2024年4月7日日曜日

ナバナ、のらぼう菜、かき菜の違い。同じもの?

秋冬野菜はアブラナ科が多い。

白菜、大根、キャベツ、小松菜、カブ、野沢菜、水菜、
春になると一斉にトウ(薹、抽苔)が立ち、花が咲く。
菜の花である。

トウが立つと、大根の根など可食部が筋っぽくなるし、白菜などは葉の間隔が広がって柔らかい部分がなくなってくる。だからトウが立つ前に出荷され、町の人がトウを見ることはない。(ブロッコリーはトウを食べる)

しかし自分で作っていると食べきれずに春になり、多くがトウ立ちする。そしてトウも食べたくなる。(いや、食べたいわけじゃないが、捨てるのがもったいない)
食べようとするが妻は「食べるものじゃない」といって使ってくれないため、トウ立ちはできれば避けたい。

白菜は2月終わりに蕾ができ、トウ立ちの気配がした。
そこで太陽を浴びるより収穫して暗室に置いたほうが、トウ立ちは防げるだろうと思って取った。
2024₋03₋16
しかし暗室でも成長は続け、トウが伸び、蕾はついに満開となった。
また冷蔵庫に保存したものも中心でトウがのびた。
根はないから、葉っぱから水分を移動させ育ったのか? 
これでは葉が筋っぽくなるわけだ。

菜の花は春の光を燦燦と浴びているが、トウ立ちと開花に日光は必要ないということだ。
2024₋03₋16
トウが立つと、本来食べる部分は硬くなったりまずくなったりすると書いたが、トウ自体は旨いと思う。太くて柔らかい。キャベツ、大根のトウは旨くないが、白菜、野沢菜などのトウは美味しい。

アブラナ科の中にダイコン属とアブラナ属があり、アブラナ属の中にキャベツ種とアブラナ種がある。アブラナ種のなかに白菜、小松菜、カブ、野沢菜などさまざまな野菜がある。
(すなわちアブラナ種の野菜たちは昔から選抜してきた栽培品種であり、学名・生物学的には同じBrassica rapaであり、交配する。) これらアブラナ種のトウがうまい。

(アブラナ科の属、種については以前書いた)
20190227 アブラナ科とは何か
2024-03-29
この白菜は苗の植え残り。
成長悪かったが花はちゃんと咲いた。

トウで一番うまいのは野沢菜だと思うが、これは市販されない。
信州で秋、漬物用に大量に野沢菜を収穫するが、畑に忘れられたように何株か残る。それらは雪の下になり葉は枯れ腐るが根株は生きている。それが春になってトウが伸びてきて蕾をつける。太くて柔らかく、ほんのり苦い。
しかし信州でもほかにいくらでも野菜はあるから、わざわざ食べることはなく畑に放置され菜の花が咲き、そのうち抜かれたり耕運機で土にかき混ぜられたりする。そんなわけで私が初めて食べたのは1990年代、30歳過ぎてからだった。美味しくて母に話したら「畑にいくらでもある」と言われ、一緒に取りに行ったことを思い出す。

・・・・

アルバイト先のシェア畑で今シーズン、ナバナを作った。
これは菜っ葉であるが、最初から葉ではなく、蕾のついたトウを食べる。
ナバナは、のざわ菜、こまつ菜、みず菜のように「なば菜」ではなく、「菜花」である。つまりナバナは菜の花、食べる部分を言う。だから苗や植物体を言うときは「ナバナ菜」というべきだと思うが、バイト先では事務局もアドバイザー(アルバイト)も誰も疑問に思わず、苗の段階から「ナバナ」と言っていた。

バイト先で苗が余り、植えるスペースもないため大部分捨ててしまったが、4株だけ家に持ってきた。冬を越してトウが伸び、初めて食べたが柔らかくて旨い。同じ生物種であるからか野沢菜、小松菜のトウに味は似ている。
2024-04-07
我が家のナバナ

しかし本当はどういう品種なのだろう? 「ナバナ」は食べるときの名であって植物名ではないし、かといって「ナバナ菜」なんて聞いたことがない。
ネットで調べると、候補としてノラボウ菜、カキ菜、冬菜が出てきた。

のらぼう菜は、江戸時代から多摩地方、埼玉西部地方で栽培されてきた。セイヨウアブラナの変種とされる。闍婆菜(じゃばな)ともいう。
埼玉の比企郡は、市場性のある特産農産物がなかったが、普及指導員が2004年に地元でのらぼう菜にまつわる江戸時代中期の古文書を発見し、伝統野菜として特産化に向けた重点指導を開始。現在では特産野菜にまで成長したという。

かき菜は柿菜と書く人もいるが、手で若芽を掻き取ることからこの名になったとされる。こちらは在来種のアブラナという。群馬、栃木など北関東に多い。

ノラボウ菜とカキ菜は、外見はそっくりだが、カキナは2月下旬から収穫がはじまるのに対して、のらぼう菜は3月下旬から4月に旬を迎えるという。
ノラボウ菜の葉
「じっちゃん」のブログ
https://ameblo.jp/o137asobo/entry-12436756394.html
のらぼう菜は葉脈のところにトゲがあるという。

我が家のナバナはトゲがないからカキナということになる。しかしトゲのあるなしはこの人のブログでしか見つからない。アブラナ属アブラナ種の植物は種が同じなのだから交配しやすく変種も出やすいだろう。だからトゲのあるカキナがあるかもしれないし、トゲのないノラボウ菜もあるかもしれない。
色々ネットを見ているとノラボウ菜と掻き菜は「同じもの」という人もいた。案外、多摩、埼玉のノラボウ菜とされる中にもカキナが入っていて、北関東のカキナの中にもノラボウ菜が入っているのかもしれない。

だいたいノラボウ菜=外来種、カキ菜=在来種というが、本当だろうか? 
(菜種油の生産量などで違いがあっても)外見で区別がつきにくいものなら、どこか(地域、時代)で植物体も名前も混じったり交差したりしているだろう。

私は疑い深いから、ネットの記事をそのまま信用しない。誰もが検証もせずに自由に発信しているのだから、自分の知識の延長線上にあるものだけ信用する。

誰か産地の違うノラボウ菜を10本、同様にカキナから10本、標本を集め遺伝子を調べてもらえないだろうか。ほとんど塩基配列が同じだろうが、違う部分を探して、2つの標本群であきらかにグループが別だというデータが見たい。

それを見るまでは、カキナとノラボウ菜の違いなどは書けない。
2024₋04₋07
巨大化したナバナ。
ソラマメ(手前)を圧迫しているから抜きたいのだが。

なお、冬菜は、北信濃の実家にあり、春になるとトウが立ち、気が向くと穂を摘んで「なばな」を食べた。ネットで調べると小松菜だと書いてあった。しかし私の記憶では小松菜とは明らかに違う。実際「信州 冬菜」で検索したらいろいろある。松本冬菜は小松菜に似ているが、善光寺冬菜は全く違う。

菜っ葉の名前は、地域が違うと同じ名前でも違うものを指すのかもしれない。
逆に言うと同じものでも地域が違うと名前が違うこともありうる。カキナとノラボウ菜のことである。

ちなみに、桃の節句のころスーパーに売っている南房総の名産「菜の花」は、「食用ナバナ」で、種、植物体としては、「CR栄華」、「サカタ88号」という品種らしい。
こういう情報は信用できる。
2024₋04₋07
レタス2種、玉ねぎ。向こうは春菊、ホウレンソウ

それにしても私は毎日野菜を茹で、大量に食べている。
野菜は健康にいいというが、これも私は信用していない。
ただもったいないだけである。
ようやく白菜、カブは終わったが、小松菜は食べる暇がなく穂先(ナバナ)を数本摘んだだけ。
茎ブロッコリー、春菊、ホウレンソウも思い切って片付けるまでは、無理しても一人で食べ続けるだろう。私にとって野菜は体に悪いかもしれない。
2024₋04₋07
ナバナと茎ブロッコリー
とっくに飽きているが、もらってくれる人もおらず、今日も一人で食べる。



2024年4月3日水曜日

ジャガイモ発芽、三太郎大根、柿の新芽、桜の記憶

3月は気温の変動が激しかった。
そして東京の桜の開花は3月29日、早かった昨年より15日も遅く、平年より5日遅かった。しかし平年より寒かったかというとそうでもなく、寒かったのは3月18日と28日の2日間に過ぎない。平年より暖かかったのである。これはどういうことか?

平年開花の3月24日付近を見れば、23日から気温は高いが雨が続いていた。つまり、気温ではなく日照が問題なのではないか? 日が当たればその部分の温度は上がるわけで、人間と同じように、桜も気温より体感温度のほうが重要なのだろう。

この間、千駄木菜園は、ただひたすら白菜、大根、春菊、ホウレンソウなどの消費に努め、夏野菜の準備は何もしなかった。
わずかにジャガイモを植えた。
2024₋03₋11
ジャガイモ植え付け
2024-04-03
ジャガイモ発芽
ネコに掘られないよう不織布など覆っていたが、剥がしてみたら芽が出ていた。
昨年は食用芋に出た芽を早めに植え、かつビニールで保温促成栽培を試みてモザイク病にやられたが、今年は標準法で作っているのでどうか?
(今年も種イモでなく長野からもらった食用芋だが)

やはりもらってきた玉ねぎが発芽し、その芽だけを埋めていたが、春が進むにつれ、分けつしてきた。このままだと小さい玉ネギになってしまうため掘り出して切り分けた。
2024₋03₋11
2024₋03₋11
これで玉ねぎは、1実生(2系統)、2自家屑玉ねぎ、3発芽玉ねぎの芽、の4種類育てることになった。収穫が楽しみ。

大根は2月26日ころトウが立ってきた。
トウが立つと根部の外縁部が固い網目のようになって筋っぽくなる。
そこで抜いて冷蔵庫に入れたり人にあげたりした。
残った2本を3月3日、昨年同様不織布に包んで地中に埋めた。
2024-03-27
埋めてから3週間目に掘り出した宮重大根
煮ると普通に食べられた。

9月4日に種まきして11月下旬から収穫、24本のうち22本までが1キログラム越え、最大2.3キロ以上(測定不能)という豊作だった。宮重大根は2014年以降毎年作っていて失敗がないが、トウがたつため3月上旬までしか食べられない。
そこで昨年から三太郎大根も作り始めた。
こちらは薹(トウ)が立ちにくい。
2024-03-27
三太郎大根
サツマイモのあと10月22日にまいて18本育っている。
宮重より1か月半ほど遅くまき、収穫は3か月遅れている。
2024-04-03
三太郎大根、初収穫
葉っぱを除いて520グラム、930グラム。
宮重よりずんぐりして短い分だけ小さい。
昨年はこれほどずんぐりしていなかったと思うが。
これだけ暖かくなっているのにまだトウが立たないのは、さすがタキイの開発した時知らず大根である。

・・・・
今日は雨。
この数日、テレビでは各地の桜の様子を映している。東京は開花したものの、まだ2,3割咲きだが、外国人観光客など人出は多い。
我が家は桜がなくなって2度目の春。テレビの桜を見るたび、庭にあった巨木を思い出す。
桜の花の下で一家5人の集合写真を撮ることが夢だったが、皆協力的ではなく、朝は寝ていたり出かけたりして、そのうち皆家を出ていってしまった。
2024₋04₋03
地上1メートルの高さで幹の周囲3メートルあった区の保護樹木は切り株も巨大だった。いまも取り除くことができず、イチゴの定位置になっている。
2024₋04₋03
最近よく降る雨に柿とレッドロビンの新芽が濡れている。
桜がなくなって、我が家で一番古い木になった柿。
この家を買ってから野菜の場所を広げるため、ザクロ2本、モミジ、棕櫚、桜、山茶花、金木犀、ハナミズキと、ことごとく切り、先住者が植えた木はこの柿一本だけになった。
桜の陰にあったから大きくならず実もつけなかったが、昨年は突然363個もなった。
今年はどうだろう。

前のブログ
昨年の三太郎大根の記述



2024年3月31日日曜日

富岡八幡2 大相撲とのかかわり、宮司殺人事件

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

夕方、すべて競技が終わってから20年ぶりに富岡八幡宮に来た。
・伊能忠敬像をみて老いてからの人生の重要さを思い、
・神輿庫のなかの巨大な一宮神輿、二宮神輿を覗いて、深川祭りの盛大さを想像した。
・また天皇陛下御野立所の碑を見て、大戦末期に昭和天皇が密かに富岡八幡に立たれたことを知った。(以上は前のブログ)
前のブログに書いた3つは大鳥居から入って参道の左側に順にあるが、右側にはまず大関力士碑が木立の中に目立つ。
17:33
神輿庫のむかいの大関力士碑。
中央の石柱が一番目立つが、これは表札のようなもの。大事なのは後ろの黒っぽい石碑2つ。

この2つの石は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたもの。あとで述べる横綱力士碑を建てる際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石だったが、なぜか使われないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものらしい。

1983年、富岡八幡宮司である富岡興永氏の発案のもと、横綱になれず大関で終わった力士の名を刻んだ。江戸勧進相撲で初めて木版刷りで発行された一枚番付である1757年(宝暦7年)10月のものに大関として記されている雪見山堅太夫を初代とし、最近の豪栄道(2020年引退)まで、116人の歴代大関の四股名と出身地が彫り込まれている。

なぜ富岡八幡宮かというと、江戸勧進相撲発祥(復活?)の地といわれるからである。
江戸時代初期、相撲興業は トラブルが多くしばしば禁止された。しかし、5代将軍綱吉の11684年に勧進相撲が許された。勧進というのは寺社が建築修復資金を得るためという名目だったからである(実際は営利目的)。その時、開催されたのが富岡八幡宮の境内だった。

その後、蔵前八幡や神田明神などでも行われたが、富岡八幡宮でしばしば開かれ(31回開催)富岡八幡宮と相撲はかなり近いものだった。しかし天保4年以降は本所回向院で開催されることとなり今の大相撲につながっていく。
17:35
本殿は一段高いところにある。
ここは砂州すなわち平地だったわけで、一帯の水はけをよくするため、周囲を掘ってその土を盛ったのだろうか。
冨岡の岡はこの盛り土だろうか?

1627年創建、昔は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれていた。
宮司の姓は富岡であるが、もともと別当寺の永代寺が明治維新で廃寺となったとき、住職の第16代周徹法印が富岡姓の神主(=宮司)になったという。いつから富岡八幡になったか知らないが、盛り土の慶賀名→八幡名→宮司の姓、かもしれない。
17:35
本殿は震災、戦災でやられたから、今の本殿は1956年の鉄筋コンクリート製である。

20年前、初めて富岡八幡に来るまで伊能忠敬像や大関・横綱力士碑は知らなかった。私の勝手なイメージは深川祭りと、なぜか富くじだった。たぶんに富岡の語感から来たものである。

江戸時代の富くじは、本来寺社の修復費用をねん出するためであり、興行を許されたのは寺社のみで、谷中の感應寺(今の天王寺のところにあった)、目黒不動の瀧泉寺、湯島天神は「江戸の三富」と言われ、白山権現、根津権現など他の寺社も興行元として知られるが、富岡八幡は知られておらず私の勘違いである。
17:36
資料館は400年記念事業整備工事のため休館

本殿の右(東)が渡り廊下の下をくぐれるようになっていて裏のほうにまわる。裏参道である。
17:37
横綱力士碑
こちらは当然のことながら表参道の大関力士碑より古い。12代横綱・陣幕久五郎が発起人となって、明治33年(1900年)に完成した。
タイトルが揮ごうされた正面の巨石の裏に歴代横綱の名が刻んである。初代横綱は明石志賀之助とされるが生没年が不明で実在かどうかも分かっていない。実在がはっきりしているのは三代丸山権太左衛門(1713- 1749)からである。
石の背面は初代若乃花で埋まったため、新たに石を2つ用意して両脇に置き、現在も刻んでいる。

本来はこれだけで良いと思うが、他にも突っ込みたくなる石碑がいろいろある。

まず力士碑の前の両側の石に力士がひとりずつ描かれている。これは安政4年(1857)の陣幕と不知火(第11代横綱、しこ名通り肥後出身、土俵入りが美しかった)の対戦を表す。陣幕とは明治33年に建立しようとした本人である。この年彼は72才で自画像も彫ってある。発起人とはいえ、ずいぶん自己顕示したものだ。
(陣幕の名は北の富士、千代の富士も名乗ったが部屋名ではなく年寄名跡であり、二人とも九重部屋にいた)

また、これらの手前にもっと目立つ「出羽海一門友愛之碑」がある。いくら野球の巨人のような名門とはいえ、これも彼らの部屋の庭にでも建てるべきだと思う。

二つの門柱みたいなものも「魚かし」と書いてあるし。スポンサーなら後ろにひっそり書いておけばカッコいいのに、ギャグのようである。

「超五十連勝力士碑」というのは、揮毫される石碑のタイトルとして安直でないか?意味は分かりすぎるくらいよく分かるが。
17:38
横綱力士碑の裏は空き地。
都会では森にしておくわけに行かない。

東のほうに行くと木立の中に赤い鳥居が並んでいた。
これは稲荷だろう。正面にまわってみる。
17:40
当たった。永昌五社稲荷神社というらしい。
近隣の稲荷五社が合祀されたものらしいが、永昌の意味は知らない。
右となりは合末社(花本社・祖霊社・天満天神社・聖徳太子社・住吉神社・野見宿祢社・車祈社・客神社)の建物。屋根が一つの長屋風社殿。

稲荷の前は池。池の中島に祠。
これは弁天だろう。
17:41
当たった。七渡弁天社。
これは(も?)富岡八幡創建以前から近くにあったらしい。
池には大きな太った錦鯉がゆらゆら泳いでいる。
見れば奉納されたものらしく、奉納者が書いてある。
17:42
錦鯉奉納者には出羽海一門友愛会のほか白鵬、稀勢の里の名が見える。
一匹いくらなんだろう?
となりは現金の奉納者。八万円から二千円まで名札がある。

名簿板から後ろを振り向くと、木立の中に民家のような建物があった。
表札に富岡とある。
敷地内とはいえ、ひっそりとした一般民家のように見えるので写真を撮るのは憚れた。

深川八幡の別当寺が永代寺であり、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈で永代寺が廃寺となり、住職が深川八幡の宮司になったことは前に書いた。

すなわち16代住職・周徹イコール初代宮司・富岡有永(1838年 - 1895年)である。神仏混交時代は別当寺の住職が神社も管理していたから、初代宮司ではなく16代宮司と名乗ったのかもしれない。
以後
17代 富岡宣永 16代の養子。旧姓森
18代 富岡盛彦 17代の娘婿。旧姓沢渡
 戦後、神社本庁の設立に奔走。現在の社殿を造営、神社本庁事務総長
19代 富岡興永 18代の二男
 1994年体調を崩し退任、息子に宮司を譲る。
20代 富岡茂永 19代の長男
 1995年に宮司就任も金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題となり、2001年宮司を解任され、先代の興永が宮司として復帰する。しかし2010年またもや体調を崩し、2012年禰宜をしていた19代の長女つまり20代の姉・富岡長子が宮司代務者に就任。宮司昇格を神社本庁に要望したが認められず、2017年9月富岡八幡は神社本庁から離脱した。
21代 富岡長子 2017年9月就任

さて、多額の退職金をもらい年金も仕送りされて福岡県宗像市(八幡の本社・宇佐神宮がある)に移り住み、自家用船を所有して釣り三昧の生活を送っていた20代富岡茂永は2017年6月、東京に戻り、長子を脅迫、そして2017年12月、境内北東の通用門付近で待ち伏せし、21代富岡長子と運転手を日本刀で襲い、長子は死亡、運転手は重傷。茂永は妻を殺害した後に自殺した。

当時ニュースで現場が映され、一度だけ行った富岡八幡の境内をあちこち想像したことを思い出す。

神社らしくないスキャンダルを思いながら歩くと、神社らしくない洋風建物があった。
17:44
社務所と婚儀殿

境内には21代が住んでいた洋館があったらしいが殺害された後、2018年取り壊されたという。横綱力士碑の裏に空き地があったが、どの場所かは知らない。

まだ20分くらいしか経っていないが私の見物らしく早々に退出した。
最後に境内図を見ようと探した。
17:46
境内案内は電光掲示のタッチパネルになっていた。
20年ぶりだったから、次は20年後だろうか。
もう来ないかもしれないな。


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2024年3月27日水曜日

富岡八幡宮、伊能忠敬、佐川急便と一宮神輿

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

昼休みに深川不動を見物した。
夕方、すべて競技が終わってからまだ明るかったので富岡八幡宮に来た。深川不動同様2004年以来、20年ぶり。
2024₋03₋17 17:24
西の鳥居
このあたり現在は民家があるが、かつては西の永代寺と一体の敷地だった。永代寺が廃寺となり深川不動ができてからも、深川公園として広かったが、いまは江東区富岡出張所など建物が多く不動堂との一体感がない。
どうせなら南の永代通りに面した大鳥居から入ってみる。

17:27
富岡八幡は東京10社の一つ。
もともと天皇が祭祀の折に勅使を派遣する神社を勅祭社と呼び、畿内に22社あったが、東京遷都のあと、関東であらたに12社を選び准勅祭社とした。そのうち埼玉の鷲宮神社、府中の大國魂神社を除いた10社を東京10社という。これは以前書いた。

富岡八幡は1627年創建。多くの神社が頼朝ゆかり、役行者ゆかりとか古い創建年号を誇るが、このくらいが本当らしくて良い。当時は永代島八幡とか深川八幡と呼ばれた。
八幡神を崇敬する幕府の庇護を受け発展、江戸最大の八幡社となった。

鳥居を入ってすぐ左に伊能忠敬の像がある。
17:28
2001年建立だから前回見た時はできたばかりだったか。
建立と同時に世界測地系に準拠した国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」が横(写真左)に設置されたが見逃した。

像は低いところにあるためか、その歩いているポーズによるものか、あまり格好良くない。

1745年、名主・酒造家の二男として今の千葉県九十九里町で生まれ、17歳のとき香取郡佐原の名主で酒造家・伊能家に婿入りした。
伊能家の事業を発展させ、佐原の名主たちを監視する村方後見の役にもついていたが、長男が成年してからは、隠居したいと思うようになった。
暦学と天文学に興味を持ち、ようやく隠居を認められた寛政7年(1795)、50歳の忠敬は江戸へ出て、深川黒江町(今の門前仲町)に家を構えた。
この年、忠敬は高橋至時の弟子となった。
師匠の至時は19歳も若かったが、昔の中国の「授時暦」が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからという。のちにシーボルト事件で獄死した高橋景保の父である。

当時、高橋らがいた幕府天文方の観測所、暦局は浅草にあったが、1782年に牛込袋町(奇しくも先日行った神楽坂、日本文芸クラブ会館跡)から移ってきたものである。

忠敬は寝る間も惜しみ天体観測したり測量の勉強をした。暦をより正確なものにするには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要である。地球の大きさも緯度1度に対する距離を正確に出す必要があるため、忠敬は江戸から蝦夷までの距離を測ろうとした。1800年、幕府からの許可を得て出発する。
以後、全部で10回の測量が行われてるが、その都度、近くの富岡八幡に無事成功を祈ったということで、ここに銅像が立った。
第八次(九州)までは彼自身も歩いていき、第九次(伊豆諸島)だけは弟子に任せ、再び自ら歩いた第十次測量(江戸府内)のときは71歳になっていた。

銅像は測量棒でも持って遠くを見つめているポーズなどのほうが決まると思うが、やはりすたすた歩いている姿のほうが彼にふさわしいのかもしれない。

それにしても現代、年をとっても歩ける人は多いだろうが、国内トップクラスの勉学を続けることは相当困難で、佐原時代の業績とともに、偉人という言葉がふさわしい。

忠敬像の隣には、中が見える建物がある。
神輿庫
2基入っていたがとにかく巨大。
左が御本社一の宮神輿。高さは4メートルを優に超え、かつぎ棒を含めると4.5トン。鳳凰の胸には7カラットのダイヤモンドをはじめ、装飾の各所に宝石を配している。「日本一の黄金神輿」とも呼ばれ、1991年、佐川急便会長だった佐川清氏によって奉納された。
右が少し小さい二の宮神輿。重さ2トン。1997年奉納。

富岡八幡と言えば、赤坂・日枝神社の山王祭り、神田明神の神田祭りとともに江戸三大祭りの一つ、深川祭りである。8月の暑い盛り、神輿渡御に水をかけるので水かけ祭りともいう。

明暦の大火(1657)のあと、深川は開発が一気にすすみ、木場や問屋の集中する有力な町に成長した。経済力で日本橋に迫る江戸第二の賑わいとなり、1698年に永代橋が架橋され、また近くに隠居した紀伊国屋文左衛門が3基の黄金の神輿を奉納し(社伝?)、祭礼は大イベントとなった。1807年(文化4年8月19日)に永代橋が崩落し死傷者・行方不明者合わせると1400人を超える大惨事となったのは、深川祭りを見物するために渡ろうとした人々である。

紀文の黄金の大神輿は明治後も存在したが、各氏子町内の神輿とともに関東大震災で焼失。
1991年の大神輿はその代わりで、佐川会長は現代の紀伊国屋文左衛門といえる。
しかし4.5トンと言えば持ち上げるだけで一人20キロとしても225人、練り歩くなら何人必要か分からない。
実際、因縁の永代橋から陸あげされ、富岡八幡の大鳥居前で行なわれた初担ぎには3000人が参加し、みごとに担ぎあげたまではよかったが、あまりに大きく重すぎたため渡御どころではなくなり、これ以降は展示だけになった。
一之宮神輿、初担ぎ(冨岡八幡公式サイトから)
大鳥居と比較すると大きさが分かる。
これだけ大きいと全員が同じ方向に動くのが難しく、それ以前に物理的に方向転換ができない。

いっぽう、1997年奉納、重さ半分の二の宮神輿は3年に一度の本祭の翌年、陰祭りに氏子各町内を渡御する。といっても担ぎ棒は丸太6本、長距離は重すぎるため、氏子町内までトラックで運び、そこで担いでリレーするらしい。
二ノ宮神輿
(八幡公式サイトから)
ちなみに本祭は八幡宮の御鳳輦が渡御し(トラックに乗せ70キロ)、翌日は各氏子町内の大人神輿53~55基が勢ぞろいして連合渡御(氏子町内一周8キロ)が行われる。朝7:30から先頭が大鳥居前をスタートし、15:30最後尾到着予定まで1日かけ、水を浴びながら練り歩く。よくニュースになるイベントである。
本祭の翌年は陰祭りで、二の宮神輿がまわり、
本祭の前年は子ども神輿30数基が永代通りの一部区間を巡る。

各氏子町内の神輿は大小合わせて120基ほどあり、こちらは毎年、各町内でまわる。

以上ネットで知った。
深川祭りのサイトは非常に多いが、知りたい情報が少なく、ここに書いたことに納得していない。実際今度見に行って調べようと思う。

ちなみに昨年2023年がコロナ後の久しぶりの水かけ本祭だったから、今年は陰祭りか。
2023連合神輿ルート

巨大な神輿が入っている神輿倉のとなり、手水舎とのあいだに「天皇陛下御野立所」という石碑がある。
明治、大正、昭和、上皇、今上と、陛下が行幸した神社は全国に多数あり、こういう石碑はあちこちにある。しかしここの昭和天皇行幸の記念碑はちょっと違う。
17:34
天皇陛下御野立所碑の横の説明板

昭和19年11月から帝都空襲が始まり、以後昭和天皇は外出できなくなった。しかし20年3月10日の大空襲をうけ陛下は被災地を視察したいと希望された。 軍は天皇の戦意が揺らぐことも心配して強く反対したが、天皇が固執し、3月18日、1時間だけ、御料車から天皇旗を外し、天皇と分からぬよう沿道の警護もなしに富岡八幡まできた。そして境内に用意された粗末な机で被災状況の説明を受けたという。

終戦の8月15日は江戸時代を通して富岡八幡の例大祭の日であるから、終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
と銅板の説明の最後に書いてあった。

戦後初の本祭りである昭和23年、深川佐賀町の神輿が早朝二重橋前に渡御し皇居を拝して深川の復興状況を奏上したのは、戦争末期の天皇行幸へのお礼もあったとされる。

そして2003年の祭礼にも巨大な二の宮神輿が東京駅の行幸通りを渡御して皇居の前で拝礼した。これは江戸開府400年を記念したものでもあったが、終戦間近の昭和天皇深川巡幸への感謝もこめたとされる。
(鳥居前から永代橋を渡る永代通りをまっすぐ行くと大手門だが、東京駅正面からの行幸通りは坂下門近くに行く)

以上、参道の右側で目を止めたものについて書いた。
富岡八幡は思ったより見るものが多い。
(続く)





2024年3月24日日曜日

門前仲町の門前は深川不動ではなく永代寺

3月17日、隅田川の向こう、深川スポーツセンターでダンスの競技会があった。

午前中のラテン種目シニアの部は5組しかいなくて、大した顔ぶれじゃなく、練習の手ごたえもあったので優勝すると思ったら3位に終わった。自分と他人(審査員5人)の評価が違うことはいつものことだ。

午後はスタンダード種目だが、負けた時は会場に居たくないこともあり、昼休みに外に出た。地下鉄門前仲町のほうに歩き、深川不動にいった。
2024-03-17  12:59
成田山 深川不動堂

地下鉄東西線の門前仲町に初めて来たのは2003年。
池袋のダンスパーティでとても上手なモエギさんという方と知り合った。彼女は門前仲町駅の南のほうにある古石場文化センターでサークル練習会やパーティーを主催していた。まだ私は競技をする前で、ダンスは下手だったがはるばる埼玉から電車を4本も乗り継ぎ何回かやってきた。

その何回目だったか、2004年4月、パーティのあと初めて駅の北側にある成田山深川不動と富岡八幡を一人で見物した。両者は並んでいるから、門前仲町の「門前」はどちらの門前だろう、と考えた。
13:01
深川不動の参道の両脇には参拝客相手の店が並ぶ。
きんつば、ベビーカステラ、せんべい、仏具、揚げまんじゅう、うなぎ、

東隣りの富岡八幡の門前にはこのような商店街はない。何だか分からない人や物がご神体となる神社と比べ、はっきり人の形をした仏像のほうが拝み甲斐があるのか、参拝客も圧倒的にお不動様のほうが多い。
だから、門前仲町の門前は深川不動堂のようにみえる。

しかし、深川不動は明治以降である。昔はここに永代寺という寺があり、このあたりは隅田川の河口で中洲のような、水路に囲まれた島になっていて寺名から永代島と名付けられ、それが永代橋の名のもとになったことを以前ブログに書いた。

ブログ 

つまり、門前仲町の門前は富岡八幡と永代寺のどちらかである。
昔の地図を見てみる。
深川は江東だが、東京市15区の一つだから渋谷や新宿などと比べると古い地図が多くある。
昭和15年(1940)
深川不動、富岡八幡一帯は公園地であり、今と同じ富岡一丁目である。
都電の駅は「不動前」。西のほう、永代通りと清澄通りの交差点周辺が「門前仲町」となっている。
明治40年(1907)
東の今の富岡一丁目は、富岡門前東仲町、富岡門前町、また西のほうは富岡門前山本町、門前仲町となっている。
つまり、西の深川不動を越えても富岡門前山本町となっていて、富岡八幡の存在が大きい。深川不動はできたばかりだから地名にはなりにくい。
明治11年(1878)
今の永代通りの南側に「門前仲町」があるが、どちらの門前かこれでは分からない。

深川不動ができる前は永代寺があった。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の流れで廃寺となったが、大きな寺だった。
その頃の地図を見る。
明治4年(1871)
大栄山金剛神院永代寺がある。
しかし門前仲町という地名はなく、富岡門前町だけである、
つまり、門前は富岡八幡の門前ということだ。

永代寺は高野山真言宗の寺院で1626年に建てられたが、ほぼ同時期にできた富岡八幡の別当寺だった。別当寺というのは神社を管理する寺ということだが、神仏混交時代は宮司より僧のほうが偉かった。

念のためもう少し前、幕末の地図を見る。
嘉永5年(尾張屋版、1852)
ここにははっきりと永代寺門前町、永代寺門前仲町とある。
つまり門前仲町は本来、永代寺門前仲町で、永代寺がなくなったために富岡門前仲町になったようだ。

さて、永代寺が廃寺になってから明治29年、11あった塔頭の一つ、吉祥院(寺内にあったらしい?)が名を継ぎ、いまの参道途中、右側の小さな寺として永代寺を名乗っている。

永代寺の名は復興したが、今歩く参道はもちろん成田山深川不動のものである。
深川不動は、江戸中期の1703年、古くから信仰篤かった成田山新勝寺の本尊・不動明王像を江戸でも拝めるように、はるばる運んできて同じ真言宗の深川永代寺の境内で出張公開すなわち「出開帳」したことに始まる。出開帳はしばしば行われたという。

そして永代寺がなくなったあと、その跡地(つまり出開帳を行ったゆかりの地)に、1881年、不動明王の分霊が正式に成田から遷座され、成田山東京別院となった。
13:03
参道の突き当りは本堂だが旧本堂。
本堂は戦災で焼失したため、千葉県印旛沼のほとりにあった龍腹寺の地蔵堂を昭和26年に移築したという。江東区内最古の木造建築といわれる。
前回、2004年来た時と様子が違うと思ったら、平成24年(2012)に新本堂が竣工したという。前回は本堂(旧本堂)の後ろにあった内仏殿(2002年完成)を見学したのだが、当然、入口が違っていて、旧本堂右側から靴を脱いで入る。

入ると大きな不動明王の木像があり、今もこちらが本堂のような雰囲気。
おねがい不動尊
(撮影禁止なので深川不動の公式サイトから拝借。以下同様)
熊本天草に自生していた樹齢5百年を超える楠を使用、身の丈1丈8尺、国内最大級の木造不動尊像。

不動尊の裏を通って奥に行くと左奥の新本堂では大人数の人が祈祷を受けていた。そちらに秘仏の不動明王はあるらしい。

それを横目に枯れ川の橋をわたり、政廣不動尊などいろんな仏像を見てから内仏殿に入る。
まずエレベーターで内仏殿4階に上がる。
日本最大級の天井画「大日如来蓮池図」(中島千波)があった。
見学者は誰もいなかった。
3階は寺の事務所で非公開
2階に降りる。
四国八十八カ所巡拝所
平成10年に巡礼団を結成、3年かけて集めた四国八十八カ所霊場の砂を納めた部屋。
一つ一つ見れば、四国遍路をしたことになる。
みまもり不動尊
 開創320年記念事業(2022)で作られたという。

2004年と同じようにゆっくり見たかったが、午後のスタンダード種目があるため急いで降り、旧本堂から外に出た。
13:15
時計を見れば内部は10分くらいしか見なかった。
入場料を取ってもおかしくないのに、無料であれだけの美術品を見学できるのは貴重である。

左の新本堂の壁は梵字がデザインされていた。
前回来たときは内仏殿の後ろに首都高が目立った。
今でも少し見えるが、当時は新本堂がなかったから余計目についたのだろう。

午後のスタンダード種目は決勝ラウンドまで行ったが、シニアの部にもかかわらず19組中6位だった。
2004年初めてここに来たときから、もう少し真面目に取り組んでいたら、もっと高いレベルで踊っていたことだろう。