高速夜行バスで弘前に朝、到着。
弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)
2022-11-03 13:53
いま盛岡城址(岩手公園)はあちこち石垣を直している。
13:55
烏帽子岩(兜岩)
盛岡で一番感動したのはこの岩。
南部27代、盛岡藩2代の南部利直の時代、盛岡城築城の際、三の丸予定地に邪魔な石があった。どかそうと掘ったところ、掘れば掘るほど石は大きくなる。とうとう大きさ二丈(実測で高さ6.6m、周囲約20m)の烏帽子岩が現れたという。途中でよく諦めなかったものだ。現場監督が怖かったのだろう。
しかし今見れば、その下にもっと大きな岩が見える。
13:56
桜山(さくらやま)神社
神門のしめ縄から、紙垂(しで)のほか、のれんのようにモミジがぶらさがっていた。真ん中の紅葉のひもは、くるぶしあたりまである。いいセンスをしている。
御祭神は奥州南部氏初代の南部光行、26代の南部信直(盛岡藩初代)、27代南部利直、36代南部利敬の4人。
13:59
1749年、城内本丸の下、淡路丸に創建された時は盛岡藩初代信直を祭ったものだったが、1818年に南部光行、大正時代1912年に利直、利敬を合祀したという。14:00
鶴ヶ池(内堀)にかかる橋の上から下曲輪方向(北)をみる。
大通りによってお城から分離された部分(下曲輪、勘定所があった)には時鐘のほかに商業施設、飲食店などもある。
写真では時鐘(ときがね)と岩手公会堂のてっぺんが見える。
時鐘は1679年に鋳造され明治維新のころまで用いられた。
鐘銘「奥州路磐手郡盛岡県城北更鐘」にある「路・郡・県」は中国の地方行政区に擬したもので、「更鐘」は時鐘のこと。
そちらは後で行くとして、南側のお城のほうに行く。
14:01
桜山神社と鶴ヶ池の間を行くと多目的広場にでる。
古絵図では御台所と書いてある。
石垣の上は三の丸
14:03
広場の一部は石垣修復中の石置き場になっていた。
新しい石かと思ったら、いったん外した古い石らしい。矢穴がついている。
説明版によれば、この城のある丘は花崗岩の山だそうだ。
各曲輪を作るにあたり、切り出した石がそのまま石垣に使えたようだ。
古代からの平野にある弘前城、河岸段丘の根城、八戸城と違って、石材に困らなかった。
14:05
三の丸の石垣の一部は、全貌が分からないほどの巨石だった。
しかし当たり前のように、説明版などはない。
14:05
三の丸へ上る斜面から西をふりかえる。
見事な石垣の上は二の丸
14:06
三の丸に上がるとまた新たな巨石が頭を出している。
もう少し奥のほうに烏帽子岩の頭がある。
盛岡城の土をはげば、オーストラリアのエアーズロックのような巨石なのではなかろうか。
麓にあった城内地図を改めてみれば、三の丸にはこの石と烏帽子岩のほかに、2つの巨石が頭を出しているようだ。
14:07
三の丸から北側(桜山神社方面、瓦門、鳩門址)をみる。
14:08
西側
見事な石垣。昔はすぐ先を北上川がぶつかってくるように流れていたらしい。
14:14
啄木歌碑
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心
啄木は盛岡中学時代、よく授業を抜け出してきて200メートルと離れていなかったこの城で昼寝や読書を楽しんだという。その情景が見事に浮かぶ。
不来方は盛岡の古名。むかし鬼が暴れていて、神にとらえられた後、二度と来ない地として不来方と一帯が名付けられた。南部氏が三戸からこの地に来たとき、初代藩主利直が不来方の文字を嫌い森が丘と改名し、3代重信が盛岡に変えたという。
二の丸には啄木歌碑のほか、新渡戸稲造記念碑がある。
14:19
二の丸(左)と本丸を結ぶ渡雲橋(御廊下橋)
ここが岩山だったとすると空堀でも掘るのは大変だっただろう。
石は豊富でも、切り出し加工し、さらに積むには高度な技術を必要とした。
それにしても大きな木も生えているお城が本当に岩山だったのか?
(続く)
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