと市の責任になるのだろうか。石段を作ったのは誰だろう。芝生の踏まれ具合から、ここに来た人たちは、市の職員も含め、縁に登って景色を楽しんでいるのだろう。

10:52
この崖下に竹林の間からお寺のような大きな屋根が見えた。それが天理教の施設だったとは帰宅後に気が付いた。

それにしても、築城時の石垣がそっくり残っていて、観光地らしい新しい建造物が何もない。廃条令により天守閣などすべての建物が明治8年までに取り壊されたのだが、いい城跡だと思った。

しかし、民有地であったため戦後の1952年、鐘ノ丸跡を中心として民営の旅館「二の丸」が開業し、日本一短いといわれたケーブルカーや遊具が設置された。その後、1979年から新宮市が主要部分を買収し、丹鶴城公園として、本丸・出丸・鐘ノ丸・松ノ丸跡などの整備を始めた。ケーブルカーの運行は、1980年11月、美智子妃殿下の訪問時が最後となった。

いま、何も知らない人が見れば、かつてビアガーデンもあり賑やかだったという城址はすっかり明治初めの昔に戻ったようで、「荒城の月」が似合う城としては日本で有数ではないか?
11:02
この下に「水の手曲輪」がある。熊野川の船着き場でも残っていれば見たかったが、石段を降りたら上がるのが大変なので行かず。

新宮城からすぐ西に、丹鶴ホールがある。
2012年学校統廃合のために閉校となった市立丹鶴小学校と、2016年に老朽解体された市民会館の跡地に立つ。
新宮市立図書館、「熊野学センター」、文化ホールの入る複合施設である。
熊野の中心とはいえ、人口わずか 25,768人(2025年2月1日)の市としては立派な施設である。
11:10
丹鶴ホールの一階ロビー
ほとんどだれもおらず、勉強している浪人生、高校生が二人いた。
テーブルがあって無線wifiが使えたので休憩がてら広島、瀬戸内の写真をアップ。
ジュースを飲みながらメモを書いて整理した。

休憩後、再び歩き始める。
アーケード商店街があった。
12:46
「神倉神社 お燈まつり」の幟を掲げている。
しかしシャッターが下り、人もいない。
人口2万の地方都市としては立派なアーケードだが、商店街としては苦しいだろう。

廃藩置県時の新宮藩は牟婁郡のうち142村(うち46村が度会県に編入)とされる。領内3万5千石の半分は年貢として、一人が1年で食べる量が1石とすれば、2万人の中心都市であった。当時の2万は大きい。昔は熊野川の水運で林業が盛んだったこともあり、もっと賑やかな町だったのかもしれない。(1980年でも 42,428人あった)

ちなみに、幟のいう「お燈祭」は毎年2月6日に白装束の約2000人の男たちが松明をもって神倉神社、ゴトビキ岩まで駆け上がり、駆け降りるという勇壮な火祭り。高倉下命が松明をかかげて神武を熊野の地に迎え入れたことを起源というが、少し無理があろう。

アーケードはここから西へ国道42号線まで続く。
しかしそちらへは行かず、東へ行くとアーケードがすぐ終わり、お城が見えた。
12:47
丹鶴町交差点で再び新宮城を望む。
道路は広く、城下町らしい雰囲気はない。
かといって、熊野速玉大社の門前町という感じでもない。
調べたら伊佐田池(いさだのいけ)とも呼ばれる堀があり、大正時代に埋められ一帯が丹鶴町と名付けられたらしい。

歩いている人も少なく、二つの大きな歴史遺産を持ちながら、普通の地方都市という雰囲気である。

さらに東に歩けば城山に潜る紀勢本線を陸橋で越えた。
もう少し東に歩けば、阿須賀神社、池田港跡、蓬莱山、新宮市立歴史民俗資料館などがある。
しかし、新宮駅に出てしまった。

目の前に徐福公園があった。
徐福は、始皇帝の命を受け、長生不老の霊薬を求め3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、財宝と五穀の種を持って東方に船出したものの、秦には戻らなかった。(史記118巻、淮南衡山列傳)
史記は古くから日本に伝わったから、各地で様々な伝説が生まれた。
12:52
駅前広場から徐福公園の中国風楼門が見える。

公園内には徐福の墓があるらしい。
墓は紀州藩初代・頼宣が建てさせた。紀州領内でもなぜ新宮だったかというのは、黒潮がぶつかる熊野は、昔から漂着者の話が多かったからであろう。

紀伊佐野に戻る電車の時刻は、
12:58、
14:27、
15:51とある。
この日は16時から社交ダンス講習会があるので15:30までに船に戻らねばならない。
14:27の電車でもいいのだが、ちょうど電車があるので徐福公園には行かず、帰った。

おかげで13:30に終わるランチブッフェにぎりぎり間に合った。

この日はクルーズでの最後の昼食、夕食を楽しみ、ダンスをして眠りについた。

目が覚めると1月18日。
何曜日だろう?
ベッド横のカーテンを開けた。
2025₋01₋18 6:58
横須賀の猿島が見える。2つのタワーはサンコリーヌタワーと
ザ・タワー横須賀中央のマンションか。
7:00 富士山と丹沢
10泊の豪華客船の旅が終わった。
王様のような毎日だった。
寒くて散らかっている家、この年齢になっても面倒な事が起きる日常。横浜港が近づくにつれ、こういう現実に戻れるか心配になる。
7:52
横浜ベイブリッジの前で貨物船が渋滞、入港は少し遅れた。

いつもどおり8時に待ち合わせて朝食。
4人で5階の和定食を食べた。下船は乗客の後となるので、そのまま3人で11階にあがり最後のフレンチトーストをゆっくり味わった。

(終わり)

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2025年2月3日月曜日

新宮1 神倉神社、熊野速玉大社と八咫烏

1月16日の昼まる一日かけた瀬戸内海クルージングも、夕方明石海峡大橋を抜けて終わった。飛鳥IIは日付の変わる前に大阪湾を出て、紀伊半島の西を南下した。

大阪湾から新宮まではかなりの距離である。古代の船なら大変だっただろう(後述)。
2025₋01₋17 0:15の飛鳥の位置

スマホGPSも沖合だと使えない。
Marine Traficというサイトで船名をasukaといれると船の位置が出る。日本近海に拡大すれば、南紀白浜の沖にいた。
ちなみに図のJP HIJ、JP SHNはそれぞれ広島、新宮のAIS港コードである。
このサイトの優れているのは自船だけでなく、他船の位置もわかることだ。

数時間後の1月17日の明け方、何やら窓の外で音がした気がして、ベッドの中でカーテンを開けると小さな船が並行して走っていた。
2025-01-17 6:28
新宮丸と書いてある。
船腹にタイヤをくっつけてタグボートのようだが、飛鳥を押すでも引くでもなく、すぐ離れていった。
6:30
6:51
空もだんだん明るくなり新宮港に入る。
この日は10泊のクルーズ(途中2回横浜に帰港)の最終日、最後の上陸地である。

紀伊半島南部は、黒潮や多雨、また捕鯨、林業などと関連し、学校の社会、地理で習うせいか、他の地域よりも知られた地名が多い。しかし自分の頭の中での位置関係があやふやになっている。
東から紀伊長島、尾鷲、九鬼、熊野市(ここまで三重県)、新宮(ここから和歌山)、那智勝浦、太地(たいじ)、古座、串本(潮岬)、南紀白浜、田辺、と並ぶ。

熊野というのはこれら全体である。すなわち、三重県北牟婁(むろ)郡・南牟婁郡、和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡、の4郡を指す。(牟婁4郡はすべて紀伊の国に属した)。現在の行政区ではこの4郡に尾鷲市、熊野市、新宮市、田辺市を加えた4市4郡(4市10町1村)となる。

鳥羽、尾鷲などは大型船は入れないが(錨泊して通船で上陸)、新宮は着岸できる。
二度と来ることはないので朝食後上陸した。

熊野と言えば熊野大社。
全国にある熊野大社、熊野神社の総本社は3つあり、熊野三山という。
3つは、熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)であり、前二者が遠く山中にあって行きづらいのに対し、熊野速玉大社はJR新宮駅から1.3キロ、歩ける。
新宮駅は、飛鳥の着岸した新宮港・佐野第3号岸壁の近く、JR紀勢線紀伊佐野駅から2駅、9分、200円。
8:38
飛鳥から下船する。
埠頭には地元観光業者が歓迎「ようこそ」の幟にテントを張り椅子を並べていた。土産物売り場、フードコーナーなど作るのかな?
飛鳥IIが用意した無料バスは勝浦港にいくらしい。
マグロ解体ショー、買い物が目的のようだが、私は一人すどおりした。
8:40
この大きな箱は後で12階から見るとベルトコンベアで岸壁とつながる砂の置き場のようだった。
8:50 紀伊佐野駅
岸壁から950メートル。
9:08 紀勢本線は単線。
電車が少ないせいもあり、ダンス講習会に出られていた乗客夫妻と一緒になった。
9:19
鯨山見跡という小さな山をトンネルでくぐると、砂浜が広がり熊野灘が光っていた。

新宮駅に着いた。
9:25
駅前の地図
さきに神倉神社に行くことにした。
歩き始めるとスマホの地図GPSがとても便利なことをつくづく感じる。
9:37
山の上にご神体のゴトビキ岩がみえた。
9:40
橋を渡り神域に入る。
(現在の)主祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神の2神。
高倉下命は、尾張連(国造)の遠祖であるが、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の始祖ともいわれる。それがなぜ祭神か、後で述べる。
9:41
鳥居をくぐって始まる参道は石段である。
「鎌倉積み」といって源頼朝が寄進したらしい。

かなり急で、胸付き坂、手つき坂である。
これは信心深い老人にはきつい。
ふもとから拝殿まで538段あるという。
金刀比羅宮ではなだらかな参道でも431段でギブアップしたが、今回は大丈夫かな。
熊野古道というのもこういう感じなのだろうか?


9:50
神倉神社の拝殿とご神体・ゴトビキ岩に到着。
ゴトビキというのは何かを引っ張るという意味かと思ったら、地元の方言でガマガエルのことだという。神話などとは関係なく、ただ形が似ているというだけの名前のようだ。

まだ熊野三山などなかったころ、この岩に熊野の神々が降臨したらしい。

記紀によれば、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)の山がこの神倉山(=ゴトビキ岩)だという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

これは沖合を航行する船からよく見えたであろう。
古代から良い目印になったと思われる。
神々が下りたというのは、人間が降ってくるわけないから、この岩を目印に海から上陸したということだろう。
9:52
拝殿から新宮市街、熊野川河口を望む

下りは上りより怖い。
手すりでもあれば楽だろうが、ないほうが良い。
ちょうどゆるゆると登り始めた老婦人がいて、頂上はどのくらいでしょうかと聞かれ、行かないほうが良いと伝えた。

10:02
「告!橋から中へ(境内)犬を入れないでください」
文章より書体が良い。

神倉神社から熊野速玉神社に向かう。
10:06
家は古く、つっかい棒をしているところもある。

10:14
熊野速玉神社 正門
石柱に熊野大権現とある。
熊野権現とは熊野三社に祀られる神々のことで、神仏習合の本地垂迹説により、仏教の仏たちが権に(かりに)現れたものとしてこう呼ばれた。

先ほどの神倉山に祀られた神々は、第12代・景行天皇の58年にこの地に遷座させられた。
そのときから神倉山を元宮、新しいこの地を新宮とした。新宮という現地名の由来である。

新しい宮は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、伊邪那岐神)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊邪那美神)を主祭神としたため、熊野速玉大神から速玉神社と呼ばれるようになった。また元宮である神倉山は神倉神社となり、速玉神社の摂社となった。

鳥居をくぐってすぐ右に小さな社があった。
八咫烏神社

八咫烏は熊野三山でカラスの姿の神として祀られている。
また、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっているが、すでに1931年大日本蹴球協会のころから採用されているらしい。神武天皇の故事から、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているという。しかし私などは八咫烏は三本足だからサッカーに有利ということなんだと思っている。(ハンドと同じ反則だが)

この八咫烏神社の説明板によれば祭神は建角見命(たけつぬみのみこと)。

帰宅後調べると、賀茂建角身命とも呼ばれ、日向国高千穂の峯に天下って神武天皇を導き、熊野では大きな烏となって飛翔、先導したとされる。その後、葛城山を経て山城国に入った神で、賀茂氏の祖となったとされる。八咫の咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチ)のことであり、八咫は単に「大きい」という意味である。
ここではカラスではなく、ちゃんとした人間(神)として扱われている。

司馬遼太郎の小説で一番心に残ったものの一つに「八咫烏」(1961)がある。初期の短編であるからあまり知られていないが、目からうろこが落ちた記憶がある。

イワレヒコ(のちの神武天皇)が日向から東征し、大阪湾から上陸するもナガスネヒコに撃退される。その後、紀伊半島のほうにまわって吉野を越えて大和に攻め入るのだが、なぜ上陸も進軍も楽な紀ノ川あたりでなく、わざわざ遠く離れた熊野に上陸し、険阻、困難な大山塊を越えたのか? また、八咫烏を道案内にしたといってもカラスと話ができるわけがない。さらに、遠征・上陸するには守備側をはるかに超える兵力を必要とするが、日向からそれほどの人数が移動できるわけがない。そうしたもろもろの疑問に答える物語である。

小説によれば、イワレヒコが率いるのは薩摩、日向を根拠とする海(わだつみ)属。背は低く、黒い肌と彫りの深い顔立ちをして漁を業としていた。大和盆地にはナガスネヒコが率いる出雲族がいた。出雲族は体毛薄く長身、大陸から来て出雲、吉備を経て大和に入り、稲作をしていた。また農耕民族に追いやられた大和の先住民は一言主を長とし、大和南部の山間部に穴居する土蜘蛛になった。

大阪湾で撃退された海族は、紀伊半島南部の海族植民地・牟婁(ゴトビキ岩が目印だっただろう)にすむ同族の助けを借りるのである。海族は黒潮の洗う土佐、紀伊などの海岸部に植民地を持っていた。遠征軍は牟婁で補給し、植民地で新たに兵も集め、体勢をたてなおした。しかし海族は大和までの道が分からない。ここに「八咫烏」と呼ばれた孤独な男が登場する。かれは出雲族と海族との混血で、その風貌から牟婁の海族の中で生まれてからずっと差別、迫害を受けてきたが、出雲族の言葉が分かるというので道案内にされるのである。

1992年に読んで忘れているので再び取り出して読んだ。
海族の剽悍さとともに、八咫烏と一言主(土蜘蛛族)によるナガスネヒコの謀殺、そして首領を失った出雲族の弱さが、数に劣る海族が征服できた要因だった。海族は戦闘と首狩りで出雲族の男をことごとく殺し、女だけが残った結果、それまで稀であった異民族の混血がすすんでいったという物語である。

境内を歩いていく。
速玉大社参詣曼荼羅 
一見古そうに見えるが、世界遺産登録を記念に作られた。
「熊野権現縁起絵巻」などを参考にしたか?
左にゴトビキ岩の神倉神社、右の熊野川河口近くに阿須賀神社(主祭神は速玉大社と同じで、より古いとされる)が描かれている。

ご神木・梛(なぎ)
樹齢千年というが、ケヤキやクスノキならもっと大きくなるだろう。
「世界平和を祈る梛木のご神木」という石柱が建つ。この木は「世界平和」など大それたものに結び付けないほうが良いと思った。
神門
掲げられた「未来につなぐ」「日本の祈り」も個人的には好きではない。
神社はなるべく静かで無言なほうが良い。

10:18 
拝殿(中央)の奥に、第一殿、第二殿が並び、その右(東)に上三殿、八社殿がある。
第一殿は熊野夫須美大神を、第二殿は熊野速玉大神を祀る。

拝殿
大きな注連縄はあるが、朱塗りなど寺院のよう。
熊野三山の「山」、熊野権現、などといった言葉からわかるように、神仏習合、仏教的な色彩が濃いのだろう。
上三殿とその前の3つの鈴門
上三殿とは左から第三殿(証誠殿)に家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ、スサノオのこと)を祀り、第四殿の若宮に天照大神を、神倉宮に高倉下命を祀る。第四殿までを上四社という。

その右にある八社殿は、前に2つの鈴門がある。これは第五殿から第十二殿までが、中四社と下四社に分かれているためである。各社の祀る神々については省略する。
熊野御幸、すなわち熊野を参詣した天皇、皇族。
23人、のべ141回。
宇多上皇(867- 931)に始まり、鳥羽上皇(23回)、後白河上皇(33回)、後鳥羽上皇(29回)が目立つ。
10:21
「世界遺産 熊野速玉大社」と大書した巨石。
こういう文言はパンフレットにでも書けばいいのであり、神社というのはもっと清らかで静謐なものだと思う。
もっとも何人もこの前で記念写真を撮っていたから、世間的には受け入れられているようだ。

境内には新宮出身の佐藤春夫記念館があった。東京・文京区にあった邸宅を移築したものだが、しかし新宮城近くの市有地に移築するということで閉鎖されていた。(来年度オープン)

速玉大社のすぐ東に熊野川があり、堤防にあがってみた。
10:29 海の方向
ちなみに、この熊野川が三重、和歌山の県境。
三重県側の小山に貴祢谷社(きねがだにしゃ)がある。神倉山に下りた神々が新宮にうつるまえにここに祀られたという。江戸時代までは両岸とも紀伊の国、すなわち両岸とも熊野、新宮であった。

川原が初詣客の臨時駐車場になっていた。
熊野川上流方向
これを40キロ近く遡れば熊野本宮大社にいく。

延長183km、日本で15位。
流域面積では26位だが流域人口は相当少ないだろう。

熊野川は1970年に一級河川の指定を受けた時は、河口の地名をとって新宮川とされた。しかし地元は本宮大社から下流を熊野川と呼んでいたため1998年、法定名称が熊野川と変更された。地元名称は、上流の奈良県では天ノ川(てんのかわ)、十津川とも呼ばれる。

(行政は合流前後の川を区別するためもあり、千曲川を犀川と合わさる川中島で信濃川に変えたように、合流地点で下流の名前に変えたがる。しかし地元民が下流の名前を使うことはあり得ない。街道が行き先を名にするのと違い、川は下流の名前にしたら重なってしまう)

平安時代、熊野三山を詣でる人々は本宮大社を詣でた後、船で下り速玉大社に来た。「川の熊野古道」といわれ、現在中間点の道の駅「瀞峡街道熊野川」下から熊野速玉大社横の川原まで16kmを下る川船が運航されている(冬季はナシ、1時間半、4300円)。

新宮は、神倉山のゴトビキ岩が海からよく見え、そのまま船で内陸まで入って行ける。
この平地が、神代から(海族により)開けた理由が分かる気がする。
降りてきた神々というのは、(陸路がなかったから)海から来た人間であることは言うまでもない。

(続く)