仕事でなくプライベートで京都に来た。
2日目。
初日の宿だった仁和寺を9時半過ぎにでて、御室の緩やかな坂を南下した。
右は双ヶ岡、左は妙心寺が広がっているはずだが、すこし距離があって、その間は一般住宅地。
途中オムロン創業の地という石碑を横目で見て、しばらくすると道脇の住居表示は御室から花園に代わった。
御室が仁和寺に宇多法皇の御所があったことから寺の別名、地名になったように、花園は駅前の法金剛院をたてた公卿清原夏野が珍しい草花を集めたことから地名になったとされる。
2022-03-20 9:47
坂を下り切って法金剛院の裏あたり、東に回り込むと妙心寺の塀と堀がみえた。
城郭のような威容。
2日目、すなわちこの日はここに泊めてもらうので、妙心寺花園会館のフロントに荷物を預ける。
身軽になってから近くのJR花園駅前からバスに乗る。
昨日、金戒光明寺下の岡崎から乗った路線を逆方向に丸太町通りを東に向かう。
東京、大阪では地下鉄がメインだが、京都はバスがないと動けない。
高校の修学旅行ではバスと市電で動いたな。
49年前、嵯峨野天竜寺に向かうバスで山梨高校の女子学生が私に吊皮を「どうぞ」と渡してくれたのを思い出した。
10:28
バスは結構混んでいた。
丸太町通りは千本通りを越えると、逆S字に蛇行する。
道に記憶があった。2003年から2年間、月に2回ほど京都に通っていたころ、宿坊はじめいろんなところに泊まったが、その中に京都っ子というゲストハウスがあった。二条城が近くでドミトリーだったので学生や外国人がいた。検索すると休業(廃業?)したようである。
バスは御苑の南をすぎ、鴨川を渡り、京大熊野寮をこえて、東大路通りのさき、熊野神社前でおりた。平安神宮の真北である。
せっかくなので南にぐるっと回って正面から入った。
10:39 応天門
平安神宮は名前こそ古いが、創建は1895年(明治28年)。
この年、平安遷都1100年を記念して第4回内国勧業博覧会が開催された。(第3回までは東京・上野公園)。その目玉が平安京大内裏の一部復元だった。当初は実際に大内裏のあった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収できず、当時は郊外であった岡崎で再現された。
祭神は鶯鳴くよの第50代桓武天皇。さらに1940年、京都で過ごした最後の天皇、第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
どんな田舎のどんな小さな神社でも、創建はできるだけ古くさせるため云われも怪しいものが多い。
その点、この神社は素性がとてもすっきりしていて潔い。
応天門から外拝殿をみる
平安京と平安神宮の対応は
大内裏―平安神宮
朱雀門(大内裏正門)ー鳥居?
朝堂院-外拝殿前の境内
応天門(朝堂院正門)ー応天門
大極殿(朝堂院正殿)ー神社外拝殿
10:43 外拝殿
西に白虎楼、東に青龍楼を備える。
復元に当たっては実物の8分の5の規模とされたから、かなり広かったことが分かる。
外拝殿のうしろにある内拝殿、本殿は1976年、新左翼活動家により放火焼失、1979年に再建されている。
初めてきたのは1978年3月だが、しっかり覚えているのは2004年2月。
この近くのホテル、トラベラーズインから境内を突っ切って京都大学まで歩いた。
10:46
外拝殿は大内裏の中の大極殿(だいごくでん)を模していて右近の橘がある。
しかしこの足場は何だろう?
1978年3月の写真を見たら、やはり右近の橘は鉄パイプで囲まれていた。
本殿のほうは行かず、先を急ぐ。
応天門の前は冷泉通り、南に渡るとイベント広場の岡崎公園だが、一般神社の境内に当たる。応天門からまっすぐ南に歩くと大鳥居。
11:01
大鳥居の右(東)は京都市京セラ美術館
京セラが寄付したわけではなく、1933年、上野の東京都美術館につぎ自治体図書館としては二番目に建てられた。2019年に京セラが命名権を買ったもの。
11:03
京都トラベラーズイン(写真右)。
白川・鴨東運河(左)のお濠をはさんで平安神宮の真ん前にある。
2004年から2年間ほど月2回京都に来ていたとき、初期のころ定宿になりそうだった。
インクライン、哲学の道、南禅寺、知恩院にも近い。
しかし肝心の職場、丹波口は遠く、朝の散歩で周辺を一通り見てしまうと、
京都の他の場所も見たくなり、ここに泊まることはなくなった。
でも懐かしい。
堀に沿って東に歩くと対岸に岡崎動物園のキリンの首が見えた。
11:07 南禅寺船溜
この堀の場所は、もとは白川が流れていた。しかし琵琶湖疎水開通で、水運を使うため鴨川から運河を掘ったことで、この部分だけ東西にまっすぐ人工的な水路になった。
平安神宮を本丸、岡崎公園を二の丸とする城郭の堀のようになっている。
南禅寺に行く途中、船溜まりの対岸にいくと琵琶湖疎水記念館がある。
無料なので入ってみる。
11:12
疎水の着工は1885(明治18)年。京都市民への上水供給、琵琶湖と市内をつなぐ水運、発電など産業振興が期待されたが、当時の土木建設の常識を超え、京都府の年間予算の約2倍という巨額の費用と5年という歳月を費やした。この背景には、明治維新で天皇、公家が去って活気をなくした京都を再び繁栄させるという目的があった。
記念館で一番面白かったのは、各年代の地図。疎水ができる前、白川が斜めに流れ、平安神宮(着工は1893年)の場所は空白の農地になっている。
11:22
インクライン跡が遊歩道になっている。
inclineなら斜面という普通名詞だが、蹴上インクラインを略して固有名詞のようだ。
南禅寺船溜まりから、疏水上流の蹴上船溜まりまで、高低差36メートル、全長582m、世界最長の傾斜鉄道跡。
船運が盛んだった1891(明治24)年から1948年まで、荷物を積んだままの船を運んだ。
船は蹴上からはトンネルをくぐりながら琵琶湖(滋賀大津)までいけた。すなわち大阪湾から伏見を経て琵琶湖までつながった。
2004年1月、シミレーションプロジェクトの京都出張にも慣れ、京都市内だけでなく、大津にも泊まるようになっていた。
浜大津に泊まり早朝に三井寺を訪ねた時、この疎水が山に入る場所に偶然出くわしたことを思い出す。
長らく疎水における船の運航は途絶えていたが、2013年新たな観光資源として注目された。蹴上から大津まで7.8km、疎水における観光船の復活の検討が始まり、2018年春から営業が始まった。料金は曜日、時期によって異なり、片道5000円から8000円である。
インクライン跡をわたる橋から南禅寺の参道が続く。
先を急ぎたかったが、疎水を見た後なので、ついでに水路閣をみにいった。
石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と叫んだ山門をくぐり(今の山門は後世に再建されたもの)、水路閣を見た。閣というと二階建ての御殿を思うが、レンガつくりの高架橋である。琵琶湖疎水の支流として北上し市内の灌漑、上水となったわけだが、このおかげで哲学の道ができた。
11:24 南禅寺参道
南禅寺というと湯豆腐。
しかし修学旅行に行った1970年代と比べ、観光客の湯豆腐へのあこがれは少なくなった気がする。いまは京懐石や創作フレンチなどが喜ばれ、忘れられたかのようだ。しかし、この辺りは湯豆腐の幟がはためいている。
渡辺淳一「野分」(1982)を思い出す。妻のいる主人公が学会から帰ってきて京都駅で恋人と待ち合わせ、タクシーに乗ると「南禅寺」と告げる。このあたり、祇園など繁華街と山を隔ち、閑静な森の中に料理旅館、ホテルが点在していたのだろう。
南禅寺は割と好きで1978、2003年は記録にあるが、何回来たか定かでない。しかし、この寺が京都五山、鎌倉五山の上に位置する、禅寺の中で最高の格式を持つ寺だと、今回初めて知った。
(写真略)
(続く)
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