2021年8月19日木曜日

隅田川テラス、カミソリ堤防とアーチ橋。蔵前の東工大

 両国にきた。

千葉方面のターミナルであったころ建てられた栄光の駅舎をみたあと(別ブログ)、
隅田川に出た。

2021-08-14  12:00
ちょうど総武線の千葉行きが来た。
鉄道鉄橋をくぐり、すこしだけ川下にいく。

12:01
このあたり、両岸とも隅田川テラスという遊歩道になっている。
昔、総武線から川を見たころ、こんなきれいなものはなかったと思う。

伊勢湾台風の教訓で昭和32年から昭和50年(1975)にかけて隅田川に防潮堤が作られた。
コンクリートでできた高さ3~4mほどの直立堤防であったが、幅が薄いことと切れる(決壊する)心配からカミソリ堤防と呼ばれた。
さらに、完成と同時に人と水辺が隔離されてしまった。
そこで1980年から順次傾斜の緩やかな堤防が整備されるようになり、同時に遊歩道も整備された。すなわち隅田川テラスは市民が川に親しむとともに、堤防の根固めとして補強の役目もある。

壁には隅田川を描いた広重の絵が何枚もある。
じっくり見る時間はなく先を急ぐ。

12:02 神田川の合流部分と両国橋
合流点の柳橋には以前行った。
ここで引き返し、北に向かう。
12:06
上流側には蔵前専用橋と蔵前橋

12:06
堤防から東を見ると両国国技館

このあと国技館と安田公園のあいだの道を通って、横網町公園に行った。
ここは関東大震災で空き地に避難してきた3万8千人が、四方から火に囲まれ逃げることもできず焼け死んだ場所である。東京都慰霊堂、復興記念館を見学した。(別ブログで書く)

そのあと、ふたたび隅田川に戻る。

12:42  蔵前橋東詰め
上は首都高
蔵前橋通りということは、神田明神裏の新嬬恋坂までまっすぐつながっている。

12:43
蔵前橋のすぐ南に地図に載っていない橋がある。
蔵前専用橋というらしい。NTT東日本蔵前通信ビル(写真右側)と対岸を結ぶ。
洞道(通信ケーブル・ガス管・送電線などの専用管路トンネル)が川を渡るのに橋になったもの。日本で初めての通信ケーブル専用橋で、水道橋も兼ねる。
グーグル航空写真では水道管らしきものが見える。

ちなみに対岸にみえる都立蔵前工業高校あたりに東京高等工業学校があった。
震災後の1924年に大岡山に移転。1929年に大学に昇格(東工大)。

蔵前橋を西に渡ると左に松の木が3本。
12:45  首尾の松
由来は諸説あり、説明板が後ろにあった。

江戸切絵図を見れば、浅草御蔵の4番掘、5番堀の間に、隅田川に枝を伸ばすように生えていた。この蔵前橋から100メートルほど下流にあたる。

浅草御蔵というのは、幕府が天領から集めた米を貯蔵していたところで、船が入れるよう1番から八番まで堀がほられ、さらに外側を堀が囲んでいた。(上の切絵図では外堀が書かれていない)

この米は扶持米として旗本、御家人などに支給されたり、換金されて幕府の諸費用となった。周辺には蔵役人の屋敷、役宅のほか、武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した札差、米問屋などが軒を並べた。

明治7年に湯島聖堂にあった書籍館(しょじゃくかん、わが国最初の図書館)の書物(もとは幕府の学問所と将軍の紅葉山文庫のもの)を浅草御蔵にうつし、閲覧書を新設した。浅草文庫である。(明治8年、文部省は湯島聖堂にも東京書籍館を改めて作っている。)

明治14年(1881)、蔵前にあった書物は、上野公園に新築された博物館構内の書籍借覧場に移転し、残った建物に東京職工学校が開設された。これがのちの蔵前高専とも称された、東京高等工業学校、東工大の始まりである。

首尾の松の碑のそばから、ふたたび隅田川テラスに降りる。
12:47
さっき渡ってきた蔵前橋。台東区側から見る。
1927年、関東大震災の後の復興計画で架けられた。典型的なアーチ橋。
米蔵にちなみ、もみの黄色に塗られているというのは、こじつけのような気もするが、クイズで色を聞かれたときは、思い出すときの手掛かりになる。

12:48   首尾の松を描いた浮世絵。
スカイツリー、厩橋、浅草アサヒビールの金色モニュメントが見える。
首尾の松の枝の下で、猪牙舟にのった女が釣りをしている。
ここは米蔵だったから釣り人が陸地から近づくことはできず、魚も多かったか?
松は船からの目印にもなったことだろう。

12:51  厩橋
これもアーチ橋である。
アーチというのは両端を固定し、下への荷重をアーチ材内部の圧縮力に変えることで耐える。通路がアーチの上にある(上路アーチ)のが先ほどの蔵前橋、アーチの下にある(下路アーチ)のがこちらの厩橋。
しかし両者はだいぶ見た目が違う。厩橋などは子供が見れば下路トラス橋やつり橋の仲間に見える。いっぽう蔵前橋のすっきりした形はビーム橋(桁橋)のほうが近い。すなわち、あくまでも分類は見た目ではなく、荷重にどうやって耐えるかという力学的な構造で決まることが分かる。

12:54
江戸時代、防御上の必要もあり、大川(隅田川)には5つしか橋がなかった
千住大橋 文禄3年(1594) 、
両国橋 万治2年(1659)、
新大橋 元禄6年(1693)、両国橋が大橋と言われていたため。
永代橋 元禄11年(1698年)
吾妻橋 安永3年(1774年)である。

厩橋のあたりには「御厩の渡し」があった。
厩とは、蔵前米蔵にあった荷物運搬用の馬小屋のこと。
1874年(明治7年)今よりも約100 m ほど下流に木橋が架けられ、1893年鉄橋に架け替えられた。これによって本所から上野広小路に至る春日通がつくられた。
ここも関東大震災で被災し、1929年、今の橋が架けられた。

近くで見れば、親柱のうえにステンドグラスのようなものもある。同じ震災復興計画で作られた隣の蔵前橋とは全く違う意匠というのがいい。

厩橋を見ていたら、次女夫婦が西のほうから歩いてきた。
川沿いのカフェレストランで13時に待ち合わせの予定だった。

本来、この日は帰省するはずだった。
コロナで結婚式に出られなかった長野の弟や母に、彼女らを見せようと8月14日一緒に行く計画をしていたのだが、コロナでまたしても直前になって中止になった。せっかくの一緒の日帰り旅行がなくなって、ふだん会うこともめったにないのでランチすることにしたのだ。

14:09
彼女らが住む蔵前のイタリアン、シエロイリオ。窓側の席。
厩橋の向こうにスカイツリーが見えていたが、雨で中ほどから上が隠れてしまった。

妻と娘が向かい合ってくだらない話をしていて、目の前の彼が手持無沙汰で黙っていた。そこで橋のクイズを出してみると、さすが彼は厩橋がアーチ橋とあっさり答えた。
こちらが馬鹿な質問したと思われたまま話が終わるのも困るので、皇居の二重橋と厩橋が同じ分類というのは素人は納得するか? 荷重の分散方法で分類するのは一般人には難しくないか、と話題をすりかえた。


 20210816 両国駅の歴史、航空写真から
 

千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2021年8月17日火曜日

トウモロコシの蝉、朝顔につるべ取られて


2021‐08‐06
トウモロコシも枯れ始めてきて、いつ片付けようかな、と迷う。
ふとセミの抜け殻が目についた。
もともと家のサクラにはうるさいくらいセミが鳴いていて、オンライン会議も困るくらい。
抜け殻もあちこちにあるが、毎年2回耕している畑にあったのは意外だった。
7年間地中にいたとすれば、14回近く掘り返されていたことになる。
(もっとも7年は俗説で、ツクツクボウシで1〜2年、アブラゼミで3〜4年らしい。北米の素数ゼミは13年、17年だろうけどね)
どこか違うところから這ってきて、畑に迷い込んだのだろうか?

2021-08-11
25本植えたトウモロコシも、食べたのは5本だけ。
あとはまともに受粉せず、実も大きくならなかった。
枯れてきたので、すべて取る。

2021-08-11
25本のうち、今まで5本食べて、この日とったのは20本のうち11本。
残り9本は苗の段階から成長不良で雌花が出なかったか、まったく膨らまなかった。
トウモロコシは難しい。
成熟して枯れていた左の2本を来年用の種とし、実が比較的についている3本を茹でた。
種用の2本は玉ねぎ入っていたネットで吊るし1か月くらい乾燥させる予定。
子どもの頃はネットなどなかったから皮をむいて紐で縛って軒下につるしてあったな。

2021-08-16
雨が続き、テレビは全国で水害、土砂崩れのニュース。
傘を差しながら落花生を見たら、枝が畝からはみ出して溝の上に延び、実のなる子房柄が土を求めている。このままだと地中に潜れないから実にならない。落花生は高畝にしないほうが良い。

2021-08-16
鉢植えのサツマイモ(写真右)を見に行くと、裏口の門に朝顔が伸びている。
8月5日に運転免許書き換えのため自転車を出すときも朝顔にはばまれた。

朝顔につるべ取られてもらい水

加賀の千代女(1703、元禄16年 - 1775)は松任の出身。
千代女の直筆に「朝顔や」と書かれているものがあり、「に」から「や」に推敲したとされている。
朝顔やつるべ取られてもらひ水

確かに切れ字の「や」のほうが、朝顔が強調され、美しい花をみて井戸が使えなくなった感じが良く出る。
(もっとも絡まったつるに花はない)

我が家の朝顔は8年前に長野からきたものだが、自然と種がこぼれ野生化していくうちに花が咲かなくなってしまった。もはや雑草である。
8月5日に自転車を出したときは、つるべ取られてもらい水の心境にはならず、急いでいたこともあり、つるを引きちぎって自転車を出した。

雨が上がったら草取りをしなくてはならない。

2021年8月16日月曜日

両国駅の歴史、航空写真から

  両国に来た。雨。

2021‐08‐14  11:52 
両国駅は総武線各駅停車しか止まらないから線路は上り下り2本(1番、2番)で済む。
しかし北側に低くなった3番線ホームがある。
今は乗り場となることはほとんどなく、たまにイベントに使われるくらい。
しかし、昔はもっとホームがあった。

地理院地図 1942年3月
6番線まで3面6線のホームとその北に貨物引き込み線がみえる。
貨物駅時代の秋葉原や南千住のように、水運が使えるよう隅田川から運河が掘られている。
北方の緑地は安田庭園、横網町公園(東京都慰霊堂がみえる)。

ちなみに運河は貨物駅ができて新しく掘ったのではなく、江戸時代、対岸の浅草御蔵(蔵前)のように竹蔵(貯木場)のために掘られていた。享保年間に貯木場は猿江(別ブログ)に移り、ここも幕府の米蔵になった。
明治11年の地図には堀、水路はそのままに陸軍用地となっている。
地理院地図 1975年1月
私が上京した昭和50年は、運河と引き込み線はなくなったものの、3面6線のホームははっきりみえる。国技館はなく、北の安田庭園のそばまで国鉄用地だった。

google2021
運河と引き込み線の場所は両国国技館と江戸東京博物館になった。

行き止まり駅に見られる櫛形ホームは、両国が千葉方面への始発駅だったからである。

総武鉄道は、国府台、習志野、佐倉に陸軍施設もあったことから鉄道敷設免許が早く下り、1894年、本所駅(今の錦糸町駅)から佐倉まで開業した(あいだに市川駅、船橋駅、幕張駅、千葉駅、四街道駅)。そのあとは東側の銚子方面を先に伸ばしていく。両国駅は日露戦争が始まったばかりの1904年4月、「両国橋駅」として開業した。

当時、東京は都心の用地買収が難しく、西の飯田町、南の新橋、北の上野が四方に延びる列車のターミナルで、それぞれがつながっていなかった。両国もそうした理由で東への玄関として選ばれたものかと思ったが、どうも私鉄の総武鉄道の財力では隅田川に鉄橋をかけられなかったということも大きかったようだ。

11:54
8月14日、東口改札から出たので正面である西側に向かう。
開業した時はすでに住宅が密集していたから、東京西部の私鉄と違って最初から高架だった。
両国駅は西が隅田川、北が貨物基地だったから南しか市街地がない。
だから高架下を北側に行く道がない。
11:56
両国橋駅から両国駅に改称したのは1931年。もともと両国という地名は橋の両岸に使われていた(日本橋両国など)が、だんだん両国が東のほうだけを差すようになり、駅も一般に両国と呼ばれることが多くなり改称した。

関東大震災(1923)では車両や、石炭庫などが大いに燃えたが駅舎は倒壊しなかった。しかし増大する乗客貨物をさばききれなくなっていたため、1929年、今存在する新駅舎が竣工した。
当時の駅の様子を反映し、いまのホーム、1,2番線への改札よりずっと北側が駅舎の中心になっている。

1932年、震災復興都市計画で鉄道用地が捻出され、お茶の水と両国の間に線路ができた。当初は両国より東は電化されていなかったため、乗り換えを要したが、そのうち千葉方面も電化されると両国始発列車は激減した。海水浴の臨時列車はあったが、ターミナルとしての地位は落ちた。

1972年総武線複々線化により千葉からの快速が東京駅に入る。
線路は両国駅の北側を通っているが、急カーブで隅田川をくぐっており、地下深いためホームは作られず、停車駅は隣の錦糸町となった。
わずかに発着していた特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」(1日1往復)も1988年のダイヤ改正で廃止された。
これで千葉方面からの中距離、長距離電車は一切両国に止まらなくなった。
戦前は池袋や渋谷をしのぎ、東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入を誇った両国も、いまや見る影もない。
11:57
相撲の錦絵など観光的な装飾が目立つが、規模、改札の数は平凡な(小さな)駅と同じである。駅舎の古さを特にアピールしていることもない。

駅周辺を歩いてみる。
11:59
すぐ西は隅田川。鉄橋が見える。

12:00

12:06
隅田川堤防から見た両国国技館
両国の貨物駅が国鉄バス東京自動車営業所となり、その跡地に1985年竣工、大相撲が対岸の蔵前国技館から移ってきた。

12:08 安田庭園
本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷だった。明治になって旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。明治33年(1900年)、安田財閥創始者、安田善次郎が購入。1922年、彼の遺志にもとづいて東京市に寄贈されたが、翌年の関東大震災により焼失、東京市が復元、開園。いまは墨田区が管理する。
安田善次郎が買ったときはまだ両国駅はなかった。

12:11
安田庭園の東南、すなわち国技館の東も国鉄用地であったが、アパホテル(右のタワー)と東京都下水道局、江戸東京博物館(写真左)になっている。

12:12
安田庭園の東は民家が少し残る。
正面の安田学園は安田善次郎が1923年創設した。
この敷地は西の同愛病院と合わせて、安田善次郎の本邸だったが、震災後の1924年、学園が神田錦町から移転してきた。

もちろんこの辺りは国鉄用地ではない。
いま道路の右は東京医学技術専門学校、その東はNTTドコモ、区立両国中学、第一ホテル両国などがあるが、かつては本所区役所などもあった。

この日はすぐ先の横網公園で東京都慰霊堂、震災記念館など見て、食事するため蔵前にむかった。
(別ブログ)



2021年8月14日土曜日

彰義隊の円通寺へ4年ぶりに来た

8月5日、運転免許更新のため、台東区の下谷警察署にきた。

自転車だったので終了後、そばを通る国道4号(昭和通り、日光街道)を千住のほうに走ってみる。

この夏一番の暑さという中、明治通りをこえ、常磐線をくぐる。

少し行くと円通寺。
ここは2017年5月5日に来た。
あのときは千駄木から自転車でいったん日本橋まで行き、浅草から吉原の土手通りを北上してきた。(別ブログ)
食事した木曽路も、昔と同じように道路の向かいにあった。

2021‐08‐05 10:59 
通過しようとするも黒門がみえた。
上野戦争のあと移設されたものだ。

この日、北上したのは少し先の東京球場跡地を見るのが目的であり、立ち寄る予定はなかったが、黒門に惹かれるように自転車を止め、何枚か写真を撮った。

4年前のブログはあまり説明文を書いてなかったので、自分の整理のためにも書いておく。
11:00
ここは上野戦争で亡くなった彰義隊士の墓、追弔碑が林立している。
入り口にすぐ目立つのは「松平太郎君墓」
戊辰戦争では榎本、大鳥らとともに動き、蝦夷共和国の副総裁を務めた。
釈放された後は開拓使に出仕した。

上の写真中央に目立つ石は、正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑である。
彼は函館政権の陸軍奉行(最高責任者)であったが、有能だったのだろう、降伏、入牢、釈放後は明治政府に仕官し大いに出世した。墓は青山霊園にある。

奥に入り、左側にも石碑がいっぱい。
11:03
左から
荒井郁之助君追弔碑
高松凌雲君追弔碑
正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

荒井は航海術・測量術および数学にも通じ、函館政権の海軍奉行だった。
明治政府では開拓使に出仕、内務省地理局、のち中央気象台の初代所長となった。
1877年の東京数学会社(のちの日本数学会)の創立時の社員でもある。

高松は適塾出身、有能な人材を広く集めていた一橋家の専属医師となる。福岡の片田舎から出てきた農家(庄屋)の厄介者の3男が、わずか7年で将軍家のお抱え医師となった。徳川昭武、渋沢栄一らとパリ万博に出張、そのままオテル・デュウ(HOTEL-DIEU:神の家)に留学した。函館戦争には幕府への恩義から医師として参加、しかし敵味方の区別なく手当した。維新後は新政府から誘われたが断り、上野寛永寺所有の土地に「鶯渓病院」を新築し、貧民には無料で治療した。墓は谷中墓地にあるはずだが、まだ探していない。

榎本は有名なので略。
吉祥寺の墓については以前書いた。 

ほかに永井尚志君 永井岩之丞君追弔碑など、幕臣の追弔碑が並び立つ。
永井尚志は幕末の外国奉行、軍艦奉行。蝦夷共和国の箱館奉行に就任したが、弁天台場の守備に当っていて早くに降伏した。墓は日暮里本行寺にあるからこのブログにも書いた。岩之丞は養子、五稜郭に立てこもって戦った。
11:03
右奥が彰義隊後藤鉄次郎君追弔碑
彼は上野戦争で戦死している。

右手前は彰義隊八番隊長木下福治郎の文字が見える。

真ん中の石、「合同舩」(合同慰霊碑)には彰義隊の山田八郎、松本義房ら8人の名が刻まれている。小林一知は咸臨丸の最後の艦長(榎本艦隊とはぐれ西軍に拿捕される)、第2代中央気象台長。

左の石は樵村丸毛君碑(題字は榎本武揚)。
本名は丸毛利恒、樵村は雅号。

上野戦争が終わっても死体は上野山に放置されたままになっていた。西軍の目をはばかり誰も手を出さなかったからである。円通寺の住職であった仏磨和尚と寛永寺御用商人の三河屋幸三郎が、野ざらしになっていた遺体を収容しようとして一度は捕らえられ、のちに許可を得た。266体を数えた遺体は、いまの西郷像の裏辺りで荼毘に付し、遺骨は円通寺に埋葬され、残る遺体は上野の山に埋められた。

この写真だけ2017‐05‐05
彼らの合同墓は入り口の右側にあるが、新政府軍の目をはばかったか「賊軍」である彰義隊の文字はなく戦死墓とだけ刻まれている。
(明治10年の内務省地理局の地図には隣の真正寺はあるのに円通寺がないのはそのことが関係しているか?)

それ以後、円通寺は彰義隊の墓所として知られ、激戦の弾痕が残る黒門も下付されたわけだが、いま目立つのは彼らの墓ではなく、幕臣でありながら明治後に出世した人の追弔碑であった。
立てたのは本人でなく周囲の者としても、ただの売名行為にみえてしまう。
ここでなくても良い気がした。


 別ブログ


千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2021年8月13日金曜日

千住製絨所とロッテ東京球場跡、荒川区役所

8月5日、運転免許更新のため、台東区の下谷警察署にきた。

自転車だったので終了後、そばを通る国道4号(昭和通り、日光街道)を千住のほうに走ってみた。

以前から東京球場の跡地に行ってみたかったから。

1960年代に敷地は狭いが最新の球場として作られたものの、経営悪化して解体された。長野にいた子供のころ、ロッテ東京球場という言葉に記憶はある。

途中、荒川区の路地に少し入ったり、国道4号沿いに彰義隊墓地のある円通寺に寄ったりした。
(別ブログ)

円通寺を過ぎると、すぐ千住間道という広い道があり、そこを左折する。
名前と反対に新しそうな道を行くと右に都営アパートと警察署。
11:06 南千住警察署
都営南千住6丁目アパート、警察署、荒川総合スポーツセンターと並ぶ。

この一帯こそ、東京球場の跡地である。

ここは明治12年(1879)、官営の千住製絨所が作られた。
戦後は民間に払い下げられ、大和毛織の生地工場となったが、1950年代に入ると業績が悪化。経営難から1960年に閉鎖された。

当時は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。
(ちなみに1952年は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズの5球団が後楽園を本拠地にした。スワローズが神宮を本拠地にしたのは1964年である)

当時の大映は映画の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、大毎のオーナーだった永田雅一(大映社長)が私財も投じて南千住のここに新球場を建設、1962年5月に竣工した。

新しい球場だから今となっては当たり前となった球場設備もここが初めてというものが多かった。当時の南千住は平屋、二階建ての住宅ばかりでこつ然と現れ、照明の美しさから光の球場と呼ばれた。しかし試合終了後照明を消すと集まっていた大量の夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだという。
国土地理院地図 1975年1月
左上に下水処理場、その下が荒川区役所、左下が常磐線、右上が隅田川。
右下が円通寺と国道4号

永田オーナーは1964年から企業名を排した東京オリオンズと球団名を変えた。この球団名は覚えている。長野県で巨人の長嶋を応援していた小学生のころである。当時は巨人のV9時代、パリーグは人気がなく、とくにオリオンズは下位を低迷していたから東京球場は閑古鳥が鳴いていた。1967年の最終戦は観客200人だった。

1969年ロッテがスポンサーとして参加、ロッテオリオンズとなった。私が中学1年のときだ。
当時私は黒い霧事件で池永、与田ら主力多数が処分(4人が永久追放、2人が1年出場停止)され、東尾、基、若菜、東田、竹之内ら若手が頑張っていた西鉄を応援していたから、パリーグの球場として余計記憶が残っているのかもしれない。

山本達郎氏は開成に入った1970年、西日暮里駅がなかったから田端からの尾根道を歩いたのだが、東京球場が良く見え、ナイターの時はきれいだったという。

google2021

1971年、経営悪化した大映は球団をロッテに譲渡、子会社の東京球場は1972年小佐野賢治の国際興業の手に移った。小佐野は球場をロッテに買い取るように求めたが、ロッテが拒否、東京球場はこの年限りで閉鎖された。(ロッテは1973年から仙台に行き、78年から川崎を本拠地とした)

東京球場は1973年に竹中工務店が取得、しばらく存在したが、1977年東京都が買い取り解体した。1977年なら私はここからそれほど離れていない本駒込に住んでいた。

跡地は大部分が荒川総合スポーツセンター(とグランド)、残りは都営アパート、警察署となっている。
11:09
東京球場の名残を探そうと周囲を走ると銅像あり。
球場を作った永田オーナーではなく、井上省三。
ドイツで毛織物の技術を学び、明治12年、官営の千住製絨所の初代所長となった。
ここは東京球場以前に日本の羊毛工業発祥の地であった。

井上は明治19年、41歳の若さで亡くなり、像は1936年没後50年を記念して建てられた。
像の両側に羊の頭があった。被服生地の工場跡に動物の頭とは。
今ならこういうデザインはないだろう。
11:12
永田オーナー像は無理でも、何か東京球場の遺構がないかと自転車で周囲を走る。

11:13
永田像以外の像はいっぱいあった。
荒川区は銅像が好きである。西日暮里、日暮里駅周辺にも多い。
あきらめて帰る。

千住間道は明治通りに合流し、すぐ荒川公園がある。
11:18
荒川区はイメージと違って緑地が多い気がする。
早くから人家があった文京区、台東区と違い、田んぼが広がっていたから工場が多く建てられ、その工場跡地がこうした公園や公共施設になったのだろう。

公園の奥に区役所があった。

緩やかな弧を描き、公園の一部になっている。
地下が駐輪場。
文京区の区役所より優しい感じ。

せっかくだから入ってみよう。
用がないと入れないから、先月閉鎖されたダンス練習場ファーストプレイスと賃貸人である荒川区の関係、現状について聞くことにした。
11:24 区役所4階
4階の総務企画課に行くと、丁寧に同じフロアの経理課に連れて行って下さった。
係の人は裁判で不払い家賃と原状回復について係争中であることを教えてくれた。

地理院地図 1963年6月

60年代、荒川区役所と荒川公園の敷地は工場である。
日本の多くの緑地が箱ものビルになっていく中で、緑を増やす荒川区はうらやましい。


別ブログ

2021年8月11日水曜日

荒川区の極楽荘、ジョイフル三ノ輪、音無川の跡

8月5日、運転免許更新のため、台東区の下谷警察署にきた。

この夏一番の暑さであったが、自転車だったので終了後、そばを通る国道4号(昭和通り、日光街道)を千住のほうに走ってみる。

三ノ輪交差点で浅草からの国際通りと合流。

すぐに明治通りと直交する。

2021‐08‐05 10:40 大関横丁交差点
(地下鉄三ノ輪駅もあるし、ずっとここが三ノ輪交差点だと思っていた)
あしたのジョーの泪橋や山谷は、この交差点から明治通りを右に行ったほうにある。
江戸時代の日光街道は、4号すなわちこの道ではなく、その泪橋交差点から北へ、南千住駅を通る東のほうの道路である。

10:41
国道4号はすぐ常磐線をくぐる。
旧日光街道はこの先、千住大橋の手前で右から合流する。

10:43
常磐線が明治通を越える橋は、陸橋には珍しいアーチ橋。
道路と斜めなので支間長を広げるためだろう。

10:47 
明治通りダイソーの角から横町に入り常磐線をくぐる。
何の変哲もない細い路地なのに、スーパー(右)と、昔ながらの喫茶店「オレンジ」、散髪、和菓子の伊勢屋、カフェバル・マサト。近所の住民だけしか知らないような店なのに、今どき営業できるというのは不思議だ。このあたり、大通りにも住宅街にも、商店が非常に多い。店がなく年寄りがひっそり暮らす住宅ばかりの文京区と違って活気がある。

10:48
小さな社があった。消えかかった貼り紙は、
「このお稲荷さんを壊すと目が見えなくなり口がきけなくなります」
懐かしいほど素朴な注意書き。ここは令和の東京か?
参道は道路側からではなく、奥のアパート?簡易宿泊所?のほうから伸びている。

境内のような敷地の奥に極楽荘。
「空室あります~1200円」
草を雑にとっている人がいたが、すぐいなくなられたので写真を撮らせてもらった。

そっと覗くと玄関に観音様があった。
神社と向かい合っている。

気になって「極楽荘」を帰宅後調べたら、足立区にあった別の極楽荘の立ち退き交渉物語がでてきた。ここと同じような古いアパートのようであったが、関連あるかは不明。

10:50
このあたり密集住宅ばかりと思っていたが、緑もある。

10:52  三ノ輪橋駅

王子や大塚でよくみる都電荒川線は、ずっと伸びていて終点はここだった。
他の路線につながるわけではなく、住宅街の真ん中で止まっている、住民密着型。
雑司ヶ谷や大塚の乗客は一度も来たことがないのではないか?
ふつう用事がないからね。

三ノ輪駅は近くにある日比谷線の駅。ここは三ノ輪「橋」駅である。
しかし橋も川もない。

三ノ輪橋というのは、かつて石神井用水(音無川)にかかっていた橋。
この用水は、石神井川を王子でせき止め、JRの東側に沿って田端、日暮里と南下、根岸で台東区と荒川区の境を流れ北東にむかった。(根岸の羽二重団子の向かい、善性寺の門前にも橋の跡があることは以前書いた)
川は、三ノ輪の常磐線のガード(ダイソーから入るガードと日光街道ガードの間のガードの南)で二つに分かれ、一つは石浜川として北東に流れ、もう一つは両区の境を東に流れた。すなわち明治通りの泪橋はこの東に向かった音無川の橋。いまはすべて暗渠。

10:52
三ノ輪橋駅からすぐ、石浜川暗渠でもある道はアーケードに入っていく。
ジョイフル三ノ輪と書いてある。聞いたことあるぞ。

中は曲がりくねった道。
平地で曲がっていたらたいてい暗渠。

10:53
進むと左にアーケードがまっすぐ伸びていた。
こちらが本通りのようだ。
かつては南千住銀座と呼ばれていたらしい。

このあたりの住宅地は地元密着型の小さな食堂、店舗が多い。荒川区民は外食、買い物すなわち消費活動が旺盛なのだろうか。

有名なジョイフル三ノ輪も深入りせず、灼熱の国道4号に戻る。
国道というのは、だだっ広い通りを住民と関係ない車が行き交うから荒川区の特徴があまりない。道路端も全国同じようなビルが並ぶ。

小さな道をじっくり見るほうがその土地と人間らしさが見えて面白いのだが、免許更新の帰り道なので、ぶらぶらせず幹線道路で家路を急ぐ。

国道沿いの円通寺に上野戦争の遺構、黒門が見えたので自転車を止め、何枚か写真を撮った。
(別ブログにかく)

国道は千住間道という広い道と交差、そこを左折、かつて存在した東京球場の跡地や荒川区役所に立ち寄った。
(別ブログ)

帰宅すると腕は真っ赤に焼けていた。


千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで


2021-09-12 追記
墨田区向島方面に自転車で行く途中、立ち寄ったので写真を追加。
2021‐09‐11 15:09
ジョイフル三ノ輪商店街

15:10
安普請の中に石造りの蔵(写真左)
突き当りは三ノ輪橋駅のホーム。シャッター押す前に電車が見えた。

15:11
さくらトラムと名前を変えたが、やはり都電荒川線のほうが似合う。
ホームが生活道路になっている。
終点だからスイッチバックで折り返す。

右の下見板張りはトイレ。

15:15
三ノ輪橋駅から国道4号に抜けるトンネルは梅沢写真館。
ここは2017年に円通寺に行くとき通っているが、気づかなかった。
自転車だと見落としもある。

写真館というのは古い洋館が多く、ここもそうかと思ったが、違った。この建物は、戦前、都電荒川線の前身となる路面電車を経営していた会社、王子電気軌道の本社ビルだった。今でも王電ビルと呼ぶ人もいるらしい。