2021年12月5日日曜日

中村彝記念館と学習院職員住宅跡

目白近衛町とおとめ山公園を歩き、目白通りに戻る途中、ふと中村彝を思い出した。
以前、2015年ころ妙正寺川ほとりの中井駅から薬王院、七曲坂を上がって目白駅まで歩いたことがある。中村彝のアトリエのそばを通ったが夕方遅くて寄らなかった。

今回ようやく機会がきた。
2021-11-26 12:29
素敵な家の角の左の道をいく

豪邸を見ながら歩くとすぐ着いた。
12:33 中村彝アトリエ記念館
新宿区立の無料施設である。

彝はツネと読む。
意味は1 昔、中国で、宗廟に供え置いた器。2 人のつねに守るべき道。常道。
2の意味からツネと読むのであろう。

この人の名前以外にこの字を見たことがない。
あまり美術に詳しくないので、中村彝は千駄木の家を買った10年前まで知らなかった。2011年に家を買ってから引っ越すまで2年の間に、谷根千関連の文章をよく読んだ。40年前谷中に住んでいたときは全く興味がなかったのに、30年たつと知識も増え興味も老成する。


私が初めて入った美術館は、中学校で連れていかれた安曇野の荻原守衛(1879 明治12 - 1910 明治43)の碌山美術館だった。碌山は1899年、郷里の先輩、中村屋の相馬愛蔵を頼って上京、千駄木の不同舎で絵を学んだ。

彼はアメリカ、ヨーロッパで絵画から彫刻に転向、1908年3月帰国した。
本郷赤門前にあった中村屋は1907年新宿に支店を出し、2年後に現在地に拡張移転した。碌山は帰国して新宿中村屋のそばにアトリエを建てると、留学中に知り合った戸張、柳、高村、斎藤をはじめ、新たに中村彝、中原悌二郎、鶴田吾郎らが訪れ、中村屋は碌山を中心に若手芸術家が集まるサロンのようになった。

しかし1910年4 月碌山は柳啓助のためのアトリエを中村屋裏に完成させた夜に吐血。 帰国して2年、30歳で死去した。
以後、中村彝が中村屋サロンの中心人物となる。柳のアトリエは彼が結婚すると中村彝に譲られた。
https://www.city.azumino.nagano.jp/uploaded/attachment/23827.pdf

中村彝はそれまで太平洋画会のあった谷中、日暮里にいたが、
1911年、中村屋裏のアトリエにうつった(24歳)。しかし17歳の頃からの結核が悪化していく。中村屋、相馬夫妻の長女俊子をモデルに多数制作し、彼女に惹かれていった。
1915年、新宿のアトリエを出て再び日暮里に戻る。そして俊子との結婚を申し込むも反対された。
1916年、支援者により下落合にアトリエが完成、転居。

大正末期ともなると目白の西、下落合も家が建ってきたが、まだまだ別邸、畑が多い。
家々も一軒一軒名前が書けるほどゆったりしていて緑の多い閑静な土地であっただろう。

1918年、相馬俊子、ラス・ビハリ・ボースと結婚。かれはインド独立運動の志士で相馬夫妻が匿い支援した。
1921年、谷中以来の親友中原悌二郎(32歳)、結核で死去
1923年、関東大震災
1924年(大正13)12月24日、喀血、窒息により死去(37歳)

碌山も中村屋相馬愛蔵の妻、黒光に惹かれ、許されぬ恋に苦しみながら結核で亡くなったから、似ている。

記念館は旧アトリエの東に細長い管理棟が作られた。
老いた静かな男性が一人、受付にいらした。
見学者は誰もいない。

手前は「頭蓋骨を持てる自画像」
その向こうは「小女」(モデルはもちろん相馬俊子)。

こんな名品が、こんな空調も照明もいい加減な、こんな小さな無料展示室にあるのは、複製品だからである。大日本印刷が提供した高精度写真であった。

12:42
アトリエは靴を脱いで上がる。
ここは彝の没後、中村彝画室保存会が維持し、やがて洋画家鈴木誠が所有した。増改築が繰り返されていたが、新宿区が当時の部材を使って最初の姿に復元した。

アトリエの南は彝が寝ていた居間で、今はビデオ上映室になっている。
座って休もうとすると、管理棟から係の人が来て最初から巻き戻してくれた。

居間の隣は身の回りの世話をした岡崎きいの小さな納戸のような部屋だった。
彼女は死ぬまでの7年間、彼の世話をした。俊子に失恋し、結核で衰弱した人を看病し続けるとは、彼女は一体どういう人だったのだろう。

13:01
居間の前の庭。彼は庭や花壇にもこだわったらしい。

満足した記念館だった。
展示は複製品であったが、狭いながら情報量が多かった。
私のようなものには、広いスペースに1点だけ荘厳、厳重に見せる有名美術館より面白かった。
誰もいなくて無料だったし。


(以下、蛇足、というか別の話)
中村彝記念館前の道を戻る。
右側は崖である。相馬邸(おとめ山公園)の谷が続いているようだ。
芝生広場の南の谷ではなく、公園東縁、近衛町との境の谷のほうである。

次は近くの佐伯祐三アトリエ記念館(区立、無料)にいってみよう。
新宿区は歌舞伎町とは逆に、文化に理解がある。
おとめ山公園も素晴らしい。
うらやましい。

いっぽう、夏目漱石、樋口一葉はもっぱら文京区で活動したのに、それぞれの記念館は新宿区、台東区にある。サトウハチロー記念館に至っては文京区は遺族を怒らせてしまい、向丘弥生町から岩手県に移転、旧宅を利用していた記念館は駐車場になった。あの区はマンション建設には規制をゆるめ、人口増だけを目指している。文京区というのは恐らく明治大正期の文化人ゆかりの地としては23区随一と思う。しかしイメージとは裏腹に、文化に関心のない区であるのが、残念で、悔しい。いまの区長はもう4期目、サトウハチロー記念館騒動の時の区側担当者のお一人(区議会文教委員長)だった。

そんなことを考えながら下落合の住宅街を目白駅のほうに向かった。
13:04
こういう家に住んでみたかったなぁ。
不便な田舎なら豪邸を建てられるかもしれないが、大きいだけでは飽きてしまうだろう。むしろ自然と一体化した小さな家がいい。
都心の目白にあるからこそ、の満足感が大事なのだ。

腹が減った。
駅を通り過ぎて学習院に入った。
コロナ下でも東大などと違って入構規制はない。

輔仁会館の学食に入るも、コロナかつ13時半近いとほとんど人がいない。営業中かどうかも分からないほど。
自動販売機で食券を買った。メニューはテイクアウトできる3種類のみ。いい天気だったので外のテーブルで食べた。
食べ終わると 14:03

ふと、秋篠宮文仁親王妃、紀子様の父、川嶋辰彦(1940- 2021年11月4日)が先日亡くなられたことを思い出した。紀子様の婚約当時、3LDKのプリンセスと話題になった学習院職員住宅の跡に行ってみた。

野球部グランドを左に見ながら、森の中の坂を下りていく。
南門

14:32
職員住宅は南門の東側に2棟建っていたが、入居者の減少と老朽化のため2007年までにすべて取り壊された。跡地は新校舎敷地等に当てられる予定。

厩舎の前を通ると、だれもおらず、無人の廃屋のようだった。
二年間のコロナの影響だろうか、と思ったら、
静寂の中で突然一頭の馬が音もなく顔を出し、廃屋でないことを気づかせた。


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