2021年7月9日金曜日

松陰神社は長州閥の聖地。桂太郎墓、広沢公神道碑

 6月30日、恵泉女学園に用事があった。

地図を見たら東のほうに松陰神社がある。昔から気になっていたが行ったことがない。早く家を出て恵泉の最寄り駅、経堂の2つ手前、梅ケ丘で降りた。

改札を出ると学生がいっぱい歩いていく。
松陰神社の横に国士舘大学があったことを思い出し、彼らの後をついていった。
2021‐06‐30 10:59
坂を上った国士舘の体育・武道棟の東に区立若林公園。
松陰神社はこの公園に隣接している。

11:01
若林公園の敷地内だろうか? 神社との間に公爵桂太郎之墓。
公園は昭和37年開設というから、墓ができた大正二年、一帯は松陰神社同様、長州毛利家の所有であったのだろうか。

桂太郎は児玉源太郎、川上操六らとともに陸軍三羽烏と称されたが、早死にした天才川上、日露戦争の前線で活躍した児玉と比べ、桂は政治家として生きた。日露戦役の時は総理大臣だった。
1900年には拓殖大学の前身・台湾協会学校を創立(別ブログ)、1910年韓国併合時の総理大臣でもある。

別ブログ


桂太郎の墓の隣に塀で囲まれた巨石が立っていた。
鳥居もある。
石碑は最初なんだか分からなかったが、縦に二文字ずつ読めば、
故参議贈正三位廣澤公神道碑
討幕運動では木戸(桂小五郎)の代理人、同僚として奔走した広沢真臣の墓のようだ。

鳥居があるが神道碑は神道と関係ない。
中国で墓前に建てられた故人の事績を顕彰するもの。神道とは墓の南東方のこととも墓穴に通ずる道ともいわれる。明治維新のあと大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美、木戸孝允の神道碑が明治天皇の命により建立された。(勅撰碑)

広沢は明治2年、維新の功臣として大久保利通、木戸孝允と同じ永世禄1,800石を賜ったが、明治4年39歳で暗殺された。そのめめ明治10年、11年まで生きた木戸、大久保と比べると教科書に載るようなことがない。
しかし広沢家は明治12年には華族に列せられた。華族令以前に華族となったのは、大久保、木戸家と広沢家だけである。

11:02 松陰神社
ここはもともと毛利家の別邸があった。
江戸屋敷からは遠く、鷹狩にでも使われたのだろうか。

明治維新のあと、京都の公家、地方の大名家は東京に屋敷をもった。初めは不平士族の反乱を防ぐためにも藩主は東京にいてほしかったこともあろう。文京区だけでも前田、阿部、浅野、細川、土井、酒井、大給、太田、松平、藤堂、松浦など屋敷を構えた。五反田にあった島津の本邸は今清泉女学院になっている。しかし毛利公は東京に住まなかった。
地形は北側が崖で目黒川の支流が流れている。

11:03
六月松陰先生の言葉
当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ
安政六年十月二十五日 在江戸伝馬町獄三十歳

と貼ってあった。
お品書きを書く料理人、死亡診断書を書く医師は文字を練習すべきだと何かで読んだことを思い出した。ありがたみが違う。

松陰は安政の大獄に連座し、伝馬町牢獄で刑死、小塚原の回向院に葬られた。
罪人の処刑場の墓とは忍びない。4年後の文久3年(1863)、安政大獄関係者が赦免され改葬も許されたため、高杉晋作など門人によって当地に改葬され、明治15年(1882)墓の側に神社が創建された。

そうか、今日は6月の晦日。夏越しの祓(なごしのはらえ)。茅の輪くぐりの日。
くぐり方の作法があるみたいだが、くぐらず。例によって本殿にもお参りせず。
輪は当日だけではなく、土日を3回含む2週間置かれるようだ。

11:06
本殿の右に松下村塾の復元模型があった。
藩校明倫館が士分のものしか入れなかったのに対し、玉木文之進が起こしたこの塾は足軽や百姓まで受け入れ、のちに明倫館の塾頭を務めた甥の吉田松陰が引き継いだ。
家が百姓、父の代でようやく足軽になった伊藤博文は、敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったまま聴講した。

塾の四天王とされた久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、高杉晋作は維新前に死んでしまったが、生き延びた伊藤、山県らは明治政府の中心となり、松陰神社は国家の中心にいた長州の人々によって整備された。
11:07
萩の本家・松下村塾は現存し、ほかにも玉川学園などに復元模造は多数存在する。

松陰像は参道西側にもある。
一度は幕府と組んで長州を攻めた薩摩と違い、長州は(恭順派が主流になっても)討幕の火は消えなかった。理にさとい薩摩、思想に固まった長州というイメージ。

11:10
お祓いをしてもらう初穂料は5000円以上から3万円以上。
茅の輪をくぐっていた女性が申込用紙を書いていた。
何をお願いするのだろう?

11:10
明治41年に奉納された32基の石灯篭。
その名前をみれば毛利、吉川、小早川の藩主縁故者、伊藤、山県ら生存者と品川弥二郎、山田顕義ら門下生の子孫、また桂、乃木、寺内ら陸軍長州閥のそうそうたる面々。

ほかにも明治百年祭の記念碑の裏は岸信介と書いてあったし、ここは戦後も長州閥の匂いが強い神社である。
松陰墓所に向かう左に昭和女子大の「恩師の墓」と「同窓の墓」があった。

右に曲がると正面に松陰先生墓がある。
5つあるのは松陰の遺骨を回向院から移したとき、同じく刑死、回向院に葬られた頼三樹三郎と小林(良典)民部の骨も一緒に改葬、さらに後日、藩政改革、攘夷倒幕運動に活躍するも早世した来原良蔵、福原乙之進を改葬したから。
ほかにも維新の烈士の墓、慰霊碑が立っている。

墓前に徳川家奉納の石灯篭があった。
はて、松陰先生を殺した安政の大獄、大老井伊直弼と幕府は長州にとって憎らしき存在。
この徳川は誰だろう? 16代家達の宗家だろうか?

11:13
写真右下の徳川家奉納水盤には
「明治紀元戊辰冬十二月」とあった。

脇にあった説明板を見れば、松陰らの墓は禁門の変、長州征伐の際、幕府によって破壊されたらしい。長州が天下を取った明治元年、木戸孝允らによって墓は修復された。それを聞いた徳川家が謝罪の意を込めて寄進したらしい。
このとき榎本武揚は函館におり、最後の将軍慶喜は、宗家が70万石で封じられた駿府で謹慎中であった。

思ったより見どころの多い神社だった。

4年前、南千住の回向院で吉田松陰の墓を見たことがある。
すっかり忘れてしまったので自分のブログを読みなおしたら面白かった。




2021年7月6日火曜日

白山通りを歩く。救世軍、日大経済学部、東京歯科大

 6月30日、ワクチン2回目接種で大手町に来た。

無事終わり、白山通りを神田方面に向かって、如水会館、共立講堂を眺め、学士会館にはいり、小学館、岩波書店など見て歩いた。

(別ブログ)

白山通りを北上していくと、神保町交差点の手前に救世軍本営があった。
年末の社会鍋で知られる。
清瀬に行ったとき、救世軍の病院があったな。



16:55 救世軍本営

慈善団体なのに、なんでこんな勇ましい名前か?
戦前の廃娼運動で有名なように、世間の不条理と戦うための名前かと思えるがそうではない。
英語の名前、The Salvation Armyの直訳である。
(64年間衆議院議員を務め、9年間東京市長を兼任して憲政の神様といわれた尾崎行雄が訳したという。)

救世軍は、キリスト教プロテスタントの一派である。
1865年、ロンドン東部の貧しい労働者階級に伝道するために設立されたが、当初は「キリスト教伝道会」と称した。しかし当時は教会が上流・中産階級のサロン的な場所となっていた。そこで、身分階級によらず、実績のみで評価される組織として軍隊に着目し、1878年に「救世軍」と改称した。メンバーは軍隊式の制服・制帽・階級章類の着用し、軍隊用語が使われている。実際、日本軍国司令官のトップは大佐捕、大佐、中将のポストで、現在は ケネス・メイナー大佐である。
一般教団の「教区」に相当する言葉は「軍国」でその本部は「本営」である。

神保町交差点を渡り、水道橋駅を目指す。
昔から歩くときは通りの西側だった。
西日が当たらないため古書店が並んでいたからである。
今は飲食店が目立つ。

東側に日大経済学部3号館があった。
さらに北の三崎町交差点の東には陸橋で結ばれた、日大経済学部。
17:03
三崎町交差点 日大経済学部本館と2号館

経済学部7号館の前に日大の校舎案内があった。
水道橋駅の南側は三崎町と西神田。
経済は東側、法学部は西側に集まっている。新たな校舎ビルも建設中。
理工学部は駿河台にそこそこ集まっていたな。(別ブログ)

商業地区のあちこちにビルが分かれていて、一緒のキャンパスになればいいなと思うが、千代田区は土地が高くて簡単に再編できない。かといって郊外に行ったら受験生が集まらない。開学以来の神田という土地も魅力である。
学生も校舎が高層ビルになると、外に出るのも減るだろうし、他のビルの学生と交流しようと外に出れば水道橋駅南側の飲食店街がキャンパスのようで、これでいいのかもしれない。

17:05
東京歯科大と日大経済学部7号館
ここは小さい店がびっしり並んでいたはず。
日大7号館は創立100周年を記念して2002年竣工。
東京歯科大のほうは水道橋校舎新館として2013年竣工。創立123年のことであった。

17:06
日大経済学部7号館のとなり、有文堂書店は廃屋のようになっていたが、丸沼書店は健在だった。日大御用達のように法律、経済の本に特化していた。

白山通りの西側に気になっているところがある。
ここは伊予今治藩松平家上屋敷、讃岐高松藩松平家中屋敷があった。維新後陸軍練兵場になるも、明治のうちに市街化された。
このとき道路は碁盤の目のほかに斜めの道を入れた。ちょうどマンハッタンのAvenueとStreetの碁盤の目に、ブロードウェイが斜めに走るように。

明治40年
この日は世田谷を歩き、ワクチンを接種してからも大手町から歩いてきて疲れていたが、長年気になっていたので見に行く。

17:09
6本の道路が集まり、マンハッタンならタイムズスクエアとかユニオンスクエアとかになる場所だが、車が通過しにくいだけのただの交差点だった。
17:11
こういう多重交差点は3か所あるが、何か商店街として工夫すれば面白い。
今から東京の名所にするのは難しいが、水道橋駅西口、東口と合わせ、日大、東京歯科大あたりも中心となって再開発する余地はある。
17:12 総武線ガード下
この上に水道橋の駅がある。
駅直結の面白い商業施設もできそうだが昔ながらの景色も捨てがたい。
17:14 
東京歯科大水道橋校舎本館と水道橋駅
白山通りに戻ってきた。むかし駅の近くはもっとごちゃごちゃしていた気がする。
ビルは東京歯科大水道橋病院として1990年竣工。

東京歯科大は近くのさいかち坂にもビルがあり、他に千葉県市川と検見川にキャンパスを持つ。
明治23年1月(1890)、高山紀齋が芝、伊皿子坂に高山歯科医学院を創立した。
その記念碑については以前書いた。(別ブログ) 
この地に来たのは11年後の1901年のこと。
都内に歯学部は東京医科歯科大は別格として、ほかに昭和大、日本歯科大、日大があるが、昭和大とともに評判が良い。

17:14
神田川、水道橋から西の後楽橋方面を見る。
すっかり歩き疲れた。
小雨が降り始め、

2021年7月3日土曜日

白山通りを歩く。共立講堂から小学館と岩波書店

6月30日、ワクチン2回目接種で大手町に来た。
無事終わり、地下鉄で帰るのも味気ないので神田方面に歩きだした。
一ツ橋北詰から白山通りを北へ。
すぐ通りの西側に如水会館がある。
2021‐06‐30 16:32
如水会館
如水会については1回目ワクチンの帰りに日本橋川を歩いたとき書いた。
入り口に何やら看板が出ている。
祝東京五輪出場 荒川龍太君(平成29年卒、如水会員)
えっ、と思ったが、ボート競技シングルスカルとあり納得。
大学から始めるスポーツなら国立大も互角に戦える。一橋はボートが強い。
平成29年で会員というのは一橋大は卒業するとほとんど会員になるのだろうか?

一橋大千代田キャンパスと道を挟み、共立講堂と共立学園(女子大、短大)本館

16:35 共立講堂
1938年築。西側の1号館(現在中学、高校校舎)と同時に設計施工された。
当時は日比谷公会堂と並ぶ大講堂、一般にも貸し出したため戦後も音楽関係の公演などテレビ、ラジオ中継でよく名前が出てきた。
一度中を見たいものだが、もう入れない。

すなわち大型興業施設の消防法が改正されたり、また各自治体や大企業による公会堂・ホールが各地に建設されたりしたことから、1976年、長年にわたる貸しホールの歴史を終え、以降は共立学園の講堂として、入学式や卒業式、授業、クラブ活動などの場として使われている。

白山通りの東側の学士会館(別ブログ)にふらりとはいったあと、通りの西側に渡った。
16:47
小学館(手前)と集英社
共立学園の北は道を挟んで小学館が並ぶ。

小学館は名前の通り1922年創業と同時に「小学五年生」「小学六年生」を創刊した。
1907年以降の学制は尋常小学校6年、高等小学校2年だったから、小学5年、6年と言えば高等科に行くか旧制中学に行くか考える学年である。この雑誌は旧制中学に進む富裕層向けのものだったのだろうか?

長野の家は、農家でとくに教育熱心ではなかったが、近隣では珍しくなぜか「小学1年生」から定期購読してくれた。ただし小学校のとき勉強できたのはこのせいではなく、近所の家でもう少し年長者向けのマンガを盛んに読んでいたせいである。

集英社は1926年、小学館が娯楽部門を分離独立させたもの。それにしては名前が「英知を集める」とは反対ではないか? 小学館は今も集英社の株式を50%持ち、出版界で一ツ橋グループを形成する。
「少年サンデー」「ビッグコミック」vs「少年ジャンプ」「ヤングジャンプ」と完全に内容も読者層がかぶり、すみわけができていない気がする。ただし「りぼん」「別冊マーガレット」は集英社で、小学館に少女漫画はない。
16:48
ここは東京商科大の校舎があったが、震災で国立に移転、1933年小学館が取得し本社とした。歩道にテーブルが出ていて、小学館も粋なことするなーと思ったら1階に入居しているカフェの席だった。

小学館と集英社の間の道を入ると岩波書店があった。
16:51 岩波書店一ツ橋ビル
出版社というのは記事に文句を言う人とか危ない人が押し掛けることもあるから、普通警備が厳しい。しかし中を覗くと守衛さんがいないようなので、入ってみた。

 案内板を見ると
岩波書店一橋ビルは、地下1階、地下2階だけが岩波書店で入り口は北側で別。
こちらは1階から15階まですべて他の会社が入っている。 
受付がなくて誰もいない理由が分かった。

岩波は神保町の交差点にも岩波ホールを持っているが、従業員200名、純利益8400万円、いっぽう小学館は710名、純利益39億円である。これがビルの大きさの違いを反映しているだろうか。

創業者岩波茂雄(1881- 1946)は信州諏訪の生まれ。一高に進学したが人生に悩み中退、東大の選科をでて1913年南神保町に古本業岩波書店を開く。漱石の知遇を得て翌年『こころ』を出版、これが当たった。(ただし資金がなく漱石の自費出版にしてもらった)。
以後、『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、「岩波文庫」(1927年)を創刊。硬派路線を進み軍国主義を批判、政府、軍部とも対立した。(戦時中の『科学』は驚くほど自由である)

戦後は朝日新聞とともにインテリ左翼の代表のように言われる。しかし岩波茂雄は美濃部達吉の天皇機関説を支持する自説を朝日新聞に投稿したが、同紙が不掲載としたため、朝日は意気地なし、と批判した。

長野にいた頃、信濃毎日新聞の文化欄に小林勇(1903- 1981)のエッセイが連載されていた。
当時の出版社は創業者が故郷から頭のよさそうな子供を丁稚奉公で採用した。例えば講談社は野間清治(1878 - 1938)が1909年千駄木で創業して故郷の桐生から若者を集めた。
小林は諏訪の南、駒ケ根の農家出身、17歳で上京し岩波書店の住み込み社員として、岩波文庫の創刊に携わった。岩波茂雄の娘婿となり、岩波の代表取締役から1962年会長、1972年退任した。1972年は私が中学3年だから退任後のエッセイを高校生で読んでいたのかな?

ふつう書籍は、委託販売、書店は売れ残ったら返品できるが、岩波だけは書店に買い取らせる。戦前からの自信だろうが、苦しい書籍業界で、相手だけでなく自分の首も絞めていないか?
16:52
帰ろうと振り向いたら久しぶりに見る公衆電話と懐かしい「図書」があった。
昔、生協書籍部や書店によく置いてあった。
6月号、7月号を帰宅後読んだが、難しい。


この数十年ネットで楽な文章、必要な情報だけを読むことに慣れていたから、特に興味のない話題、漢字の多い文章に気持ちが入らない。
若いころはこういうものばかり読んでいたのである。
古典は岩波文庫で読んだし、岩波新書なども古書店などでまとめて買ったものだった。
「教養」という言葉が似合う出版社だった。

昔から流行を追わないこういう出版社は貴重だと思う。
しかしこれでは常に売れるものを探し続ける小学館、講談社には勝てない。
もちろんそういう方面で競争する気もないだろうが、ネット社会では存続も難しくなるのではなかろうか? 一般国民の頭が岩波についていけないのである。

神保町の交差点に来ると岩波神保町ビル、岩波ホールがあった。
長く支配人を務めた高野悦子(1929 - 2013)は二代目社長岩波雄二郎の妻の妹。
岩波ホール支配人とは関係ないが、70年代、同姓同名の著者による「ニ十歳の原点」が若者によく読まれた。私は読んでいないが、友人の本棚でよく見た。岩波の本から離れてしまった現代の若者は、今出版されてもあれほど読まないだろう。

この日は世田谷での講演の前に少し歩き、ワクチン接種してここまできて疲れた。
岩波ホールのビルに地下鉄三田線の入り口がある。しかし白山駅から家まで歩きたくなくて、家の前まで行くB-ぐるに乗ろうと後楽園まで歩いた。

関連ブログ


2021年7月2日金曜日

洋書調所、開成所から学士会館が立つまで

 6月30日、ワクチン2回目接種で大手町に来た。無事終わり、地下鉄で帰るのも味気ないので神田方面に歩きだした。一ツ橋北詰から白山通りを北へ。

通りの西に如水会館、共立講堂が見える。

2021‐06‐30 16:33
共立講堂の向かい側に学士会館。
南の植え込みに「新島襄先生 生誕地記念の碑」
 新島は上州安中、板倉伊予守の江戸藩邸で生まれたとある。
はて、同志社創立者だからそんなに昔の人ではない。
ここは東大の前身、開成学校があり、開成学校は幕府の開成所を引き継いだもの。
そして、もちろん開成所は安中藩邸ではない。
はて?
新島襄(1843 - 189、妻は八重)
ちょっと調べてみた。
安政年間(1854‐1860)「江戸東京情報地図」朝日新聞社
学士会館の場所は確かに安中藩上屋敷である。
その南は江戸城を火事から守るためか、二番明地、三番明地、四番明地が並んでいた。

慶応元年(1865)「尾張屋版江戸切絵図」人文社
四番空地に御固米御蔵、地誌調所、開成所の文字が見える。

ペリー来航以来、蘭学のみでは対応できなくなり幕府は洋学研究の必要に迫られた。
1855年(安政2年)、天文台蛮書和解御用掛を拡充し、洋学所を開設。
1856年、洋学所を蕃書調所と改称、幕臣の子弟の洋学教育に当たった。
1862年、蕃書の名称がよくないため洋書調所に改称。それまで神田小川町、九段坂下などにあったが、護持院原と言われた火除け地に新築、移転。
1863年(文久3年)、開成所と改称。
教授科目を蘭・英・仏・独・露の語学と天文・地理・窮理・数学・物産・化学・器械・画学・活字の諸科とした。

上の絵図にある地誌調所は湯島の昌平坂学問所に置かれていたが、移転してきたのだろうか?

明治4年(1871)吉田屋文三郎「東京大江図」人文社
明治維新で大名家の江戸藩邸は新政府の役所、高官の屋敷になったが、安中藩主板倉家の屋敷はそのまま。開成所は板倉邸の南にも広がっている。
この地図は維新前後の情報が混じっており、注意が必要。

明治8年(1875)「東京一大区小区分絵図」人文社
幕府の開成所は医学書とともに新政府にひき継がれ、明治元年開成学校となった。
一つ橋通りの東に開成学校、同教師館、同体操場、同寄宿所の文字が見える。

西の外国語学校は今の東京外語大とは違う。
1873年、開成学校の語学課程と外務省外国語学所が合併したもの。

明治11年(1878)内務省地理局「実測東京全図」人文社
開成学校寄宿舎のところが東京英語学校になっている。
これは 東京外国語学校の英語科が分離して設立され、主として開成学校進学課程として位置づけられ、のちに開成学校予科と統合され、東京大学予備門(のちの旧制一高)となった。

明治20年(1887)参謀本部「五千分の一東京図」人文社
開成学校は東京大学となっている。(「大学」の文字だけ見える)

通りの西に東京外国語学校とあるが、1885年までに英・仏・独3語科は東京大学予備門、その他の語科は東京商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)に吸収合併、僅か12年で廃止された。この跡地に東京商業学校が銀座木挽町から移転してくる。

現在の東京外語大は、1897年(明治30年)高等商業学校附属外国語学校の設立を創立とする。1897年に東京外国語学校として分離独立した。
東大が本郷に移転した後、学士会だけ残り、通りの西が高等商業、東側が外国語学校だった。

さて、最初の疑問に戻ると、新島襄が生まれたとき、幕府の開成所は影も形もなく、安中藩江戸屋敷の南は原っぱであったようだ。
16:34 東京大学発祥の地
東京開成学校が東京医学校と合併して東京大学となったのが1877年(明治10年)4月12日。
1885年までに本郷校地へ順次移転した。医学校の本郷移転は1876年、東大発足時には本郷に既にあったのだから発祥の地は本郷であっても良いはずだが、主力をなす法、文、理学部が神田にあったからここを発祥とするのだろう。
あるいは発祥は幕府の洋書調所のことをいうのだろうか? いや、そのときここは安中藩邸だった。

ちょっと道路に近い。
建てたころはこんなに道が広くなかったのだろう。

せっかくなので入ってみる。
用はないからちょっと緊張。

南側から入るのは初めてかも。

学士会は同窓会として1886年創立。当時大学すなわち「学士」を出すのは東大しかなかった。
(21世紀まで東大に同窓会がなかったのは学士会があったからかもしれない)
その後1897年の京都を皮切りに東北(1907札幌、1911仙台)と九州(1911)にも帝国大学が順次設立され、学士会は広がった。(とはいえ、地理的制約から利用者は東大関係者が多かっただろう)
1918年(大正7年)には大学令が公布(翌年施行)され、東京商科大(1920)、東工大(1923に昇格決定も震災で1929)や私立学校も大学となり、新たな大学の卒業生にも学士号が与えられることとなった。
しかし学士会はその後の北海道(1918)、京城(1924)、台北(1928)、大阪(1931)、名古屋(1939)の各帝大卒業生に限られた。
16:36
三井本館とともに、半沢直樹のロケ地にも使われた。

ここには何回か結婚披露宴にお呼ばれした。
この機会に整理しておくと
1981年3月21日(田中氏成田氏)、1983年2月26日(藤井氏)、1983年5月15日(渋谷氏)、1984年6月30日(小林松氏)、1986年2月22日(平尾氏)、1986年6月1日(國枝氏)、1986年9月28日(押田氏)
三川潮先生、遠藤實先生の退官記念パーティもここではなかったか?

16:38
静かな談話室?では本を読んでいる人、パソコンで作業している人など何人かいた。
私は学士会会員ではないのであまりうろうろできない。

16:41
絨毯がないと、さすがに1928年竣工の古さを感じさせる。
白山通りから少し引っ込んだ形の新館は1937年竣工。

16:43
いつもは神保町側のこちらの出入り口を使っていた。

学士会館を立ち去ろうとしたらボールを持つ手があった。
16:44 日本野球発祥の地
開成学校は1870年大学南校となり、1872年の学制施行にともない第一大学区第一番中学となった。さらに1873年開成学校、1874年東京開成学校と改称される。第一番中学と呼ばれていたころ、来日米国人教師のホーレス・ウィルソン(1843~1927)が授業のかたわら生徒たちに初めて野球を伝えたとされる。1873年には新校舎とともに野球場が整備されたという。

2021年7月1日木曜日

大手町ワクチン、結局2回目も受けた

 6月30日16時、大手町でワクチン接種の二回目を受けた。

2021‐06‐30 16:20
ワクチン接種終わり、神田橋を渡る。
人が集まっているのはタバコだった。
千代田区喫煙所というちゃんとした名前もある。

接種一回目(5月29日)のようすは以前書いた。
12時間後に注射した部位が痛くなったことを書いた。

ブログを書いた翌朝、悪化した。
熱っぽくて体温は0.5度ほど上がっている。
腕は痛くて上がらない。
服が着られずリックが背負えなかった。

もらったパンフレットを見れば、痛みなど注射部位の症状は9割の人に出るらしい。
発熱などの全身症状は5割、2回目接種後だと8割にでるという。
しかしインフルエンザワクチンのように注射されて痛かったというものと、翌日も腕が痛くて上がらないというのは違うと思う。パンフレットには時間と程度が書いてないから、自分の様子が普通なのかどうか分からない。命に係わるとは思わないが、自分の免疫システムの反応が通常なのか、過剰なのか知りたいものだ。

3日目には正常に戻り安心したが、一週間後に注射部位がかゆくなり、見ると丘上に腫れていた。これはパンフレットに書いてない。

ネットを見れば、モデルナワクチンのフェーズ3試験では、初回接種後、84.2%の患者に接種部位反応が見られ、加えて、接種から8日後以降に接種部位の周辺に、紅斑、硬化、圧痛などを含む遅延皮膚反応を経験した患者が、初回接種後は0.8%、再接種後には0.2%いた。症状は4-5日後に消失したという。 (2021/03/26日経メディカル)

100人に一人以下の副反応者に入ってしまい、ちょっとワクチンが怖くなってきた。

副反応についてはアナフィラキシー4件(440,278回接種中)、心筋炎、死亡などは因果関係不明とする(厚労省ワクチン副反応検討部会2021年6月23日開催)。世間では、数百万人?に一人の反応を恐れ、あるいはmRNAがゲノム遺伝子に入るとか、不妊になるとか、根拠のないことで不安になり接種を拒否する人が多い。国も接種は任意であり、職場などで非接種者を差別しないように、と呼びかけている。
しかし、集団免疫を獲得するには、打てない人のことも考えて、健康な人は進んで接種を受けるべきではないか。副反応が不安だから、と接種を受けずに感染したら、医療施設を圧迫し世間の迷惑になるのではないか、とも考えた。

しかし、今回、0.8%の中に入ったことで、滅多に起きないことも我が身に降りかかるかもしれないと考えてきた。
今まで日本社会のためにも受けようと考えてきたけど、最近の政府の動きを見て、あまり国に協力する気がなくなった。オリンピックの強行など戦時中とそっくり。一度動き出したら止まらない。戦意を喪失するから都合の悪いことは言わないということが正義になってしまい、隠ぺいが正当化された。
公務員、五輪関係者を含む日本人は上に逆らわない従順な国民であることをいいことに、トップは根拠ない楽観(あるいは個人的利益優先)で突っ走っている。こんな政府の言うことは聞きたくない。誰も政府の言うことを信頼しなくなり、人流は増え、感染者が増え続けている。
私もワクチンは国のためではなく、自分勝手に接種を決めようと思った。

二回目はどうしようか、と少し考えたものの、さきの遅延皮膚反応がでた患者も二回目も接種したようなので、結局二回目は受けた。
多分大丈夫だろうという楽観にくわえ、1回目受けたことが無駄になること、感染したとき後悔するかもしれないこと、などで結局、大手町に来た。

16:26 (接種後)
茶色の手前が接種会場の合同庁舎3号館
向こうの高層ビルは1号館、2号館の跡地にできた経団連、JA、日経本社ビル
右の鉄塔は旧気象庁のもの

今回は地下鉄大手町駅からきた。
案内の人の多さにびっくり。庁舎に入っても係が多い。年寄りなど助けを必要とする人への配慮というが、そういう人はごくわずかであり、その人に対応しても大部分の人は少々迷っても会場にいき、会場でも順路を歩いていく。いろんな窓口でも後ろに待機要員がいっぱいいる。たいていの係員は立っているだけだ。このアルバイト料を休業で苦しむ飲食店などに配布してほしいと思った。いったん計画で決めたら変更しないんだろうな。

医師による問診で聞いてみた。
問診表をいちいち丁寧に見ているけれど意味はあるのか? 書かれた内容で接種不可と言って追い返すことはあるのか?というのを聞きたかったのだが、彼は「アナフィラキシーという言葉をご存じですか」などと初歩的なことから始めようとし質問を逃げる。歯切れが悪い。こちらも失礼のないように遠回しに聞くから橋本徹や田原総一郎のようには聞けず、なかなかちゃんとした答えが得られない。ようやく聞き出したのは「私の場合は接種はやめたことはありませんでした」。そうだろう。もともと持病があって不安な人は主治医に相談するだろうし、来た人は同意の署名もしているから、全員接種なのだろう。相変わらず形式を重視する社会だ。

次のコーナーに進むと、注射する人は若い女性だった。名札に陸自の階級が書いてあったが忘れた。
チクリとされ「指先がしびれませんか?」(マニアル通り?)と聞かれたが、少ししびれると言ったらどうなるのだろう? 抜いてまた差しなおされるのは嫌だから、「大丈夫です」といった。

16:29 錦橋北詰
もうここに来ることはないかな。
ワクチン1回目の時は日本橋川を神田川分岐点まで歩いた。
今回は一ツ橋から神保町へ行く。

この日は恵泉で薬物乱用講演があり、そのまえに松陰神社、豪徳寺を歩いたので疲れた。
それでも水道橋まで歩きB-ぐるで帰ってきた。

痛みは1回目と同じで腕が上がらない。
熱は2回目のほうが出て、起床時平熱35.7度から、起床時(14時間後)で0.5度、24時間後で1.5度上がった。