2022年11月10日木曜日

弘前大学・太宰治と遮光器土偶

夜行バスで朝弘前に着き、弘前城を見て南下した。
 弘前大学に来た。
2022‐11‐02 11:10
歴史ある大学はその町一番の観光スポットだと思う。

正門入ってすぐ、ステンドグラスと時計が目立つのは事務局棟

ここには旧制弘前高校があった。
国土地理院の1960年代の航空写真を見れば、まだ寄宿舎などが残っている。

司馬遼太郎は、帝国大学の予科であった旧制高校進学にあたり、数学が苦手であったため一番受かりそうな高知高校と弘前高校に絞った。そして風土として高知より文化の薫り高い弘前に決め、大阪から20時間かけて受験に来たが不合格。後年、酒席でこの話がでたとき「でも、数学でゼロ点だったら国語や英語で80点、90点もとれるんですか?」と同席者に指摘され、「そんなもん・・・・」と絶句の後、「数学が苦手だからそんな計算分かるわけないやないか」と笑わせたそうである。

11:15
弘高生青春之像
となりに全在校生の名簿がある。
第1期・大正10年入学(202名)から第28期・昭和23年入学(201名)まで5325人の名前が刻まれていた。
「入学者ベースで卒業者ベースではありません--戦死、病没、思想など、がいせんされた方もおりますので」と碑文には似合わない優しすぎる注意書きが添えられていた。

大学資料館に行ってみた。
このあたり、旧制高校時代は寄宿舎があった場所。

平日でもあり、当然誰もいないが、事務室に職員の方が一人暇そうにいらした。
11:21
新制弘前大学は、官立弘前高校(創立1920)を中心に、青森師範(1876)、青森青年師範(1931)、青森医専(1944)が合わさって1949年にできた。
ちなみに青森医専は創立まもなく青森空襲で焼失。弘前移転後、大学令で1948年弘前医大となった。しかし両校は1951年、1960年まで存続した。
忙しいのでじっくり見れない。

11:23
電池がなくなったので学生食堂に行き、充電させてもらった。
11:54
充電中、学食を経験してみればよかったのだが、時間がないこともあり、家に余っていたどら焼きやらみかん、フルーツゼリー飲料など持ってきていて、それを食べ、急いで資料館に戻った。

11:57
太宰治・津島修治の弘前高校時代のノート。
修身のノートに顔の落書き。
そういえば『人間失格』の主人公(太宰の分身?)は絵描きを目指し、売れない漫画家になっていたな。

太宰は青森中学を出た後、ここを経て東大仏文に進んだ(無試験、ほとんど登校せず5年後中退)。

慌ただしく資料館を後にする。

昼休みになって華やかな若者たちが外で日を浴びながらランチする脇を通り抜けると、総合研究棟の前に北日本考古学研究センターの無料展示室の案内があった。

青森県は三内丸山遺跡で有名なように、縄文時代、日本で最も豊かな地域の一つで、多くの遺跡がある。弘前近辺も昔は北方に十三湖の内海が入り込み、遺跡が多い。遮光器土偶で有名な亀ヶ岡遺跡などの発掘調査は、もちろん弘前大学が中心となった。文系学部だけでなく出土品の科学調査には理工学部や農学部も協力した。
12:05
二階に上がると受付があり、住所と名前を書く。
普通の教室(研究室)をまるごと展示収蔵庫にしている。
2005年に人文社会学部に亀ヶ岡文化センターが設立され、2014年に改組されて北日本考古学研究センターとなった。北東北3県を中心に活動し、サハリン、函館などの機関とも共同研究しており、名前は確かにこちらのほうがよい。
亀ヶ岡は、江戸時代から得体のしれぬ甕が出土したことで甕ヶ岡と呼ばれ、それが亀の文字に変わったとか。
12:08
昼休みで私のほかに一人女子学生が見学していた。
将来この研究室に進学するのかな。
私もこんな道に進みたかったと少し思う。

12:10
遮光器土偶の実物を初めて見た。思ったより小さい。
遮光器というのはエスキモーが光まぶしい雪原で使うサングラスのようなもの。
古代人は写実などつまらないと思ったのか、好きなところ(神秘的なところ? 目とか乳、太もも)を「芸術」のように強調した。

受付の女性に組織について聞くと、廊下の向かいの収蔵庫もカギを開けて入れてくださった。
12:11
こちらは成田彦栄氏から寄贈されたコレクションである。

12:12
時間がなかったので申し訳なかったが、早々に退出した。
彼女は受付だけで考古学の専門家でなかったのが幸いだった。

この後、キャンパスの南のほうにある農学生命科学部にいき、弘前第八師団司令部跡をみた。植え込みの中に隠れた石碑がひとつだけだった。(別ブログ)
12:23
大学を後にして、駅に向かい、県道(昔は師団通りと言った)を渡り、国立医療センター(昔の陸軍病院)を過ぎ、偕行社をみにいった。(別ブログ)

偕行社を現在保存している弘前厚生学院の正面に回ると、道の向かい(東)に何やら名所らしき看板が。
12:39
太宰治  学びの家・旧藤田家住宅
無料だが入る暇なし。説明文も読まずに去らねばならなかった。

ふと、弘高生青春之像となりの、全在校者が刻まれた名簿板で津島修治の名前を探さなかったことに気が付いた。

ひたすら歩いて弘前駅に着く。
この日は青森で降りて、八戸まで行かなくてはならない。
脚と股関節が痛くなった。
12:58
13:06発の青森行きに間に合った。
発車ベルの代わりに津軽三味線のメロディが鳴った。
13:14
稲刈りの終わった田んぼが広がる。
弘前はリンゴの産地だからもう少し山があるかと思ったら、弘前平野という言葉がぴったりに野が広がっていた。

ここで岩木山を撮るのを忘れたことに気が付いた。
弘前城にいた朝は雲が残っていたが、弘前大学医学部から本部キャンパスに向かって歩いているときは汗ばむほど晴れ、振り返ったら岩木山の頂上が見えた。もう少し全容が見えるところで撮ろうと思って忘れてしまった。

弘前から離れていく電車内で地図を広げていると、歩かなかったところで茂森の禅林街と新寺町寺院街が目についた。2か所とも異常なほどお寺が集まっている。茂森のほうは一番奥に津軽家の菩提寺・長勝寺があり、一帯は弘前の南西の守りとして戦時に兵を籠めておく場所だったらしい。行くべきだったと思うが、体力的、時間的に無理だった。
地図にはその西に弘前市りんご公園があった。
岩木山が大きく見えるのではなかろうか。
そして各種リンゴの説明展示などあるかもしれない。
シナノゴールドなどが出てきた今はむつ、フジ、あかねも古くなったが、それ以前、信州のリンゴ農家の子供として親しんだ、懐かしい国光、紅玉、スターキング、インド、ゴール、お盆リンゴ(旭、祝)の説明もあるかもしれない。
行ってみたかった。

弘前行きは急に決めたから調査不足であった。
(もっとも、いつも現地に来てから地図を見て目的地を決める、行き当たりばったりである)

自分の年齢を考えればタクシーで回ればいいのだが、まだもったいないと思ってしまう。といって公共交通を調べるのも面倒くさく、歩きはじめてから毎回後悔している。

(続く)

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