2022年11月18日金曜日

八戸藩と三八城公園、町名の数字

青森県に来て八戸のビジネスホテルで荷を解いた。

計画では翌日八戸から盛岡に移動、日中見物して高速夜行バスで帰京する。

盛岡も見るところがいっぱいあるので、なるべく早く八戸を出発したい。
しかし八戸でも八戸城と根城を見たい。

ホテルの朝食は6:30からという。
それなら朝5時に起きてホテルに近い八戸城を先に見てしまおう。そうすれば朝食のあと根城だけ見て盛岡に行ける。我ながら良い考えだと早めに寝た。

私は基本的に目覚まし時計は使わない。何年かに1度、遅刻の許されない未明の朝は妻に目覚ましをセットしてもらうことはあるが、在職中の学会出張でもホテルで目覚まし時計は使わなかった。

今回も起きられるだろうと思ったら、前夜の夜行バスと昼間の強行軍で疲れたのか、起きたら6時半近くだった。早くも名案は崩れる。

仕方がないので朝食を急いでとって八戸城に向かった。
2022‐11‐03 7:00
セレクトイン本八戸駅前を振り返る

地図を見れば八戸城は駅の反対側、すぐそばにある。本八戸駅のすぐ南が崖になっていて、その上にお城があるはず。しかしそこに上がる道がない。
あてずっぽに西に歩いていくとようやく崖を上がる階段を見つけた。
7:03
城壁は石垣ではなかった。
土が崩れないようにコンクリートで花壇が作られている。

昔の城は(山城をのぞけば)館を大きくしたようなもので、たいてい濠を掘った土をかき上げて土塁を作った。安土城以後は天守閣と石垣という城が増えてくるのだが、東北は遅れていた。その意味で早い時期に石垣と天守を作った弘前城は、津軽為信の中央指向、先進性が目立つ。

上がると広い平地で、市街地にある普通の公園のよう。

7:05
城らしいものが何もない。

ようやく大きな石碑があった。
八戸城址碑
昭和3年に建てられた八戸城を説明する石碑。
口語訳文がある。

ここは南部氏の一族、八戸氏(根城南部氏)が南北朝時代の1334年、根城を本拠地としたとき、同時に建てられた館(支城)が元になっている。
根城南部氏はその後、宗家の家臣団に組み込まれ、江戸時代になって1627年、宗家の盛岡藩初代、南部利直により遠野に移封され根城は廃城。八戸は盛岡宗家の直轄地となった。

その後、1664年、盛岡藩2代・南部重直は実子がなく、後継を決めずに病没したため、幕府の命により遺領10万石を重直の2人の弟、七戸重信の盛岡藩8万石と、中里数馬の八戸藩2万石に分けた。中里数馬は南部直房と改名し、根城でなくここ八戸の館を改修し居城とした。

7:07
八戸藩初代、南部直房公座像

西側の崖の縁を戻るように歩いていくと岩岡徳兵衛像。
九代目市長というが、ふつうの政治家がこういう公的な場所に像を立てていいものだろうか? 業績を上げたと言っても税金を使っただけで。
まあ八戸市民がいいのならいいが、政治家というのは支持者だけでなく反対者もいるだろう。私財をなげうった民間人や歴史人物なら良いが。
7:10
岩岡像の北、上がってきた石段まで戻り、北方を見ると本八戸駅の向こうに泊まったホテルが見えた。この城はJR八戸線の走る北側と、西側が崖になっている。
海は見えなかった。
八戸城公園だと思っていたら、三八城(みやぎ)公園という。
三戸郡、八戸町、八戸城から一文字ずつ取っている。
暴走族の夜露死苦みたいで、八戸城址公園のほうがすっきり分かりやすいではないかと思ったが、明治になって御殿跡に三八城(みやぎ)神社が建てられ、それが昭和32年の開園時に公園名になったという。
7:14
その三八城神社
あまり整備されていないところが風情ある。1878年創建。
甲斐源氏(武田、佐竹、南部、小笠原)の祖、平安時代の新羅三郎義光(~1127)、奥州南部氏の祖である南部光行(1165?~1236?)、そして八戸藩初代藩主・南部直房の3人を祭る。明治時代に作られたから、祭神も南部氏の系図を考え節目節目の代表を選んでいる。

神社の南は八戸市公会堂。
その前に文学碑。
三浦哲郎文学碑
ずっとてつろうと思ってきたが、てつおであった。
八戸の呉服商に生まれ八戸高校から早稲田に進んだ。
「忍ぶ川」は昔読んだ。
二人の姉の自殺を入れた自伝のような暗い話だったことを覚えている。
1960年の芥川賞作品だが、当時は左翼運動と暗い内面を見つめるような私小説が流行っていた。

7:16
最初に西から上がったときは本当にここが八戸城かと思ったが、あれは公園裏口で、こちらの市街地のほうから入ればちゃんと立派に八戸城跡とかいてあった。

7:20
公園入口を市街地のほうに出ると、本八戸駅から来る道路の向かい側に古い門があった。
説明版がしゃれている。
「この門は八戸城の一部らしいですよ。「棟門」ってゆう構造では全国でも最大級なんだって」 

八戸城角御殿表門という。青森県重宝。
「古桜門」とも言われ、現在は南部会館という市民の集会施設の表門になっている。

ここから南は官庁街である。
八戸市公式サイト「八戸藩開藩350年」から

崖に囲まれた北西の隅、三八城公園が本丸、それを囲む二の丸に市役所や南部会館などがある。

7:21
右手前から八戸市庁、交番(二階建て)、八戸商工会館(6階建てビル)
そういえば、県庁とは言うが県役所とは言わないな。

道の真ん中にヒマラヤスギがある。
木の脇に「明治天皇八戸行在舊跡」という石柱あり。
戦前、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物は明治天皇聖蹟として、377件が史蹟名勝天然紀念物保存法(1919公布)にもとづいて史跡に指定された。そのため八戸では道路を作るときそこを避けて昭和10年(1935)ロータリーが完成した。もちろん戦後は史跡の指定は解除されたが、ロータリーはそのまま残った。ヒマラヤスギの樹齢は90年というから計算は合う。

ここから八戸のもう一つの城、根城まで行くのだが、2.8km、36分、遠い。
普通の人はバス、タクシーだろう。しかし移動ではなく36分の八戸見物と考え、歩いていく。

市役所と南部会館の間の道をさらに南に行くと三日町交差点に出た。
八戸にも本八戸にもなかった都会らしい中心街があった。
7:24 
三日町交差点。
「札の辻」とあるから八戸の町人町に高札をだす中心地であったのだろう。
今はダイワロイネットホテル、岩手銀行、みちのく銀行、秋田銀行、さくら野百貨店、タリーズ、なか卯、いろはにほへと、

根城に行くので、さくら野百貨店の角を西に曲がる。
7:25
八戸の町人町は江戸時代の街路も町名もそっくり残っている。
町名も面白い。
歩いているさくら野百貨店(三日町)の表通り(国道340号)は、
西から、廿三日町、十三日町、三日町、八日町、十八日町、廿八日町
この南、裏通りは
西から、廿六日町、十六日町、六日町、朔日町、十一日町、廿一日町
つまり
23、13、3、8、18、28
26、16,6、1、11、21
この12町、12個の数字は何か?

新潟の十日町、六日町などは市の開かれる日だが、ここは城下町で区割りされた町名だから市場を開く日ではないだろう。29か30日という旧暦一か月を12で割れば、2日か3日間隔。
なにか道路清掃とか火消し、勤労奉仕のような、月に一度、町ごとに回ってくる当番日だろうか。

数字の並びに法則性があるようにも見える。
札の辻のところで、1,3,6,8と回った後、外に離れていくのだが、隣の10日後に回ってくるという順番か。
こうすれば表通りと裏通りの1の位をたすと9になるが、この数字は縁起が良いとされたらしい。1,4,6,9として10ずつ離れていけば足すと10になり、こちらのほうが良い数字のような気もするが、月によって29日、1日と連続することがあるから駄目。1358は表裏をたすと同じにならないが、2479なら表裏を足して11となる。

7:27
木のリンゴ箱だろうか。
懐かしい。長野では大分昔にプラスチック製になった。
子どものころ、母がこのリンゴ箱に紙を貼って本棚などにしてくれた。
リンゴ以外にも一年中野菜など色々入れた木箱だったが、子どもには重かった。

7:30
表通りと裏通りの並行する二本の道路があるので、これだけ広いのに一方通行である。
休日の朝7時半だから車が少ない。

路上で見た散策マップの案内板に安藤昌益居宅址が載っていたので、わき道に入る。
7:32
安藤昌益居宅址
江戸時代、夏のやませでたびたび凶作に見舞われ飢え苦しんだ八戸の農民をみて、武士も商人も百姓に寄生しないで働けと言った。戦後左翼が強くなって、その農本的共産主義を主張した独創的思想家が脚光を浴びたらしい。しかし私は30代過ぎまで知らなかった。
司馬遼太郎は彼を小説の主人公にはしなかったが、数多いエッセイなどで何度も書いている。
さくら野百貨店の反対側に記念館があったはずだが、時間がないので行かなかった。
というかこの時間では空いているはずがない。
散策マップにはこの近くに川端康成夫人の生家が書いてあったが、もちろん先を急ぐ。

根城に向かって表通り(国道340号)をずんずん西に歩いていくと、都会的な商業ビルが一切なくなった。
7:38
八戸には、今や少なくなった昭和らしい町並みが残っている。
7:38
その一軒を道路から覗くと、なんか懐かしい。

表通りはT字路に突き当たる。
スマホの電池が気になるが、現在地を確認して右に曲がると坂をおりていく。
7:42
体育館のようなものがみえた。
YSアリーナ八戸。長根運動公園である。
根城や八戸城のある馬淵川河岸段丘の谷間の湿地、沼を埋め立てたらしい。
根城までの道のようやく中間点である。

二つの城を見るほとんどの人は、車で移動するから、地形や時間は分からない。
中世の武士が本城と支城を走ったらどんな感じか、歩かないと分からない。
と、歩くのに飽きた自分に言い訳した。
(続く)



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